たぁん。たぁん。たぁん。
遠くに聞こえる銃声。雪を孕む風に混じる硝煙の香。――――仰ぎ見た先にいる筈の人影目指して、刃を握り直した六花の光輝が雪原を蹴った。
白霞の向こう側
物陰に身を潜め、澄ませる耳に何処かを歩く獣の重い足音が聞こえる。耳朶を撫でる、濡れた低い息遣い。凍結した地面を掻く爪の音。その中に己の肌を打つ吹雪の音が微かに混じる。足の下できゅるりと啼く粉雪と氷。細く吐き出す白い吐息の音すら腹を空かせた獣には聞こえてしまいそうで、コウタは抑えた呼吸を更に浅く抑えた。
入り組んだ寺院周辺は隠れるには苦労しないが、同時に奇襲の機会に恵まれた作りになっている。都合が良いと思いがちだが、それも一長一短。殊、特殊且つ多彩な移動経路を持つアラガミには獲物を狩り易い地形だ。朽ちた木造の建物は盾にもならず、階段を昇ったとして、二階程度までならば彼等は少し後ろ足に力を入れるだけで容易く達してしまう。ならば、と屋敷の反対側に逃げ込めば、壁の穴から飛んでくる始末。全く不都合極まりない。逃げた相手を追いかけるにしても多少、常人よりも身体能力が高い程度の人間では追い着けるものではないのだ。
「…コウタ、生きてる?今、何処?」
ジ、ザザ、と砂嵐の音を交えて漸く聞こえた女の声は胸元の黒い端末から。潜めたサクヤの声を掻き消しそうな耳障りな音は強い吹雪の所為だろうか。しかし、それでも無闇に音量を上げる訳にはいかない。
気配を探り、再度、耳を澄まして、一間。
「……何とか生きてるよ、今、H地点。…アリサとサクヤさんは?」
「私達はP地点です」
「今、二人で漸くヴァジュラを仕留めた所。ユーバーセンスであと一匹を探してる」
つまりは、今し方聞こえた足音はプリティヴィ・マータか。待機時に見つからなくて何よりだ。何せ、旧遠距離型の神機使いには装甲が無い。
それにしても、まさか、超視界錠を持って来ていたとは、彼女達の準備の良さには頭が下がる。勿論、同時討伐任務の際、アラガミの位置捕捉は重要な事項だが、実際には気配を探って行動するのが常だった。錠剤を服用する時間も惜しい場面が多い中、コウタも例外ではない。加えて、センカと共に行動する事が多かった彼の場合、態々、そういった薬剤を使うまでも無く、人間探知機と言っても過言ではない銀色がふらふら彷徨いながら、良い位置取りをしてくれたものだから、その必要性を感じた事は数える程だった。
今度、ポーチの中身を広げて少し精査する必要があるかもしれない。思いながら、再び近付いてきた足音に身を固める。耳朶を掠めて、再度、遠くへ。坂の方から近付き、鐘楼の方へ遠退いて行く事を考えれば、どうやら、件の獣はAからG地点を巡回しているらしい。
「…いたよ。『また』近くを通った」
「こっちも見つけたわ。…巡回してるのね。同じルート?」
短い応答の中の意図を正確に読み取るサクヤの声は硬い。応えないままのアリサも恐らく彼女の傍らで同じく厳しい表情をしているのだろう。
靴に包まれている筈の足先が、冷えている。
「二回目。AからE」
ザザ。割り込む砂嵐。
「挟むならEですね」
Dでは遅いかもしれない。続けるアリサに小さく頷く。
挟撃出来る利点も勿論、あるが、戦うにも比較的広いDに近いE地点は望ましいだろう。よしんば、JかAに逃げられたとしても再度、挟撃するか、Pの御堂内へ追い込む事が出来、逃走先の予測も付け易い。討伐までの全てにおいて不利の少ない最良の奇襲地点だ。
「四回目で仕留めるわよ」
既にこちらに向かっているだろう三回目は見送り、続く四回目で強襲する、と。暗黙の内に理解した面々が吐息に混じえて、了解の意を端末に吹き込めば、程無く、コウタの耳が微かな爪音を捉えた。
ずしん、がり、ずしん、ずしん、がり。凍り付いた地面を削る爪音が、近付いてくる。AからCへ。緩やかな足取りで角を曲がり、坂を上る。一歩、二歩、地鳴りに似た響きに、向かいの屋根に積もる白雪がぱさり、落ちて――――止まる、足音。大きく跳ねた心臓が肥大したまま止まる。一秒、二秒、三秒、風が、びょう、と一陣。四秒、五秒。訝しげに喉を鳴らす音が濡れた吐息を孕み、G地点で彷徨う。覗いたのはH地点へ続く小道か。二回目より息遣いが近い。坂を上りきった角から奥を覗いているのかもしれない。嫌な耳鳴りがする。肥大しきった心臓が打つ鐘の音で眩暈がするようだ。六秒、七秒。ずしん、一歩、近付く足音。痺れるように揺れる、白雪が落ちた箇所に腐食しかけた黒い板を覗かせた屋根。未だ、そこに積もる半ば凍った白い塊に静かに罅が入ったのを認めて、コウタは息を詰めて干上がった。
なんて事だ。あれが落ちれば、確実にプリティヴィ・マータは此処へ来るだろう。そうなれば作戦は失敗。袋の鼠はこちらの方だ。
まずい。落ちるな。落ちるな。来るな。落ちるな。心臓の音すら大気を奏でそうで、指が震える。だが、これ以上、震えてもいけない。神機を鳴らしてしまえば、それこそ、最後だ。
ぐぅるるる。空きっ腹の音にしては凶悪過ぎる音が近い。八秒、九秒。がり。爪が氷を掻いて――――十秒。ずしん、息遣いが遠退いた。
「……っ…く……はっ…」
詰めた息を吐き出すのに、これ程苦労した事があっただろうか。感覚を失った指先から神機が滑り落ちないよう、気をつけながら、崩れそうになった膝に慌てて力を入れる。
助かった。これから討伐せねばならない相手を残したままで思うのは早計であろうが、少しの安堵を覚えてもこの際、罰は当たるまい。全く、こんな時に今の今まで沈黙していた白雪が音を奏でるとは、大自然も存外、空気が読めない輩である。おかげでこちらの寿命が比喩でなく縮まる所だった。寧ろ、下手をすればそのまま黄泉が迎えを寄越していた所だ。何とも運が悪いと言わざるを得ない。
心臓に押されて苦しくなった息を整えて、彼は端末に呼びかけた。
「E地点を過ぎたよ。音が消えたから、多分、もうDを曲がる頃だ」
言いながら、なるべく音を立てないように落ちそうな雪を銃身の先端で砕いて落とす。また落ちられては面倒だ。
「了解、こっちはもう動くわ」
「りょーかい。じゃあ、こっちは後方から、ありったけぶち込むよ」
手元の弾種を確認して通信を切れば、あとはまた風の音ばかり。遠くの足音がゆったりと近付いてくる。
正直な話、この三人でプリティヴィ・マータを討伐できるかは難しい所だとコウタは思う。自身とサクヤは旧型の遠距離型。アリサは遠近両用の新型神機であるものの、どちらかといえば射撃を主に戦う。接近戦専門のソーマはおらず、敵の頭を破砕するに長けた者は今回、一人も同行していない。しかも相手は件の事件でリンドウとセンカを屠ったかもしれない群れの一匹。果たして、安定しているように見える――あくまで、見える、だ――三人で討ち果たせるものか。これはいよいよ何かの魔手が我が身にも及んで来たかと密かに身を震わせたくらいだ。だが、此処で尻込みする訳にもいかない。目的はそれが腹に抱いているかもしれないリンドウの腕輪。取り返さない訳には、いかない。それはリンドウは勿論、センカにも繋がっているかもしれないのだ。
がちり。握り直した神機の音を吹雪に飲ませて、坂を上り切った足音が角を曲がる音を聞く。方向はE。きっともう彼女達は待機している。自分も走り出さなくては。
唇を引き結び、顔を出す通路の先、G地点に白い影は見えない。足音は近くも遠くも無く、そろそろE地点に近くなる頃だろう。
氷の粒を蹴り上げてGに踊り出せば、丁度良い頃合だった。――――白い巨体に青い衣の後姿。神機を構え、冷えた砂を蹴る速度が上がる。忘れもしない、忘れもしない、忘れるなど出来る訳が無い。
あれが、仲間を殺した!
「こ、の、やろぉぉぉぉぉおおお!!」
体内に渦巻く憎しみの全てを込めた弾丸が真っ直ぐに飛び、女帝の右後ろ足を貫く。同時、前方から飛び出したアリサの刀身が痛みに怯んだ獣の前足に斬りかかった。その血飛沫の向こう、遠くからはサクヤのレーザーが赤い軌跡を描いて飛び、的確な閃光は俄かに爪を剥いた左の足を貫いている。並んだ鋭い牙の隙間から唸り声を上げながら、振りかぶった獣の爪をひらりと避けて、二羽の蝶が飛び退けば、空を裂くに終わった爪は地面を抉って氷を砕いた。
翻る青の衣の向こう側に踊る、赤と黒。巨体を挟み、刹那、合うのは視線。
横薙ぎに襲い掛かってきた白い尾の一撃を後方への退避で辛うじてかわしたコウタの腕が銃口を僅かに上げる。狙うは間接。如何な魔物であろうと間接を砕かれれば一溜りもあるまい。狙い澄ました一撃で脚を不能にさせれば、少なくとも、高所を利用した逃亡は防げる筈だ。そう言ったのは舞い降りる白雪の如き銀色の親友だった。――――弾丸は上方を狙うよりも下部に狙いを定める方が良いかもしれません。関節を狙うのは容易ではありませんが、当たる確率の少ないものを闇雲に撃つよりは急所に近く、且つ、命中率の高い部位を狙う方が効率的、効果的でしょう。
「それで動きに制限をつけられれば…こっちのもん…!!当たれぇ!!」
ドン。引き金を引くと共に銃身に衝撃が走った。銃口へ向けて内部を走るオラクルの塊を指先で感じ、刹那、赤い光弾が貫いたばかりの右後ろ足目掛けて飛んで行く。的中とは至らずとも狙いは外れない。万が一の為に追尾性能を有するように調整済みだ。当たれ。当たれ。当たれ。そのまま崩れてしまえば良い!
飛んだ弾丸は狙いを違う事無く太い脚の膝裏部分に被弾。今にもアリサに喰らい付かんと大口を開けていたプリティヴィ・マータの悲鳴が吹雪を巻き上げて空を揺るがす。
「やったぁ!」
「やるじゃない!」
崩れた下半身が上げる白い雪の煙がまるで砂塵のようで、勝利の光を垣間見た面々は歓喜も露わに手を緩め、声を上げた。――――それが、いけなかった。
響いた音は、ばしん、であったか、ばこん、であったか。歓声を上げた直後、暴れ狂った獣の尾に張り飛ばされた人影が、空を舞う。
気がつけば木の葉が舞い上がる如く空にあったコウタの姿に地上の蝶達が瞬時に青褪めた。長い緩慢な映像が終わりを告げたのは暖かな茶色が鐘楼の石垣に叩きつけられ、ごみ箱に入り損ねた屑のように地面に倒れ伏したその瞬間だ。陳腐で生々しい音が現実を連れて無音を破る。
「コウタ!!」
しっかりして!叫ぶ彼女達の声が、響く銃声が、遠い。
いてぇ。どうなったんだ?何があった?世界が回った。体中が軋んでいるみたいだ。どうした。神機は?…良かった。手元にある。すげぇな、俺。ぶっ飛んでも放さないなんて偉過ぎる。…ぶっ飛んだ?ああ、そうか、俺は、プリティヴィ・マータの尾に張り飛ばされて、それから。――――視界の霞を頭を振って拭い去りながら、漸く鮮明になった意識で顔を上げた彼は眼前の光景に硬直した。
牙だ。牙が見える。鋭い、唾液に濡れた牙だ。その奥で赤い舌が蠢いて鮮血の味を心待ちにしている。視界を埋め尽くさんばかりの、白い、白い、女帝の面。口を開けて、今にも、この身を、頭から、喰わんとする。
喉が、隙間風のような音で、ひゅ、と鳴った。そのまま、止まる息。
「コウタ、避けてぇえ!!」
狂ったように大気を裂く破裂音は彼女達の銃弾だろうか。濃い硝煙の香り。悲鳴。唸り声から咆哮。その、刹那。
「ぎゃああぁあぁああ!」
響いた苦痛の咆哮と共に白の冠が砕けた。かん、からん、と地面を滑る欠片は確認するまでも無く獣の物だ。砕いたのは弾丸。だが、その効果を持つ弾丸を、此処にいる誰も装填していない。
痛みに蠢くばかりの獣を他所に、流れた沈黙が風音だけで埋められる。
一撃でプリティヴィ・マータの頭部を結合崩壊させた弾丸は実に凶悪といって差し支えない。上空から隕石の如く狙いを定めて放たれたそれは誰もが干上がる破壊力と命中率を以って獣に襲い掛かった。巻き添えを食った地面すら僅かに抉る痕はさながらアラガミの噛み痕。当たったものがアラガミで無ければ対象を跡形も無く消し去っていたかもしれない。
通常では考えられないモジュールの組み方。しかし、自分は、否。自分達はこんな無茶苦茶な弾丸を常用する人物をたった一人だけ知っている。
ゆっくりと弾道を辿り、視線を上げた先で彼等はそれを見た。
「……うそ……」
そんな、ばかな。そう呟いたのは誰だったのか。呆然とそれを見るしかない彼等にとって、最早、未だに生きている危険な獣の存在さえどうでも良い事に思えた。
目に映るのは、吹雪く雪の中にありながら光を放ち、煌く燐光を風に散らす銀の髪。薄闇にぼやりと縁取られた面は白く儚く、何者にも犯されない新雪の如き肌は滑らかで。それに仄かな彩りを添える薄桃の唇は恰も春に舞う花弁のように艶めいている。短く整えられた銀糸の隙間から覗く瞳は空よりも淡く、水よりも清い、凪いだ白藍。ぼんやり開かれたそれが緩く瞬き、長い睫毛が散らした淡い燐光が刹那、煌きながら、溶けて消えていく。脳裏に焼きつく眩しい銀色の光。
これは、夢だろうか。とても悪くて、とても良い夢。けれど、身体を打つ雪の冷たさが夢幻の可能性を否定している。…そんな馬鹿な。
石垣の上に築かれた屋敷の壁に開いた大穴に佇む、細く小さな体を少しばかり大きめのフェンリル式制服で包んだその姿。忘れた日など一度も無い。抱えた大きな銃形態の新型神機に白魚の指先を番えたそれは、夢にまで見た――――
「フェンリル極東支部第一部隊所属、烏羽センカ。加勢します」
嗚呼、奇跡だ!
嫁、合流しちゃうよ、の巻。……ですが、実際には任務を真面目に書いた回でしたね、ふへへ、私、頑張った!
内容でもう原作でいうところのどの任務かは皆さん薄々お気づきかと思います。ええ、一応、コールド・ダムゼルですよ、ええ。この任務の醍醐味といったらプリティヴィ・マータさんを遠距離メンバーメインでフルボッコにしなきゃならんというちょっとSな感じな訳ですが、当家もそれに洩れずに頑張ってみました。途中まで新型さんが不在なのでスパルタ度が急上昇しています。
任務中の場面というのはやっぱり書いていて楽しいもので、こういう緊張を秒刻みで書き表すのは難しくてもごもごする羽目になってもやめられません!うひょひょっ!勿論、玉砕しているのは百も承知ですがね!せめて、作戦を遂行する上で考えている事が走馬灯めいているとか捨てきれない主観の感情とか不測の事態が起こった時の緊張感が伝われば私の勝ちです(何それ)
さて、新型については…今回は冒頭と最後にちらっと出てきているだけなので語れる事が無いですね(笑)
とりあえず、最後の台詞は絶対言わせてやろうと思ってました。
2012/03/01 |