理解は出来ない。だが共感なら出来る。
独りが三人集まって、
アナグラ、正確には、ペイラー・サカキの研究室に鎮魂の廃寺で保護した白い子犬が秘密裏に住み着いたのはつい先日の事である。
無論、レンギョウという前例があるとはいえ、外から持ち込んだ他とは明らかに異質な生物…アラガミである彼女――それは意外にも女性体だった――の存在を、保護に携わった第一部隊の者以外に知られてはならない。そうサカキが判じた故に、その存在を知るのはごく一部だ。しかし、隠されるべき当の彼女がそれを理解しているか否かは、甚だ怪しい所で…天真爛漫と純真無垢が人型をとったような彼女の行動や言動はそれこそ、数多の事象を観察し続けてきた百戦錬磨のサカキの想定をも遥かに越えて、良い歳をした男が抑えきれない好奇心にはしゃぐのに一役買っている。
なんとも痛々しい光景だと思わずあからさまに目を逸らしたのは、短くは無い年数、彼を知っているソーマで、それ以外の面々といえば、苦笑いをしながら半歩後ずさるに留めていた。ここにリンドウとセンカが居たならばどういう顔をしただろうか。引き攣りながらそう思ったのはアリサと共に彼女に人間の言葉を教える役を与えられたコウタだ。想像するに、リンドウはただ苦笑いをして煙草の煙を吐き、一方のセンカは養父の浮かれ具合に呆れて半眼にでもなったかもしれない。
さて、そんな場を作り出す彼女についた名前がシオ――――chiot。子犬である。一体、誰がつけたか、皮肉にするにも、きゃらきゃら笑って転げまわる彼女を見ては、似合いの名だと思うより他無いが、無論、それは嘲りではなく、愛しみの表現だ。
白い髪に白い肌。すらりとした手足の先に伸びる、少し伸びた爪。瞬く大きな瞳は輝く金。よく笑う口元。人に当て嵌めるには少しばかり人外の匂いが強いにしろ、学習能力を持った彼女は確かに人間に限りなく近いアラガミだった。現に、保護されてから数日、第一部隊の尽力もあってか彼女の言語能力と知能は飛躍的に伸び、今では簡単な会話くらいならば難なくこなせるようになっている。当初のイタダキマスとオナカスイタしか言えなかった頃に比べれば、その上達具合はあえて記すまでも無いだろう。
任務の空き時間を持て余していたソーマとコウタにサカキから声がかかったのは、彼女の知能が人間にして成人のそれと同等になる頃だった。
微笑みに魔王を潜ませた観察者曰く、シオを楽しいデート…つまりは食事に連れて行ってやって欲しいらしい。
食事は人間にとっても死活問題。厄介事に渋るソーマに対し、二つ返事で了承した保護者気質のコウタは他所を向いて拒否する青年の、その無駄に高い背の首根っこを引っ掴み、ついでに突っ張る膝裏に蹴りをかまして脱力させてから、跳ねて喜ぶシオと共にラボラトリを出発したが、大変だったのもそこまで。先手必勝、後には退けない、とはよく言ったもので、文句を聞き流しながら連れ出してヘリに押し込み、空母のコンテナの上に背中を叩いて落としてやれば、流石のソーマも腹を括った。彼の言葉を代弁するなら、早々に終わらせて帰る、そんな所だろう。
大人しく鈍色のイーブルワンを構えたソーマに、腰に手を当てて満足そうに頷いたコウタの隣で、その真似をしたシオが同じ格好で満足そうに頷いたのが彼の疲労を倍増させたのは言うまでもない。
そうして、食事前の討伐という名の運動を終えたのがつい先程。
「それじゃー、イタダキマス!」
横たわるオウガテイルの前で嬉々とした表情で言う少女がアラガミだと誰が思うだろう。彼女が来た時にサクヤがしみじみと言っていた言葉を思い出しながら、お世辞にも人間には美味しそうに見えない筋肉質な異形の身体に食い付こうとするシオを眺めていたコウタは、しかし、次の瞬間、感嘆の声を上げて動きを止め、くるりと振り返った彼女に首を傾げた。
まるでとても良い事を思い付いたかのように、金の瞳が瞬く。真っ直ぐな視線が注がれるのは、コウタの肩を過ぎた先の青い長身。
「そーま、いっしょにたべよ!」
風音すらかき消して響いた無邪気な声に、刹那、肩に担いだ神機が揺れた事に誰が気付いただろう。ぎりり、柄を握る手に力が籠る。
「おいおい、シオ…俺達人間はアラガミを食ったりしないんだよ」
「えー…でも…でも…」
はは、と笑って嗜めるコウタに、困惑の表情を浮かべたシオは身体ごと首を傾げて、でも、でも、と繰り返した。
だって、でも、シオは知っているのだ。だって、ずっとずっと聞こえている。
「そーまのアラガミはたべたいっていってるよ?」
吐息のような微かな疑問をもらしたのは恐らくコウタだったかもしれない。或いは、彼女の言葉が途切れた直後に大剣を薙いで吼えた狼に怯えた風の音だったのか。
遠吠えに重なる爪音の如く、硬い鍔鳴りが音を飲む。
「ふざけるな!てめぇみたいな化け物と一緒にするんじゃねえ!!」
誰が、誰と、同じなのか。馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しい。クソッタレ。嗚呼、くそ、胸糞悪い!胸中で上げる叫び声が辛うじて喉から飛び出さなかったのは、彼女に悪気が無いと何処かで知っていたからかもしれない。悪意を持たない言葉に罪は無い。否、悪意が無いからこそ罪があるのか。…そんな事はどうでも良かった。兎に角、此処から――――このアラガミから離れたい。
「…いいからもう、俺に関わるな…」
「あ、おい!」
非難を零すコウタに背を向けて歩き出せば、ぺたぺたと素足が追いかけてくる音が聞こえる。この微かな音の感知すら、ソーマには煩わしいものでしかないのだと彼女は知らないのだろう。
この身体を構成するもの全てが、災いを引き起こす。逃れられない呪いに似たものをどれ程憎く思っているか、此処にいる誰一人、知らない。アナグラにいる者達でさえ。たった一人、自分だけにしか理解出来ない感覚。そう、一人。たった一人だけだ。その感覚を、誰が理解出来るというのか。
ぺたぺた、ぺたぺた、ぺたぺた。ついて来る、足音。無邪気な気配のその後ろから、伺う視線が注がれている。ぺたぺたぺた、ぴたり。
「シオ、ずっとひとりだったよ」
不意に止んだ足音の替わりに小さな鈴が響いた。背を向けていた硬い靴音が、止む。
「だれもいなかった。だから…うーんと、だから…だから、そーまと……えーと…そーまをみつけてうれしかった。みんなをみつけて、うれしかった」
夕暮れの空母に、長く落ちる影が交わらないまま色を増していく。暁に色を変える折り重なった雲は白く、赤く輝いて、酷く美しい。風が流れる度、形を変えるそれらが影の濃淡まで操って、アスファルトに横たわる人影は僅かに揺れた。何処かで切れた橋のワイヤーが鋼鉄をカンカンと鳴らしている。
荒んだ風音。鳥すら飛ばない広い世界で、壊れかけの音を聞きながらたった一人。
誰も居ない世界で見つけた自分と同じ形のものはとても興味深いものだっただろう。それが「自分と同じようなもの」なら尚更。だが、自分と違い、彼女は今まで意思疎通をはかれる他種族との接触を持たなかったが為にしがらみというものを知らなかった。…それが、大きな違いだ。だからこそ、相容れない。
「…うーんとだから、だから、えーと…」
続く言葉を見つけられないまま、意味を成さない呻きを零す彼女には一瞥もくれず、静かに歩き出したソーマのブーツが高く鳴った。
「…あいつ…何なんだよ…」
朱色の中に姿を消した青い背中を見送ったコウタは己の神機を担いで傍らのシオを見やり、息をつく。
「兎に角、先に食べちゃえよ、シオ」
言えば、頷いているのか、それとも頷こうとして失敗したのか。白い面は俯いた。
「……イタダキマス…だな…」
少しばかり気落ちした声色は彼女には珍しいものだ。少なくとも、出会ってからこれまで、これ程、落ち込んだ声を彼女の口から聞いた事が無い。いつでも笑って、時に突拍子も無い事をして、そしてまた笑う。それがシオだ。この有様を見たなら、シオを妹のように可愛がっているサクヤやアリサが何を言うか。思うだけで身が震える。勿論、この事態はコウタの所為ではないのだから、責められるのはソーマだが、彼女等の今にも神機の銃口を向けてきそうな眼光に晒されるのは例えそれが己に向けられたものではなくとも真っ平御免だ。
ぶるり。一つ、身震いをして揺らめく海を眺めた茶色の目が強く西日を反射する水面を見詰める。また一つ、溜息。
ソーマの挙動不審具合や単独行動、個人主義は今に始まった事ではないものの、リンドウとセンカが消えて以降の彼は以前よりもそれが顕著になったようにも思う。彼の強さは重々理解しているから、己で責任を取れる範囲でならば文句は無い。あれで中々冷静な判断をする奴だ。駄目なら駄目だと撤退する潔さはある。しかし、問題はそこではないのだ。
「…あーあ…センカなら、何て言ったかな…」
「セン、カ?」
溜め息交じりの言葉がうっかり彼の名を大気に溶かし、耳聡くそれを汲み上げた少女は響きを辿って、もしゃもしゃと貪っていた獲物から顔を上げた。
空腹が満たされてくるにつれ少しは気分が上昇してきたのか、煌きを取り戻した金色に笑いかけて、コウタはその白い頭をふわふわと撫でる。
「うん。センカ。俺の親友」
「し、ん…ゆ…?」
「一番の友達」
ともだち、トモダチ。口の中で反芻する彼女にまた笑い、薄紫が混じり始めた空を見上げた彼は空母の縁から投げ出した足をぶらつかせた。
「今は此処にいないんだけどさ。絶対帰ってくる、って…信じてるんだ。口には出さないけど、ソーマの奴だってきっと信じてるよ」
そうでなければ、捜索の打ち切りが混乱を生む中、どうしてあんなに早く立ち直れたのだろう。
コウタにはセンカの残した思い出があった。サクヤにはコウタの激励があった。アリサにはサクヤの激励が。だが、ソーマは誰とも接触せずに立ち直って見せた。それは、彼がセンカの言葉を信じると決めたからに他ならないとコウタは思っている。自力で立ち上がるその強さは素直に感嘆に値するが、しかし、裏を返せば、彼にはそれ以外の何も必要が無いという事になる。それは彼の孤独を示す、酷く哀しい現実だ。
残された言葉を糧に立ち直ったのだとしても、それは遺恨に縋るに近いもので、所詮、過去は過去でしかない。未来を見る気力を与えてくれる訳でもなく、共に歩んでくれる訳でもない。それでも、彼は傍にいる仲間達には目もくれないのだ。それどころか、今度は遠ざけようと躍起になっている。――――結果、人が溢れる中、彼は常にたった一人。手を伸べる仲間にも背を向けて、唯一、何時の間にか傍にいる事を許していたらしい銀色も失ったまま。
そんな彼に、さっきの自分はどう言えば良かったと言うのだろう。…センカは、どう言ったのだろう。気付けば共に行動している姿を少なからず見かけるようになっていた彼等だ。コウタが行方を知らなければ、ソーマが知っている。それくらいにはセンカと親交を持っていたのだから、そこに何か、自分達とは違う認識の共通点があったのは間違いない。
彼等は何を隠して、何を思い、何を通じ合っていたのだろう。
夕暮れの中、冷え始めた風に吹かれて不思議そうに小首を傾げるシオの頭を再度、撫でた彼は後日、とある学者の陰謀染みた策略によってその片鱗を知る事になる。
現極東支部長ヨハネス・フォン・シックザールとその妻であり、マーナガルム計画最初にして最後の検体、アイーシャ・ゴーシュの間に生まれたP73偏食因子を持つ人間、ソーマ・シックザールの過去を。
別に端折っても良かったこのイベントですが、やっぱり新型と第一部隊の絆的な意味合いで残してみました。
ソーマさんの云々については原作でそこそこ語られているので考察は飛ばすとして、後半にコウタさんのソーマ氏考察をくっつけてみました。
コウタさんとソーマさんというのはちょっと正反対っぽい所があるようで似ている部分がある、というか…二人とも、「一人で立ち直れる」という意味では同じ人種です。違っていくのは「仲間を必要とする」か「仲間を遠ざけようとする」かの所からで、根本的には二人とも自分の心情に自分でケリをつけられるタイプだと思います。
で、仲間を必要とするタイプのコウタさんはまだ帰ってこない新型さんに思いをはせてみる訳です。親友、とか言って「まだ死んでない」と信じている感覚を自分に言い聞かせてみていたり。
そんな彼に追い討ちかけるように博士の真相爆弾が投下です。無論、そこは端折りますがね!(オイ!)
2011/12/17 |