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「きちきち、ちくちく、やだー!!」
 泣きながら飛び込んで来た彼女はそう叫んでセンカを緑の褥に押し倒した。

かくして、子犬はヒトの思いを知る

 支部に戻るまではもう会う事は無いと思っていたものが何故、此処にいて、抱きついているのだろうか。おまけに何がそんなに嫌なのか、わんわん泣きながら力いっぱい抱きしめてくるものだから、そろそろ背骨が危ない。
 ちらり。飛沫が煌く噴水を見れば、長い脚を組んで縁に座ったリンドウが切れ長の麹塵を緩く見開いてこちらを見ているばかりで、手を伸べてくれるような気配は全く無かった。その横では行儀良く座ったレンギョウが同じ顔をしている。彼等も酷く驚いたのだろう。何せ、傍らに立っていた筈の自分は何故か突然、轟音を引き連れて弾丸の如く飛んできた白い物体に攫われて、何時の間にか彼女もろとも植え込みに倒れているのだ。
 白い少女の頭を撫でながら聞くのは、清廉な噴水の音。呆然としたままの男はまだ剥きかけのオレンジに親指を潜らせたまま、固まっている。
「…落ち着け。泣くばかりでは分からない」
「うーうぅぅー…」
 やだやだちくちくやだやだ。念仏のように唱える彼女はどうやら本当に嫌な経験をして来たらしい。何事にも好奇心旺盛な瞳を向け、体験してはまた目を輝かせる彼女にしては珍しい事だ。頭を擦り付けてしがみつく様は感情の許容量を越えてしまった子供が母親に縋っているようにも見える。それを宥めるべく只管、彼女の頭を撫で、背を緩く叩くセンカも妙に手馴れたように見えて…硬直を解いたリンドウは吐息で笑った。隣では親を取られた錯覚でもしたのか、レンギョウが少し不満げに尻尾を振って鼻息を漏らしている。
 彼女がセンカを殊更、気に入っているのは今に始まった事ではない。ほぼ毎日と言っても過言では無い程、事ある毎に温室を訪れていた彼女は来る度に彼に抱きつき、愛情を強請って、教えを請うていた。今のこれも少しばかり混乱しているが、その一つなのだろう。第一部隊に保護されてからはそういった機会は無いだろうと思っていたのは甘かったようだ。
「きちきち、やだー、ちくちく、やーだー…」
 最早、鼻を啜りそうな声色。宥めにかかるセンカの背骨も窮地に立たされて…その時になって漸く、リンドウは重い腰を上げて転がる白と銀に近付いた。
「こーら。お前がそんな風に抱き締めたら、こいつがへし折れちまうだろ」
 ぽん、と銀色の胸に擦り寄る白い頭に手を置いて言ってやる。こんな事で自分の愛しい人がこの世から消えてしまったら流石に笑い話にもならない。
 どれ程、細く見えようと、どれ程、可愛く見えようと、彼女は暦としたアラガミだ。同じアラガミとはいえ、無抵抗のセンカがこの様に力の限りに締め上げられて――必死な彼女には悪いがこれは締め上げているようにしか見えない――平気で居られるようには思えない。実際、彼はほんの少し苦しそうな顔をしているのだ。
 頭を撫でてやれば、少し落ち着いたのか、緩んだ力に銀色の麗しい唇から微かな吐息が漏れる。
「…うー…」
「何があったか言ってみろ。な?」
 リンドウの言葉に添わせるようにセンカに肩をなでられ、呻きながらもぞもぞと身を起こした彼女はこれもまた珍しく眉をハの字にして草の上に座り込んだ。


「成る程な。洋服を着せられそうになって逃げ出した、と……そんなに嫌なもんなのか?」
 一通りの話を聞き終えたリンドウはぼろぼろながら一応、着られるものを着用している己の姿を一瞥し、麹塵を瞬かせながら首を傾げた。胡坐をかいたその隣で、ちょこりと膝を揃えて座ったセンカが控えめに頷く。
「人間社会においては重要でも、アラガミにはあまり意味の無いものですから…」
 そもそもアラガミの服というのは人間の観点でそう見えるだけの、オラクル細胞が変容した部位である。だからこそ、サリエルのスカートは結合崩壊するのであるし、ハガンコンゴウの羽衣も結合崩壊するのだ。つまり、人間的に言うならば、アラガミは服というものを着用していない事になる。もっとあからさまに言えば、全裸と言っても良い。そういう形のものなのだ。寧ろ、彼女のようにオラクル細胞が変容したのではない布を纏っている方が珍しい。恐らく、見かけた人間の真似をしているだけなのだろうが、その「人間を真似る」という行動すらも大変に珍しいのである。
 嗚呼、きっとサカキは狂喜乱舞しているのだろう。鼻歌を歌い、スキップも小踊りもしている四十七歳を脳裏に描いて、二人は思わず半眼になった。
 虚空を見る事、数秒。妄想を振り払うように頭を二度振って話を戻せば、例え、彼女が人間が作り出した布を一枚纏っていたとして、洋服という形の物を身につけられるかといえば、答えは否だとセンカは断言出来た。
 センカが纏っているのは勿論、人間が作り出した布から作られた洋服だが、それは昔からそうであったから慣れてしまっただけであって、そうでなければ、確かに、きちきちでちくちくな着心地の悪い事この上ないものであったに違いない。更に、センカは服を着る事が当たり前の社会の中で育ってきたが、彼女は違う。たまたま、見かけたものの真似をしてみただけの話。着なければならないという常識が根底にあった訳ではないのだ。それが突然、着なければならない、などと言われて迫られれば逃げたくもなるだろう。――――サカキも存外、不器用で無策な面があったものである。
 しかし、このまま帰せるかといえば、それもまた否。此処に飛び込んできたからには、それなりに諭して送り出さねばなるまい。
 そっと息を吐いた銀色を、苦笑を零した麹塵が横目で見た。
「よく聞け」
 透き通る如く通る声音に少女の背筋が伸びる。こういう言い方をする時、決まって何か大事な事を伝えられるのだと知っているのだ。朗々と声が渡る。
「いいか、誰かと関わった時点で、お前はお前の思う通りに出来ない事がある事を知らなければならない。楽しい事も、嬉しい事も、あるだろう。だが、自分の感情を他人に押し付けてはいけない。自分の常識を、相手の常識だと思ってはならないし、相手の社会の最低限は守らねばならない。…お前はきちんとお前の常識の中で、ある程度の生活はさせて貰っているだろう?それならば、相手に合わせねばならない部分が生活の中の何処かにある事を知っておかなくてはならない。……今回、お前はどうして此処へ来た?」
 問われ、蠢くように歯切れ悪く動く唇。音量はとても小さい。
「…きちきち、ちくちく、やだから…」
「そうか。では、どうして彼等はお前にきちきちちくちくを着せようと思ったのだと思う?ただお前の嫌がる事をする為か?」
「う…ちがう…」
 静かな白藍に見詰められて俯いた金色の瞳が数瞬、彷徨い、投げ出した足がふらふら揺れた。
 即答したものの、さて、理由などさっぱり分からない。ただ嫌がらせをしたい訳ではなかったのだと理解はしているが、それがどういう意味を持っていたかなど考えもしなかったのだ。
 うう、とまた唸って、少女はあの場所にいる人間達を思い起こした。
 皆、色々な色の布を身につけていたように思う。それは彼等だけではなくて、外にいる時に見かける人間達も同じだった。赤、青、黄色、緑、黒、紫、白…沢山の色の、洋服。綺麗な布は確かに今身に着けているものと同じものだけれど、自分が纏うものは彼等と比べて少しぼろぼろのような気もする。少なくとも、こんな風に破れていたりなどはしなかった。つまりは、自分達と同じものを着せてくれようとしたのだろうか?それが、人間の常識だったから?
「…えーと…みんなきてるから…?」
 朧げな答えを形に出来ないまま不安げに揺れる双眸がちらり、リンドウを見て、またセンカに戻る。――そういえば、彼等も同じような物を着ている。
 萎んだ花のような白を眺め、白藍が淡く微笑んだ。
「少し、違うが…似たようなものか。人間社会において服を着るというのは最低限の常識だ。お前がそのような姿では彼等を困らせてしまうよ」
「いまより?」
「今より」
 すぐさまはっきりと返されて、彼女はまた俯いてしまう。
 勿論、彼等を困らせる事など本意でなどある筈が無い。だって、彼女はサクヤもアリサもコウタもソーマも博士も好きなのだ。彼等を困らせて、悲しい顔をさせるなんてしたいと思う訳が無い。その為には彼等に倣って服を着るのが一番なのだろう。でも、でも、
「…でも、ちくちく、やだ…」
 どうしたってあの感覚は慣れないし、これからも慣れる事はないだろう。気持ち悪くてずっと着てなどいられない。
 また振り出しに戻ってしまった言葉についに目を吊り上げて怒るかと思った銀色は、けれど、少し困ったように薄い笑みを見せるだけだった。柔らかな声音が頬を撫でて過ぎる。
「うん。嫌だな。誰にでもどうしようもなく嫌なものはある。それなら、お前はどういうものならちくちくしないで着ていられるんだ?」
 着ていられる、ちくちくしないもの。言われてみれば、ちくちくするから嫌なのであって、そうでなければ別に彼等と同じような服を着たって構わないのだ。――――彼女はそこで漸く考え始めた。ちくちくしないもの。今纏っているこれも、少しちくちくする。だけど、雪が降る場所で気紛れに纏ってみたアレはちくちくしないで着ていられた。…アレは何だったか。アレは、アレは、そう、アレは他のアラガミの物だった!
 ぱっ、と煌いた金色が顔を上げ、きらきらと白藍を見返した。
「アラガミだったらちくちくしないぞー!」
「よりによってアラガミ素材か…」
 あーあ、予想はしてたが、可哀相に。またサカキが第一部隊に無茶苦茶な注文をするのだろう。思わず天を仰いだリンドウの隣で、仕方ありません、と囁く声がする。
 にこにこ満面の笑みを浮かべるアラガミの少女の頭を優しく撫でてやって、白藍の瞳を細めるのは銀色。
「それなら、それを伝えにいかなければな」
 自分はあまりに拙いから、彼女のように器用に周囲と馴染む事が出来なかったけれど、彼女は上手くやっているようだから、そのまま優しい時間が続いていけば良いと思う。もっと沢山の言葉と沢山の感情を知っていけば、きっとサカキが望んだような未来が来るかもしれない。終末捕喰は起こらず、ノヴァも生まれない。人間とアラガミが共存するような未来が。恐らく、サカキもその可能性を彼女に見ている。
 さて、そろそろ話は終わり。彼女を送り出さなくてはならない。第一部隊も捜索に出ている頃だろう。
 誰からとも無く立ち上がり、銀色がそっと細い背を押そうとした刹那――――笑んでいた筈の彼女が再び眉尻を下げて彼を見やった。
「あのねっ、もいっこ」
「?何だ?」
 もう問題は解決して、彼女も納得したと思っていたものだが。小首を傾げた漆黒と銀色に、金の瞳は少しばかり泳いで口を開いた。

「そーま、いっしょにたべよ、っていったら、おこった。どうして?みんなでイタダキマスはたのしいのに、どうして?」

 間は、きっと、思案したというよりも、その発言の意味合いの深さに沈黙しただけだったのかもしれない。僅かに目を見開いたセンカの耳に、そりゃ鬼門だ、と呟いた男の声が矢鱈と響いて残る。
 彼女が言う、食べる、はつまりは、アラガミを食べる、という事だ。それを、ソーマに提案した。それは――――嗚呼、確かに鬼門だ。殊、己の体の作りに嫌悪感を抱いている彼にとっては、例え、彼女に悪気が無かったとしても激昂するに足る禁句であっただろう。器用とは言い難い彼の事、捕食形態でアラガミを屠り、場を流す、というその場しのぎの芸当すら出来なかったに違いない。
「……僕がさっき言った事を、覚えているか?」
 言いながら、柔らかく髪を撫でるのは白魚の指先。
「自分の感情を他人に押し付けてはいけない。自分の常識を、相手の常識だと思ってはならない、と…そう言ったな」
 正面から見据えられて、また少女の背筋が伸びる。だが、銀色の声音はただ静かなまま、恰も真綿か羽のように温かく彼女の耳朶を撫でていた。
「…そーま、こまったか。こまったから、おこったか?シオ、そーまのやなことした?えらくなかったか?」
「偉くなかったらどうしたら良いと思う?」
 返されて、己をシオと呼んだ少女はゆっくりと俯いた。
 自分がソーマの事を考えなかったからソーマは困ってしまったらしい。困って、そうして、怒ってしまった。そうさせてしまったのはシオで、だから、シオは偉くなかった。ソーマに嫌な事をしたシオは偉くなかった。服を着たくなくて飛び出してしまったシオも、皆を困らせて、偉くなかった。
「えーと…えーと…」
 偉くなかった時は、どうするのだったか。偉くなかった時は、偉くなかった時は…ええと、そうだ。思い出した。アリサとコウタが教えてくれた、大事な言葉。
 起きたら、おはよう。起きてから会ったら、こんにちは。寝る時は、おやすみ。何かして貰って嬉しかったら、ありがとう。偉くなかった時は、

「ごめんね、って、する」

 はい、良く出来ました。
 ふわりと笑った銀色と一緒に笑った漆黒が、柔らかくて小さな細い手とは違う、骨ばった大きな手で頭を撫でてくれて、シオは弾けるように笑って駆け出した。
 目指すのは雪が降るあの場所。きっと、皆、そこにいる。
 さあ、仲直りをしに行こう!



子犬、暴走するの巻。…博士の大失敗です。
原作でどかーん、と逃げ出した彼女がどこをどう行って廃寺に隠れたのか、というのはあまり触れられませんでしたが、とりあえず、そこを使って一回、里帰り(?)させてみました。反省に辿り着くまでの経緯というのも語られていませんでしたしね!
シオさんにとって新型はお母さんポジションです。こう、毛玉が新型を見るのと同じように新型を見てるというか。なので、諭される時はちゃんと言う事きいて座ります。必然、隊長はお父さんポジション。チッ(舌打ち!?)
アラガミの洋服云々はお馴染みの想像であり捏造ですが、大方、こんなものではないかと思います。だから、シオさんは洋服を窮屈に感じたんじゃないかな、と。そもそも、部位破壊がダメージになる服なんて、アラガミが「いやんお尻が見えちゃう!」なんて恥らう訳じゃあるまいに、ちょっとただの衣服としては考えづらいですし。そうなるとシオの髪のような、オラクル細胞が変容した「部位」として考えるのがいいと判断した次第です…てへっ(最後ごまかした!)

そんなこんなで反省した子犬さん。仲直りシーンはかっ飛ばします(オイ!)

2012/01/22