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 きらきらひかる、ゆきのいろ。

雪花の面影

 シオは、失敗したのだ、と瞬時に理解した。何故なら、今の今までにこやかに笑っていたアリサが途端に泣きそうな顔をしたからだ。表情を無くした白い面が青褪めて、呼吸をし損ねた喉がひゅう、と鳴る。これを訊くのはそんなにも悪い事だったのだろうか。思い、口を開けたと同時に、歪な笑みを浮かべた彼女はラボラトリから出て行ってしまったから、仲直りのしるしに頭を撫でる事も出来なかった。
 あれは、何だったのだろう。
 シオにとって、先の外食の折、コウタから聞いた話は非常に興味深いものとして認識されている。コウタやソーマが「ぜったいにかえってくる」と信じている、恐らくは人間。以前、廃寺でコウタが紡いだ名が示すものも、同じ時にソーマが「早く帰って来い」と言っていた相手も、その人間で間違いないだろう。―――― 一体、誰なのか。それが人間なのか、そうでないのかも含めて、シオはとても興味があった。あったからこそ、いつも何でも教えてくれるアリサに訊いてみたのだが、どうも訊いてはならない事だったらしい。思えば、「緑でいっぱいの家」にいる、きらきらしていた「あれ」も、最後に会った時に同じような顔をしていたかもしれない。そうして、秘密だ、と言われた事は今もずっと言われた通り、口に出さずに胸の小箱にしまってある。
 でも、どうしても気になるのだ。「センカ」とは一体、誰で、どんな生き物なのだろう。
 ぽつん、と一人、計器ばかりの部屋に残されたシオは落とした視界で己の手足を見る。静まり返った部屋の中。沈黙は水中を泳ぐようだ。身体に鉛を嵌める水圧の如く重みを増した手を緩慢な動作で動かして、項垂れ、その時。
「あら、シオ一人なの?」
「サクヤ!」
 微かな空気の音を響かせて開いた扉からヒールの音を引き連れて入室してきた彼女は、肩口で切り揃えられた艶やかな黒髪を揺らして朱色の瞳を瞬かせた。飛び跳ねるように抱きついてきた白い子犬を緩く抱き締めて、辺りを見回し、傾げる小首。
 アリサが、いると聞いて来たが、これは一体、どうした事だろう。所用で出ているというサカキが居ないのは理解出来るとして、彼が留守の間、シオと共に居る筈のアリサが影も形も見当たらない。真面目な彼女が役目を放棄するとは考え難く、しかし、扉を開けた当初のシオの少し項垂れた様子からして、この場を離れてそれなりの時間が経っているのだろうと予測がつく。さて、これは本当に、一体、どうした事だろうか。
 思いながら、くいくい、と腕を引かれて、そちらを向けば、大きな金色がぱちりと瞬いていた。
「あのな、あのな…えっと…」
 これは、珍しい。サクヤの朱色が緩く見開かれて驚愕を映す。
 純真無垢な性格がそうさせるのか、シオの言動には時折、容赦が無い。言ってはならない事も、怒る気も萎える程すっぱり笑顔で言ってしまうのが彼女だ。――――その彼女が、言い淀んでいる。
「なあに?シオ、怒らないから言ってみて?」
 強面のソーマにも果敢にじゃれ付きに行く彼女が言い淀む程の事とは何だろうか。サカキの部屋の計器を壊したとか、そんな事なら素直に謝ってしまいなさい、と言えるし、誰かと喧嘩をしたのなら、仲直りの方法を教える事も出来るが、どうやらそういう事でも無いように思う。
 緩やかな促しに暫く、唸って口をもごつかせていた彼女は数度、唇を開け閉めした後、優しく微笑むサクヤの前で漸く声を漏らした。

「『センカ』って、なに?」

「え…」
 数瞬のそれは、刹那の慟哭だったかもしれない。微笑んでいた口元が、笑みを消す。――――シオが、何故、彼女が彼の名を知っているのだろう。
 サクヤが知る限り、第一部隊の面々が彼女の前で彼の名前を紡いだ事は無かったはずだ。彼女が此処に来た時には既に居なかった彼との接触があったとは思えず、ならば、誰かにその名を聞いた事になる。
「ねえ、それは、誰に聞いたの?」
「……コウタ」
 腰を屈めて視線を合わせてやれば、少しまごついたように視線を彷徨わせて、またもごもごと動く小さな唇。声までも常のそれからはかけ離れて小さく、萎れているものだから、傍から見れば、上目遣いで顔色を伺いながら佇むシオが、答えに満足そうに頷いたサクヤに緩やかな叱責を受けているようにも見える。無論、それは声音の静かさから来る錯覚であり、実際にサクヤがシオを責めている訳ではないのだけれど。
「そう。アリサにも私に訊いたのと同じ事を訊いた?」
 凪いだ声音に返るのは控えめな首肯だ。ふわりと白い髪が空気に踊る。怒られると思っているのか、今度こそ俯いてしまった頭を優しく撫でて、サクヤは漸く淡く笑みを浮かべた。
 成る程。それならば納得できる。友人第一号を自負している彼であればセンカの名を零してもおかしくは無い。今、第一部隊の中で比較的冷静にそれを語れるのはコウタくらいだ。現にアリサは耐え切れずに部屋を辞してしまっていて、自分も動揺していないとは言い切れず、ソーマはきっと気の無いふりをしながら静かに話題を終わらせるのだろう。
 此処には居ない人物を、確かに仲間として心に留めている。それはあの事件から幾度と無く思い知らされているコウタの強さの片鱗だ。シオを仲間と認めているからこそ、彼はセンカの存在を吐露したのかもしれない。
 シオは、仲間だ。アラガミであろうと、なかろうと。彼女には仲間の事を知る権利がある。
「…センカはね、私達の仲間なの。銀色の髪が凄く綺麗で、ちょっと不思議な子なんだけど、とっても強いのよ。今はリンドウっていう人とレンギョウっていう名前のヴァジュラと三人で…ちょっと遠くにおでかけしてるの」
「おでかけ?イタダキマスか?」
「うーん…ちょっと違うけど…リンドウならデートって言うわね、きっと」
 言ってから、見上げてくる金色の瞳に視線を合わせて、ああそうだわ、三人じゃなくて二人と一匹ね、と言い直した彼女は朗らかに笑った。
 ゆっくりとソファに白い痩身を導き、隣り合って座れば、二人分の重みにぎしりと音が鳴る。いつものように脚をぱたつかせずに静かに座ったシオはやはりこの話題に並々ならぬ興味があるようだ。真っ直ぐに見詰めてくる視線が話の先をせがんで、待ちきれなくなった唇が声を奏でる。
「りんどー?なに?」
「リンドウはね、私達のリーダー…仲間よ。センカの事がだーい好きな黒い髪の男の人。いっつもセンカを追い掛け回して、あの子を困らせてたんだけど…あの子も嫌じゃなかったみたいだから…きっとツンデレなのね」
 なんとも意外な一面だ、とサクヤは思っている。他の面々も同じだろう。何せ、リンドウといったら昼夜問わず、顔を合わせれば必ずと言っても良いほどセンカを口説き倒し、けれど、当のセンカは欠片も靡く素振りを見せず、寧ろ、迷惑そうにしながらも、決して本気で嫌悪していた訳ではなかったのだ。口説かれながら、居心地悪そうに身動ぎする彼の姿は綻ぶ前の露に濡れた花の如く。リンドウでなくとも情を煽られる色香を放ち、うっかりそれに中てられた男性陣が鼻血を垂らして女性陣の弾丸の餌食になったのは一度や二度ではない。そんな姿を見せる彼があの男を嫌っているなどとどうして言えるのだろう?
 しかし、困った事に綻びそうな花を愛でるようにこちらまで暖かにさせるセンカと違い、あれ程自分の抱く想いに疎かったリンドウはそんな艶めいた変化にばかり聡くて、多少でも脈があるとわかるや、磨き光るは溢れ零れる愛の囁き。調子に乗り過ぎれば、相手の気も知らずに口付けなんぞをせがんだりするものだから、いよいよ困り果てたセンカはそれこそ獣――そう書いて、けだもの、と読む――に追いかけられる兎のように逃げ回る。当然、逃げられれば追うのが獣の習性だろう。捕まっては逃げ、逃げては捕まり、最終的に逃げ込んだ先で獣は彼の実姉と幼馴染の容赦無い雷をもって大地に沈んで、これにて終幕。一件落着。勝負はまた明日。
 全く、懲りない男である。柔らかく膨らんだ蕾が漸く緩く綻ぶ所だと言うのに、それを急かすなど無粋にも程があるというもの。だからこそ、センカの貞操は自分達が守らねばならない。せめて、無理矢理、花弁を開かせられる事の無いようにしなければ。
 彼女が密かに握り拳を作って決意を新たにした横で、その腕を緩く引っ張ったシオは妙な熱気に小首を傾げながら口を開いた。
「サクヤ、くろって、なにー?」
 ぱちり。瞬いて問うて来た彼女に、今度はサクヤが目を瞬く。
「あら。アリサ達に教えて貰わなかった?」
 青や赤、緑や黄色は知っているようだったからその辺りも一通り教えていたと思ったが、どうも教えきれていないものがあったらしい。世界に溢れる色の名を全て教えられる訳ではないにしろ、表現する術を知らない事は視界に映るものを見る楽しみが一つ減るに等しい事かもしれない。
 上体を曲げる程の勢いで頷いたシオにサクヤは己の髪を一房抓んで見せた。――――黒ならば、実に教えやすい。自分にとってはとても身近な色だ。
「黒ってね、私の髪の色よ。少し質感は違うけど、リンドウは私と同じ髪の色をしているの」
 貴方とは正反対の色ね。そう言って横から伸びてきた手の好きなように髪に触れさせている彼女は目を細めた。
 くろ。くろ。黒。黒。知っている。見た事が、ある。同じ色の髪をした「それ」を、知っている。けれど、「それ」は人間では無かった。シオはそう脳裏で呟く。口には出さない。それは「あれ」との秘密だからだ。でも、「それ」は人間ではなかったけれど、何故だかとても引っ掛かる。
 白い指から零れるサクヤの黒い色。いつも「緑がいっぱいの家」にいる「あれ」を抱き締めていた「それ」の色だ。いつでも「あれ」と一緒に居て、シオが遊びに来ると笑って相手をしてくれた。飛びついてくる小さいヴァジュラと転がり回って、凄く楽しかった。思い出して、口元が弧を描く。
 「リンドウ」は「黒」。「それ」も「黒」。「あれ」は「きらきら」で…それなら「センカ」は何だろう。先程、「ぎんいろ」と言っていた気がするが、シオにはその「ぎんいろ」が全く分からない。
「サクヤー、ぎんいろって、なにー?」
 ふと気付いた疑問に、彼女は手を放してまたサクヤの腕を引っ張ったが、朱色の双眸は予想に反して困惑を映して揺らめいた。
「え?ええっと…そうね…センカの色だけど…うーん…でも、普通とはちょっと違うのよねぇ…」
 彼の持つ色は、例えば、アルミや鉄といったその辺りに溢れる鋼鉄の色とは少し違う。同じ銀色でも彼の銀色はふわりと風に翻り、光の加減でその一筋一筋が虹色に光るような、耽美な煌きだ。ただ冷たいだけの鈍色に例えるなど愚の骨頂。あの美しさは一括りに出来るようなものではないとサクヤは思う。だが、では、他にどう説明するべきか。シオの髪は白であるし、似たような色合いのソーマの髪も例には挙げられない。アリサの銀髪は、やはり少し違うような気がする。サカキも同様。さて、どうするか。
 シオが知っていそうなものを探すべく思考を巡らせて、彼女は己の語彙力の低さに唇を噛んだ。もどかしい。綺麗だ、という言葉がこんなにも安直に思えたのは彼の戦い方を見て以来かもしれない。組んだ脚の爪先が苛立ちに揺らぐ。僅かな体重の異動に、ぎしりとソファが声を上げた。
 光が滑り、大気に燐光を散らす銀の髪が美しいというのは最早、言うまでもない。砂を孕む風に嬲られながらも、羽根が踊るかの如く柔らかく揺れる彼の艶やかな短い髪は長くなればきっと輝く光の川のようだろう。白い面に僅かに影を落として滑らかな肌を撫でる燐光は、ふわり、舞い降り、触れる前に踊り逃げる柔らかな白銀の花の如く。
 はたと思い至った彼女は細い指先を頤に当てて虚空を見た。――――脳裏に描いた白銀の花。それは、
「雪、かしら」
「ゆき?」
 雪は知っている。以前、シオが住んでいた場所の辺りを白く覆っていた、空から降ってくるふわふわの事だ。それが、「センカ」の色なのだろうか。
 しきりに首を傾げる彼女に、サクヤの朱色は優しく瞬く。
「そう。雪。きらきら光る雪の色…それがセンカの色よ」
 柔らかく、美しく、羽根のように舞い落ちて、儚く溶ける雪の色。彼そのもののようなその色は、恰も朧な月光に煌く如くに光を放ち、大気に溶けて行く。そう、それは雪だ。今にも消えそうな憂いを帯びて、けれど、鮮烈に記憶に焼きつく。優しく光る、銀の白雪。
 きっとシオも見蕩れちゃうわ。そう言いながら、とても嬉しそうに笑って頭を撫でてくる彼女の顔は、なんて穏やかなのだろう。頭の中で小さく呟いて、シオは直に「そういう気分にさせてくれるもの」を思い出した。
 「リンドウ」は「黒」。「それ」も「黒」。「あれ」は「きらきら」で、「センカ」は…
「きらきらひかる、ゆきのいろ」
 知っている。その色を持っているものを、自分は知っている。「あれ」はとても綺麗で、だから、砂埃ばかりの世界でとても目立った。きらきらしている「あれ」はとても柔らかくて、ふわふわしていて、抱きつくとぬくぬくで、ぎゅっとすると嬉しくなった。知っている。知っている。よく覚えている。凄く綺麗で強くてきらきら光る雪の色。その色は「黒」と「アラガミ」と、三人で一緒に居るのだ。あの「緑でいっぱいの家」に。
 少し俯いた視界に零れてくる己の白を眺めながら、彼女は唐突に理解した。
 無意識に持ち上げた指でそっと唇に触れ、脳裏で聞くのは銀の鈴の音。――――此処で僕達に会った事は誰にも言ってはいけない。いいな?秘密だ。誰と、どれだけ親しくなっても、何を訊かれても、何も言ってはいけない。
 そうだ、これは「秘密」だ。シオは物思いに耽るサクヤの隣で、今度は両掌を唇に当てて思う。上気する頬。湧き上がる歓喜に叫び出さなかった事を褒めて欲しい。
 こんな偶然を信じられるだろうか。自分が初めて優しさと温もりを知ったあの「緑でいっぱいの家」で笑っていた黒い「それ」は「リンドウ」で、その隣にいた、きらきらでふわふわでぬくぬくの「あれ」は「センカ」だったのだ!



シオ、やっと理解するの巻。シオさんは意外と賢い子なので、温室夫婦が仲良くKIAカップルだと気付きました(緊張感の欠片も無い言い方だな!)
説明する、という行為は意外に難しいもので、字書きとしても語彙の足りなさに歯噛みする事はよくあります。「綺麗」が「どう綺麗」なのか説明するのにも、数多の表現があるのでやきもきするものです。…というのをサクヤ姐さんに代行してもらいましたが、勿論、本題はそこではありません。
ポイントに置いてみたのはシオさんの観点と人間(サクヤさん)の観点の違いです。シオにとってご夫婦はアラガミであって、人間ではないので、話題のはじめは人間的な表現を当て嵌める対象にはなっていません。変わって、サクヤさんは「人間としての彼等」しか知らない、又は認識していないので人間的な表現しか当て嵌めていません。なので、所々に認識の食い違いのようなものが起こっています。
しかし、そんな事より何より(ぇ)、理解してもちゃんと言いつけを守ろうとする良い子のシオさんに拍手(ぇええ)

2012/01/09