文句も、感謝も、謝罪も、全部忘れてしまったけれど。
君に捧げる、言葉の一つ
「うそ…本当に…」
センカなの?酷使した喉を動かしたサクヤが漸く紡いだ掠れた声が、唸りを上げ始めたプリティヴィ・マータの地鳴りに掻き消される。――――まずい。現実に戻った意識がそう思う瞬間、翼ある生き物の如く優美な仕草で舞い降りた銀光が獣の首を一撃の下に狩り飛ばした。
吹き上がる血飛沫の中、コウタの眼前でぐるん、と白目を剥いた女帝の頭が重く水っぽい音を立てて斑の赤に染まった白の絨毯に沈む。続いて、崩れていく胴体。その背に降り立っていた銀色がふわりと地面に爪先を付ける様が、やけに非現実的に見えて、重々しい動きで立ち上がった彼は尻についた氷の粒が溶けて湿り跡をつけるのも構わず、ただ立ち尽くした。
風の音に導かれ、静かに動き出した時間の中、最初に幻のような銀に近付いたのは――――サクヤ。
「…本当に、本物…?夢じゃ…ないのよね?」
そっと白雪の頬に伸ばした震える指先が、間違いなく現実の肌の弾力に触れて、瞬きを忘れ、乾いていた朱色が俄かに潤み出す。
頬の滑らかさ。通った小さな鼻筋。艶やかな柔らかい唇。細い首。細い肩。腕。手。指。華奢な身体全て。同じ。夢とも、記憶とも、同じ。両手でしきりに触れて形を確かめる、ともすればリンドウ並みに不審者に見えかねない自分に向けて小さく小首を傾げながら瞬く白藍。揺れる銀髪。ふわり、散る燐光。愛らしい唇が、サクヤ先輩、と呼ぶその声でさえ――――嗚呼、本物!
引き攣る喉ではそう叫ぶ事も出来ないまま、横隔膜を痙攣させた彼女は溢れ出した涙で濡れた頬を彼の銀糸に擦り付けた。抱き締めた身体はやはり細くて、その変わらなさがまた筆舌にし難い感情を溢れさせる。
「うあ……ぁ…ああ…っ…セン、カ…センカっ…!」
おかえり、おかえり、会いたかった、話したかったの。沢山、ごめんなさいと有難うを伝えたくて。会えたら、沢山、沢山、言おうって、アリサと話して。嗚呼、でもそんなもの、一個だって出てこない!
「…センカ、さん…っ…」
詰まった声音と共に、どしん、と走った衝撃はアリサだろう。彼女も彼の帰還を待っていた一人だが、飛びつかれたセンカの方はきっと彼女のした事など全く意に介してなどいなくて、寧ろ、女とはいえ、神機使い二人に力いっぱい抱き締められて窒息しそうになっているかもしれない。
ただただ溢れ出す嗚咽と滲んで仕方ない視界に苦労するサクヤは、そんな冗談めいた思考で溢れる思いに一先ずの区切りを付けようとしていた。アラガミがうろつく場所であまり長々と感動の再会を繰り広げている訳にもいかない。アリサもそれは理解しているのか、うぅ、と一つ唸って銀色を手放し、今度はサクヤに縋り付く。
崩れそうな彼女を支え、瞬きで涙を拭いながら見た白藍に反射する歪な微笑みは、自分でも呆れる程不細工だった。
「…おかえりなさい。遅かったじゃない。皆、待ってたのよ?」
「ほ、本当です!ど、どれ、どれだけ…私達が……!」
アリサのつっかえつっかえの、言葉になっているかも怪しい声音が訴え、途切れる。結局、嗚咽を我慢できずに再び女の胸に顔を埋めた少女を眺めた白藍は僅かに首を傾げて、ゆるりと瞬いてから音を紡いだ。
「……申し訳ありません……」
嗚呼、その全く理解しているように見えない茫洋とした雰囲気すらとても嬉しくて、嬉しくて。
「それってあんまり反省してないでしょ?」
滲んだ視界の中で俯くさまに笑い、悪戯に指摘してやれば、彼は眉尻を下げて同じ言葉を零す。それに、貴方らしいわ、と返したサクヤはアリサの銀髪を優しく撫でて宥めつつ、倒れ伏したプリティヴィ・マータを見下ろした。
黒い霞を纏い、オラクル細胞に還りつつある巨体の、頭が消えた首の綺麗な太刀の痕は彼の力量が寸分も衰えていない事を表していて、それがこの奇跡の生還へと繋がっているのだろうと、ぼんやり思う。そして、それが、窮地に立たされた自分達をも救ったのだ。なんとも不思議な感覚を抱いてしまうのは待ち続けた時間がやはり辛かったからだろうか。…だが、まだ終わらない。佇むセンカの隣に、リンドウが居ない。一人だけの帰還。銀色の隣に居るべき筈の彼はまだ、行方不明なのだ。
ついに視線の先で地面に沈んだ白い巨体の跡に何も残らない様を見た彼女は密かに溜め息をついた。腕の中のアリサを見れば、いつ立ち直ったのか、同じく霞の跡を具に観察する青い瞳がある。
「…はずれ、か…」
腕輪があれの体内にあったのであれば、人の作り出した鋼鉄のそれはオラクル細胞が霧散した後に残る筈である。しかし、巨体が消えた跡の何処を見渡しても、赤い注意色の光沢は欠片も見当たらない。広がるのは赤黒い血の跡ばかり。――――これははずれだ。
「?あのアラガミに何かあったのですか?」
きりりと唇を噛んだのを他所に、目を瞬いて問うて来たセンカは常の無表情で首を傾げて同じ地面に目をやった。
今の今まで行方不明であり、フェンリルではとうに死んだ扱いにすらなっていた彼は知らなくて然るべきだろう。此処に部隊が派遣されていたのも、ただの討伐目的だと思っているかもしれない。全く呆れた事だが、自分の事には周りが心配するくらい無頓着な彼の事、まさか己の捜索に関連した物だとは夢にも思ってはいるまい。
はあ。溜息ついでに涙まで止まってしまったのは喜ぶべきか、否か。しかし、おかげで喉の痙攣は綺麗に止まった。
「…実は…この辺りでリンドウさんの腕輪のビーコンが…」
何と無く釈然としない思いを抱きながら、漸く嗚咽を抑えられたアリサが目元を拭って答えかけた、その時だ。
「ねえ、それ、ちょっとおかしくない?」
全員が場に似合わない低い声に振り向いた。見れば、積もる白雪が厚みを増し始めた神機を拾い上げもしないまま立ち尽くしたコウタが顔を俯かせている。やけに低かった男の声は当然、女性であるサクヤやアリサでは有り得ず、唇を薄らと開けているだけのセンカを除けば、あとは彼しか居ない。
一体、どうしたというのだろう。
「コウタ?…どうしたの?」
問いかけるサクヤにも返事は無く、俯き、顔に影を落として握り拳を振るわせている姿は実に彼らしくない。普段、五月蝿いくらいに賑やかな彼は何処へ行ったのか。先に投じられた声音も常の彼が発するそれよりも遥かに低く暗く、まるで何かを抑えつけているかのようだった。肩を震わせ、拳を白くなる程握り、ついには優しげな茶色の髪の毛先まで震えさせるその様は溶岩を含み堪える山の震え如く。触れずともそうとわかる迸る怒りには、気紛れに彼の肩に触れた白雪の欠片までが怯えて消える。
本当に、どうしたのか。確かに、先程はとても危なかった。けれど、皆の期待を裏切らずに帰って来てくれたセンカが助けに入り、難を逃れて。憤らなければならないような悪い事は一つも無かった筈なのに、何故、彼はこんなにも怒っているのだろう。彼自身、友人だと豪語して止まないセンカの帰還を信じ、心待ちにしていた筈なのに。
きっ、と顔を上げたコウタの茶色の双眸に揺らめく光が夕闇を舐める炎のようで、近づきかけたサクヤのヒールが思わず後ずさる。
「何、それ?何で普通にいつもの仕事の話しちゃってる訳?」
風が怯えを露わに啼いて渡り、雪に打たれる者は誰一人動けないまま。
「勝手に残って、勝手にいなくなって、勝手に死んだ事になって、勝手に帰ってきて、連絡も無しで、どんだけ周りに迷惑掛けたか分かってんのかよ」
「コウタ、そんな事言わなくても…」
「サクヤさんは黙ってて」
宥める声を鋭く遮る言葉も酷く低く、燻る火種のようだ。誰にでも優しく賑やかな彼は今は見る影も無い。ぼんやりと佇む銀色だけを視界に据え、歩み寄る足音が吹雪を押し退けて矢鱈と大きく響く様は何時かのリンドウのようだ。感じる、業火の如き怒り。
振り被った手が銀色の胸倉を掴んで引き上げた瞬間、アリサの喉が引き攣った音を漏らしたが、同じく、吸った息を止めたサクヤは、しかし、燃える茶の中に違う色を見つけて、静止の言葉を呑んだ。
渡る叫びに吹雪が割れる。
「何で…何であの時一人で残ったんだよ…!俺等が心配しないとでも思ったのか!!本気で見捨てて行くと思ったのかよ!?ばっかじゃねえの!?捜さねぇ訳ねえだろ!!行ったよ、捜したよ!何度も捜しに行ったよ!!瓦礫の陰にいるんじゃないかとか、怪我して動けないんじゃないかとか、思って…早く見つけてやんなきゃって…!だって、あの後、すげぇ大変で、皆大変で…なのに、お前、いないし…リンドウさんもいないし…メール送っても全然、返事来ないし…帰ってくるって言った癖に帰って来ないし…フェンリルじゃ死んだ事になっちまうし……ほんと、何でお前…こんな普通に帰ってきて、んだ、よ…」
ばかやろう。崩れ落ちるように胸倉を掴んだ手を緩め、銀の痩身を力強く抱き締めた腕が震えている。途切れた言葉の後、噛み締めるのは唇。嗚咽交じりの吐息に紛れた微かな言葉はその内、尚も大声を上げてしまいそうになる己を抑える引き攣りだけに変わり、溶けていく。
初めて目にするコウタの乱心。それを呆然と眺めたサクヤとアリサはただ打ちのめされた。
リンドウとセンカを失って以来、一時たりとも動揺の素振りを見せず、気丈に振舞って皆を盛り立てて来た彼がこんなにも心乱れるなど誰が想像しただろう?何時如何なる時も懸命に人を励まし、勇気付け、時に少々的外れな事を言って場を和ませてきた彼。彼がそうしていられるのは、いなくなった彼等を信じているからこその事。――――そう信じていたのは、己の傲慢だったのだと、今、思い知らされた。
思えば、どうして一番の友を失って平気でいられるのだろう。どうして信頼する上司を失って平気でいられるのだろう。周囲が深淵に沈む中、どうして己だけが何事も無かったように振舞えるというのか。少なくとも、自分は無理だ、とサクヤは思う。気が狂いそうな毎日の中、安定を欠いた者達を励まし、その重荷まで背負って、誰にも話す事が出来ないまま、渦巻く皆と同じ思いを己の中だけに閉じ込めて、今にも爆発しそうな意識を必死で保って正気を強いているなど、耐えられない。だが、コウタはそんな毎日を今日、この時までずっと送ってきたのだ。
なんて、なんて、残酷な日々であったのか。自分は彼の苦しみを欠片も聞いてあげられなかった。気づきもしなかった。
湧き上がる後悔が視界を滲ませる。聞こえるのは、ずびび、と鼻を啜る音と完璧な涙声。
「…いっぱい、言ってやりたい事…あったんだぞ…?文句とか…色々…頭ん中ですげぇ練習したのに…ちくしょ…さっぱり出てこねぇ…。…けど、一個だけ、絶対、これだけは言ってやろう、っての、あるんだからな…!」
悔しそうに言いながら、コウタは布を千切る程の力で掴んだフェンリル式制服に頬を擦り付けて止まらない涙を拭いた。
詰まって、詰まって、嗚咽を漏らして、また詰まって、格好悪く搾り出した情けない鼻声が唸る吹雪を刹那、止める。
「…おがえり…信じでだ…」
コウタさんという人は悩んでいるのを隠そうとして上手く出来なくて、でも、皆の前では元気でいようとする人だと思います。ゲーム中でも気丈に振舞う彼はムードメーカーの名に恥じない人でしたが、その分、自分の悩みはもやもやを外に出せていないんじゃないかなぁ、とも思った訳で、今、こんなところで噴出させてみました。常識人でもある人なので、無断外泊した子を心配するみたいな、「心配させやがって、この馬鹿野郎!」という不満と怒りを前面に出しつつ、一方で帰って来た事が嬉しくてたまらなくてどうしたらいいか分からない感じも出せていたら多分、成功です。
最後の台詞をちゃんと言えてないのはコウタさんクオリティ。ああいう所は格好良く決めるんじゃなくて、人間らしく、不完全に崩してしまうような人だと思っています。「おかえり、信じてた」は新型に言ってあげたい言葉でもあったので、こういう時、コウタさんは本当、重宝します。ありがとう!(…あれ?今までちょっと真面目に話してたよね?)
ここから嫁が本気で単身赴任(違)する期間に入るのでリンドウさんは毛玉と寂しく温室生活です。
一方で支部は不思議生物が戻ってきてキラキラです。
2012/03/09 |