目を逸らし続けるには、その痛みはあまりに大きすぎて。
時限の園
風の如く軽やかに噴水の広場を飛び出し、温室から気配も消してしまった少女の白い後姿を見送りながら、センカが、ほぅ、と息を吐いたその時だ。喉を鳴らして笑う声が、甘く耳朶を擽った。
「…何でしょうか…」
隠すつもりが無いのか、それとも、隠しているつもりなのか、声を押し殺していながら顔は明らかに笑っているリンドウを見上げて憮然と言い返したセンカは、その声音すら面白くなさそうな様子だったのかもしれない。耳に届く笑い声が一層、大きくなる。嫌な声ではないと思うのは、それが心底、微笑ましいと表しているからだろうか。或いは、風に運ばれる声色が酷く優しく、甘やかな所為か。
「いや…なんだか、あいつの母親みたいだったと思ってな」
「そうでしょうか…?」
良く分からない。そう返せば、リンドウは鷹揚に頷いて陽だまりのように笑う。
「おう。レンギョウが不貞腐れてたぞ?」
言いながら、俺も寂しかった、と途端に蕩ける声音で囁いて伸ばしてくる腕からするりと逃げた銀色は、流れるような動作で緑の草の上から、石畳の道に降り立った。後ろから、残念そうに肩を竦めて近付き、再び隣に並ぶ男の肌から感じる熱が近い。香る、淡い煙草の匂いとここ数日で染み付いてしまった土草の香り。そして水の香。呼吸の音。いつもの、抱擁の距離。だが、常ならば身体を包む布の一枚さえ鬱陶しいとばかりに痩身を引き寄せる硬い指先は、柔らかな肌に触れないまま、動きを止めている。
シオ。彼女が己をそう表したのは新鮮であり、少なからず嬉しい事だとセンカは思っていた。――――名を与えられたというのは存在を認められたという事だ。彼女は彼等の中で確かに仲間として存在している。そして、彼女もそれを認め、理解しているのだ。彼等の間に出来ている人間とアラガミが理解し合う世界はこの先の未来において重要なものであるのは言うまでもない。
ソーマを怒らせたと言っていたが、彼女の事だ。上手くやるだろう。ソーマとて何時までも根に持つような小さな男ではないのだから、彼女が行く頃には己の怒りに見切りをつけているかもしれない。
目深に被った青いフードから覗く白金の髪と、その下から鋭く前を見据え、射抜く海色の双眸を思い描いて、僅かに眉を顰めた白藍は緩く瞬いた。さわさわと木の葉を囁かせる微風に乱れる銀糸を眺める気配がする。リンドウだ。彼が、こちらを見ている。何か、言いたげに。
「先輩は…」
「ん?」
「ソーマ先輩の事を、どこまでご存知なのですか…?」
シックザールを探っていた彼はシオがソーマを怒らせた原因を語った際に、そりゃ鬼門だ、と零している。何を、どのように指して、その言葉が出るのか。答えはわかり切っているにしろ、推測にして置くには重要すぎる議題だった。
問い掛けながら同時に甦る声は、シオからソーマの話を聞いてしまったからだろう。話がある、と。低い声が感情を押し殺して過去から今へ囁いてくる。どうあっても無視出来ない、あの日の無謀な約束。リンドウが目覚め、安定し始めてからよく思い出すようになったそれは少しばかり気が抜けていた証だったのかもしれない。そして、ふとした拍子に記憶に溺れ、手を止める自分に、きっと聡い彼は気付いているのだ。
噴水の縁に丸まってこちらを伺っているのはレンギョウ。あの仔もまた、気付いているのだろう。くりくりとした大きな目に映った今の自分の姿は、とてつもなく朧げに見えた。
風を縫い、響くのは溜め息。
「まあ、色々調べる上で…一通り、な」
「…そうですか」
つまりは、ソーマ・シックザールがマーナガルム計画によって生まれたP73偏食因子を持つ、限りなくアラガミに近い人間である事を知っている、と。此処まで知っていれば、その技術が今の神機使いに応用されているのだという事も当然、理解しているのだろう。そうして、シックザールの思惑にまで勘付き、知り過ぎてしまった彼はこうして人里から離れた荒野に建つ幻のような緑の園に追いやられてしまった。それも、最後の止めを刺したのはセンカという人間のふりをした醜いアラガミ。例えば、人としての最期を齎したものが気高いヴァジュラ種か屈強なウロヴォロス、接触禁忌アラガミであったなら、彼も有終の美を飾れたであろうに、よりにもよって薄汚い擬態で周囲を欺いていたアラガミに、中途半端に命を奪われ、そして、救われてしまった。
その醜いアラガミは今も綺麗な彼の傍でのうのうと息をし、帰還を信じる人を裏切り、逃げ隠れている。なんて汚い、出来損ないの生き物。
でも、もう少し。許されるならば、もう少しだけ自分勝手な現実逃避をしていたいとセンカは思う。あの状態で、目立った外傷も無く帰還する自分を周囲は今までとは違う奇異の目で見るだろう。アラガミだと気付き、憎しみを向ける者もあるかもしれない。だから、もう少し。もう少しだけ、ぬるま湯に浸かって、穏やかな悪夢を。――――そう思った、刹那。
「で、お前はいつまで俺の傍にいてくれるんだ?」
風が凪いだ。
咄嗟に見上げた彼の麹塵が痛みを孕んで細く笑んでいる。
せんぱい。露に濡れた唇だけで音も無く囁いたセンカを眺める男の姿は、恰も、愛しい人を手放す覚悟を決めた者のそれであったかもしれない。白藍を捕らえる麹塵が滴るほどの愛しさに溢れている。
「早く帰って来い、って言われてんだろ?これ以上、待たせてやるな」
そっと持ち上げた親指で柔らかな唇を辿りながら紡がれた息を呑む言葉すら、甘く蕩け、腰が痺れる程。
「……聞いて、おられたのですか…?」
それはセンカが密かにシオに口止めした、リンドウが知らないはずの言葉だ。あの距離からでは、アラガミの響きで会話をしていない限り、風に呑まれる声を聞き取る事など人間には不可能なはず。それを、何故、彼が知っているのか。否、愚問だ。原因はわかり切っている。アラガミ化している彼ならば、可能性はある。嗚呼、何故、今更それに気付くのだろう!
吐息の如く呟き、見開いた目と同じ色に青褪めたセンカに苦笑いを返した男は唇を辿る指はそのままに、空いた片手でするりと滑らかな頬を撫でた。血の気を失い、些か冷えた頬に暖かな温度が滲む。
「言ってなくてすまんな。言い出すタイミングがいまいち掴めなかっただけなんだが…どうやら、あれくらいなら難無く聞き取れるようにはなってるらしい」
「そんな…」
ソーマは鬱陶しそうにしてたが、意外と便利なもんだな、なんて笑いながら言う言葉は、実際、悠長にしていられるものでは決して無い。示しているのは確実なアラガミ化の進行である。いつから、とは言おうとしないが、恐らく、相当前から症状に気付いていたのだろう。いつまで聞こえていなくて、いつから聞こえていたのか。シオと響きだけで会話をしていたうちの、何処を聞いていて、何処を聞いていなかったのか。話した内容を思い出すだけで、それこそ卒倒出来そうだ。
リンドウを侵喰するオラクル細胞がそれを阻むセンカの支配を逃れて活動を活発化している。その事実に彼は肌を月夜の雪原に変えた。
胸を打つ早鐘につられて戦慄く唇を離れた暖かな指が、今度は米神から頬を滑り、ひたりと冷えた雪原を包み込む。両手で包む、酷く、酷く小さな、可哀相なくらい打ちのめされた顔。剣を握っていた大きく無骨な両手で包む青白い顔はいつも小さな彼を殊更、小さく見せて、消え入らないよう寄せた身体が吐息を捉えようと動き出す。目を閉じ、震える銀の毛先を唇で掻き分け、触れる額はそこまでまるで雪のよう。
「落ち着け。大丈夫だ。何とも無い。制御もしっかり出来てる。俺の事は心配無い」
「…ですが…っ」
言い募ろうとする愛らしい口に己のそれを近づけて、男は無理矢理、言葉を飲み込ませた。
「大丈夫だ。何とかなる。今、何とかならないのはあいつらの方だろう?今頃、俺もお前も居なくて混乱してる筈だ。せめてお前だけでも約束を守ってやらないとな。俺には…そうだな、ずっと会えないと寂しいから…偶に隙を見て会いに来てくれれば嬉しい」
そうして、貴方は独りでもがき、苦しみ、朽ちて行くのですか。そう口から零れなかったのは、動けば彼の唇に触れてしまうからだ。近い距離で、整った薄い唇が熱を孕んだ暖かな吐息でこの愚かな生き物の喉を優しく締め上げている。
あの日、獣の咆哮が渡る中、出来ない約束をした。それは嘘と言っても良かった。仮にあの時、リンドウが奇跡的に無傷でセンカと合流出来たとして、それでも、二人はアナグラへは帰らなかったに違いない。センカ一人だったとしてもそれは同じだった。どちらにしろ、帰るつもりなど欠片も無かったのだ。期待を持たせるばかりの酷い嘘。それがあの言葉の正体だ。
そもそも、プリティヴィ・マータ四体を相手に互角以上に立ち回れる人間が何処に存在するというのか。単純に考えて、そんな人間がいる筈がない。いるとすればそれは余程の身体改造でもされた人間であったものか、若しくはアラガミだ。無論、センカは後者である。明らかに人間ではないセンカはその形ばかりが人間で、けれど、任務中の振る舞いを見れば彼が人外であると隠す事は難しかった。血飛沫すら緋色の纏に変えて舞う美しい演舞の如き剣の舞。時折、見せる捕喰欲を剥き出しにした手法。アラガミに対する稀有な思想。それに疑いを抱き始めていたのは同じ部隊の先輩や同僚だけではなかっただろう。
その疑念に決定打を与えたのが、あの任務だ。――――たった一人で四体のヴァジュラ種を威嚇する「人間」など、存在し得ない。そして、「人間」ではない「アラガミ」であるセンカは彼等の敵なのだ。
帰れば、胸を痛めていた者達は皆、露見する嘘に憤慨し、嫌悪し、憎悪するだろう。アラガミが人の真似事をして謀っていた、と。一体、何様のつもりで自分だけがのうのうと生き延び、帰ってきているのか、と。刃を向け、銃口を向け、罵るかもしれない。
震え、俯こうとした白雪の額に、再び黒獣が唇を寄せる。
「…何を想像しているのか分からないでも無いが、そう怯えるな。あいつらからするとお前より俺の方が危険生物だったみたいだからなぁ…お前の事なんか大した事無いさ。シオだって上手くやってる。…それとも、お前はあいつらがお前がアラガミだって言うだけで態度を変えるような心の狭い奴等に見えるのか?」
「……それは…」
口篭る白藍を無理矢理、己に合わせて微笑むのは熱情に揺らめく麹塵。美しく弧を描く唇から紡がれる声音は色香を滲ませた低音。木々の囁きよりも静かに耳に注がれるそれはまるで甘い猛毒のようだと思う。何せ、耳元で少し聞くだけで、痺れた身体が夢幻を信じようとするのだ。彼が詐欺師であったなら、欺けないものなど何一つ無かっただろう。
甘く、蕩ける嘘の音。このような場面で使うなんて、嗚呼、こんなに酷い人は見た事が無い。
「あと三日だ。それ以上はあいつらを悲しませてやるな」
その別れは、そのような顔で言うべきものなのでしょうか。――――思いながら、けれど、言葉にも出来ず。拒めなかった銀色の細い指が死に掛けの力でぼろぼろの外套の袂を抓んでいる。
花が風に揺れるよりもささやかな抵抗に息を詰めつつ、縋るような手に手を重ね、細めた瞳だけで、愛しい愛しい離れてくれるな、と叫んだ男は、口先だけで別れを促してから、滑らかな額に三度目の口付けを贈り、胸を突く痛みに顔を歪めた愛する銀色を閉じた瞼で視界から掻き消した。
明日にも帰ってやれ、と言わなかったのは、多分、言えなかっただけだったのだろう。
漸く進展があった温室組です。空気を読める毛玉は今回も空気でしたが、ご夫婦的には結構、深刻な感じにしてみました。
リンドウさんの侵喰が実際、どういう速度でどういう感じで、且つ、自我の消失と記憶の欠落以外のどんな症状があったのかについては、やっぱり原作中ではあまり語られていなかった気がするのでこんな感じに徐々にアラガミ化するような設定にしてみました。あと、ソーマさんを参考に、聴覚の鋭敏化とか。
新型さんについては自分が「人間では打破出来ない状況を打破した」のを理解しているので、それから正体を知られるだろうと推測して怯えている状態です。思ったより、新型の中に仲間の存在が息衝いている、というか…その辺りは自分でも理解に苦しむ部分かもしれませんが、その事実に自分で驚愕もしているというか。
そこを上手く突いて帰還を促したリンドウさん。でも、内心は全然納得もしていないし、実は不安でたまらない、と。
そんな不安な夫婦を冷静に見ているのが毛玉です。……要は、毛玉が一番冷静(ぇえ)
2012/01/29 |