歩き出すには頼り無く、けれど、立ち止まっていられもしないそこはいつか流砂になってこの身を飲むのだろう。
砂上に立つ
「じゃあ、あいつ等の事、宜しくな。合流出来そうな場所はわかるか?」
言いながら、その目はやはり別離を惜しんでいるように見えて、白い陽の光に銀の燐光を散らしたセンカは静かに頷きつつ、抱えた神機にそっと頬を寄せるふりをして視線を外した。…ぎこちない仕草にでも映ったのだろうか。風に触れさせるままにした方の頬を、緩慢な動作で動いた暖かな硬い掌が包む。米神にかかる銀糸を優しく後ろへ梳く指先。殊更、緩やかな触れ方に向けようとした視線を上げる間も与えず、滑らかな頬へ落ちたのは、ささやかな唇の感触だ。触れたのは一瞬。微かな音を立てて離れたそれは敏感な肌を掠めるだけの隙間を空けて、熱い吐息を耳朶に触れさせた。
「寂しくなる前に来てくれ」
刹那、跳ねてしまった肩を誰が責められようか。
耳に吹き込まれる、低い、艶めいた熱情に浮いた声音。その麹塵の双眸すら滴る欲に濡らし、白い頬から頤までのなだらかな曲線を見詰めている様は陽光に照らされた穏やかな温室の雰囲気には到底、似合わなかった。その様はさながら天使を甘言で貪ろうと唇を寄せる悪魔の如く。しかし、喰われる方のセンカはいざ知らず、喰う方のリンドウにしてみれば、目覚めてからこの方、昼も夜も共にあった愛しい銀色から少しでも離れなければならないという現実に直面しなければならない手前、胸の内で暴れ回るどうにも御し難い欲望を少しでもどうにかしておかねばならなかった。
ああ言ったものの、実を言えば、このまま共にいられるならそれで良い。自分がアラガミになろうと、彼がアラガミであろうと、此処なら誰にも何も言われず、ただ、互いの為に存在していられる。だが、そう思う反面、人間の…フェンリル第一部隊隊長であった自分がそれを許す筈が無く。結局、最善を選んだのは隊長であった己だった。
全く本当に人間とはシンプルに生きるのが難しい。目を瞑って知らないふりをしておけば良かったものを。いつもにも増して不安げな気配を帯び始めた銀色に抱くのは罪悪か、それともただの欲か。定かではない熱がこの三日、ずっとこの身を苛んでいる。浮かぬ顔のセンカもそれには気付いていただろう。矢鱈と水を持って来てくれていたのは、恐らく、その所為だ。
「…何にせよ、最後まで酷い発作が起きずに済んで良かった…」
我を失えば、それこそ、獣のようにお前を抱き殺していただろうに。囁いて、銀色を今一度、腕に閉じ込めた男の胸に、ふわり、寄り添う小さな頭。その形を辿り、細く手触りの良い髪を梳いて、燐光を眺める。
「俺以外の奴に靡くなよ?お前を口説き落とすのは俺だからな」
「……それには、何と返せば良いでしょうか…」
居心地悪げに身を捩じらせて視線を逸らす様に、彼は思わず、それまでの熱を掻き消して笑った。――――全く、可愛らしい!その反応が調子に乗らせるのだと本気で気付いていないのだろうか。まあ、それが彼の愛しい所の一つでもあるのだけれど、他でされてはこちらが困る。
「『わかりました』って言えば、俺が大喜びするな」
「『わからない』と言ったら?」
茫洋とした白藍をゆるりと瞬かせて見上げてきた銀色を、すっと細めた悪戯な目で見返したリンドウは、再び頭を擡げた欲を瞳に滲ませながら口元に犬歯を覗かせた。
「わかるまで個人レッスンだ。昼も夜もわからなくなるくらいに俺の愛を隅々まで理解させてやる」
途端、声音が妖艶な響きを帯びる。するり、腰を撫でるのは何時の間にか動いた不埒な手。
うぐ、と息を詰まらせたのは果たして、熱の籠もった吐息であからさまな欲望を向けられた銀色であったか、それとも、傍らでそっとその場を見守っていた幼子であったのか。硬直を破ったのは数拍の間の後にくしゃんとくしゃみをした幼子であったから、恐らく前者だったのかもしれない。
男の睦言にはこの日までに慣れたものだと思っていたのに、これは何という事か。まだ油断してはならなかったらしい。瞬時にこれ程、濃厚な気配を醸し出す事が出来たなんて!
間近で嫣然と微笑む麹塵。呆然とする間に近付いてくる顔に――――ぺちり。小さな掌が割り込む。間一髪、けれど、いつもより少しばかり遅れて口付けを阻んだ銀色の白皙が薄らと熱を持ったように見えたのは、男の欲が見せた幻影だったかもしれない。或いは、本当に白雪に春の花弁の色が移ったのか。絞り出した声音は小鳥が囁くよう。
「…黙秘、しておきます」
「そりゃ残念」
どっちであっても俺が喜ぶ展開になったのに。勿論、お前を大いに悦ばせる自信もあったのに。
唇に押し付けられた細い手の指の付け根に軽く口付けを落とし、からから笑い声を上げながら、ぎゅう、と一度強く抱き締めたのを最後に、男の腕が解かれる。爽やかに笑って見せているものの、ふとした折に麹塵の奥で揺らめく炎は消しきれない情欲のそれ以外の何物でもないだろう。必死に貪りにかかりそうな己の手綱を握っているのがわかるから、センカは放された手を神機を抱く手に重ねて一歩、距離を取った。
その足元に駆け、擦り寄るのは幼子。腰を屈め、小さな毛むくじゃらの頭を撫でてからリンドウの方へ促せば、心得たレンギョウは軽やかな足取りで男の足元へ座る場を移した。――――もう、時間だ。これ以上いれば、出て行けなくなる。
並ぶ、男と獣の仔。その前に佇む銀色が一人。吹き抜ける風は楽園の出口から。
「…では、行って参ります」
「おう、いってらっしゃい。気をつけてな」
既に酷く懐かしいものにすら思える、穏やかな温室の空気に踵を返して歩き出した儚い背中が荒野の砂塵に消える刹那、男は吐息で囁いた。
疼く右腕に気付かないふりをしながら――――届かない「愛してる」を、唇だけで。
シオが来て、随分、第一部隊は明るくなったと思う。特に、ソーマは雰囲気が多少、柔らかくなったかもしれない。思いついたまま、そう言えば、長い銃身を軽々と細腕で抱えたサクヤはヘリポートへの道を共に歩きながら、そうねえ、と朗らかに笑った。その隣ではアリサが思い起こす仕草で虚空を見ている。
「何だかんだシオとも仲良いみたいだし…これでもう少し周りに溶け込んでくれれば良いんだけどね」
「私にはあんまり変わったようには見えないんですけど…」
眉を寄せて唸るアリサにはそう変わったようには見えないかもしれないが、彼女よりも多少、付き合いの長いコウタやサクヤにしてみれば、此処最近のソーマの様子は中々、革命的なものがあると専らの評判だった。一言で言えば、棘が抜けた、と言ったところか。それも以前と比べて少しばかり、というに留まるものの、今までの近寄る事すら許さない鋼鉄の如き気配からは考えられない変化だ。
シオに対する彼の態度を思い出し、苦笑したコウタはふと、芋蔓式に記憶から掘り出したものに思考を止めた。――――そういえば、センカと居た時も、彼はあんな感じだった気がする。
ずぶり。記憶の沼に嵌ったような感覚と共に遠くなる、自分を追い越して行く二人の声。
今回の任務は鎮魂の廃寺に徘徊するアラガミの討伐である。――――表向きは。本命はそれではない。勿論、ヴァジュラ種だというそれらを討伐するのは第一部隊の本懐であるが、目的はそれではなく、その近辺から感知されたという雨宮リンドウの腕輪の捜索だ。アラガミの胃の中で奇跡的に消化されずに残っている腕輪が調査隊の網に引っ掛かったらしい。廃寺で彼等が目撃したのはヴァジュラが一体とプリティヴィ・マータが一体。あの日、あの瞬間に現場に現れたのは後者であったから、腕輪が反応したとすればそちらの腹からだろう。或いは、ディアウスピターと名付けられた黒いヴァジュラが別に徘徊しているのか。どちらにしても、手放しで喜べる事態にはならないに違いない。目的のものの腹から腕輪が見つからなければ落胆し、見つかったら見つかったで確実な証拠に崩れ落ちるのだ。
希望を持ったまま彷徨い続けるか、真実の切っ先を見詰めるか、どちらがましなものか、コウタは判断し兼ねていた。
リンドウだけではない。同時に消息を絶ったセンカやレンギョウにしても同じである。彼等についての情報はリンドウについてのそれと比べても格段に少なく、此処最近に至ってはその存在すら消えかけたように何も情報が入ってこないものだから、焦燥には拍車がかかるばかり。リンドウのようにビーコンが反応したとも言われず、仇のアラガミが現れたとも聞かない彼はまるで始めから支部に居なかったようだ。変わらないエントランスを眺める度、胸を襲う違和感。霞が霧散する前に、どうにかしたくて、足掻けば足掻く程、砂に沈むかの如く銀色の面影が指を擦り抜けた。
大丈夫。生きている。生きている。生きて、帰ってくる。そうしてまた一緒に、皆で笑うんだ。必死に言い聞かせ…もう何度、唇を噛んだだろう。
あれから何度もこっそり旧市街地の現場を訪れて、痕跡を探した。それでも何も見つからない。潰れた花が枯れているばかりで、生きているのか、死んでいるのか。嗚呼、でも、それを知るのも、やっぱり怖いのだ。
「コウター?早くしないと置いて行っちゃいますよー?」
「え?うわっ!ちょ、待ってよ!!置いてくなんて酷いじゃん!」
見れば、もう爆音を奏でるヘリに乗り込んだ二人が口々に急かして叫んでいる。――――まずい!皆にしっかりしろ、と言った自分がしっかりしていないなんて、こんな笑い話あるもんか!
走り出して、少し浮いたそれに飛び乗った拍子にがくんと揺れた機体の中で尻餅をついたコウタは、その光景を呆然と見た彼女達と共に驚きに目を見開いてから、全員で笑い声を上げた。
青空を裂くヘリが高く飛び上がり、白雪舞う朽ちた寺へと飛んで行く。
嫁が単身赴任の図(コラ)お別れを前にして、リンドウさんの辛抱堪らんメーターは急上昇中です。久々にギアが入っております。殴って止める人もいないので、ちゅーだってぎゅーだってしちゃうんだぜ!だって、毛玉は隊長の味方!!
その毛玉ですが、リンドウさんのお供として温室に残しますよー。これでリンドウさんひとりぼっちじゃないぞ!という新型のちょっとした気遣いだったりもしますが、いいんだか悪いんだか。
一方のコウタさん達は任務に出撃。…ですが、リンドウさんの言葉を借りるなら一人だけ心が一つじゃない人がここに。
リンドウさんは腕輪にビーコンが付いているのもあって色々痕跡が残っていたりしますが、新型の場合は作中で書いた通り、ビーコン無しのただの部屋の鍵としての腕輪なので痕跡も何も残っていない状態です。そういう意味ではリンドウさんよりも遥かに影の薄い人な訳で…誰も話題にしなければもう始めからアナグラには居なかった人のようにされてしまう事もあるよ、というのをコウタさんに認識してもらいました。実際、神機使いのハードな毎日の中でいちいち殉職した人に構ってはいられないので必然的に存在は消えていってしまうんだと思うんですよね。
今の感じは、原作でのリンドウさんKIAから新型隊長任命までのような、形式的に使われない殉職者の部屋だけが残っている、という奇妙な感覚がある状態です。
2012/02/24 |