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 獣の目には、どれ程、滑稽に映っただろう。
 ともすれば、鼻で笑っていたのかもしれない。――――人間を謀ってまで、その傍らに立つ己を。

詐欺師は俯き目を閉じる

 どれくらい、そうしていただろうか。不意に強く吹いた寒風に肩を震わせたコウタが鼻を啜りながらセンカから身を離す。真っ赤になった鼻の頭が昔語りのトナカイのようで、それが少しだけ可笑しくて、つい、くすくすと笑い声を漏らしたのは女性陣だ。すっかり調子を戻したアリサは彼の鼻から見え隠れする鼻水を目敏く見つけて、拭いて下さいよ、汚いです、なんて軽く敬遠してみせる。
 こんなにも穏やかに皆で小突き合ったのは、久しぶりかもしれない。コウタはぼんやり思いを巡らせた。
「…でもさ、センカが帰ってきたのは当たりだったけど、ビーコン的な意味でははずれだったよね…」
 改めて周りを見回した彼が雪を積もらせるままにしていた己の神機を拾い上げながら言えば、瞬時に春の陽気を払拭した面々が眉間に皺を寄せた真剣な面持ちで頷く。
 思えば、もう何度目だろう。こうして、肩透かしを食らうのは。
「最近の調査隊、怠慢なんじゃないですか?」
 この間もはずれでした。そうぼやくアリサの顔は神妙というより苛立ちを多く含んで歪んでいる。鬱陶しげに肩にかかる髪を払う仕草もまるで憤っているかのようだ。実際、もどかしいのだろう。彼女は漸く見つけた親の敵と、己の贖罪とを同時に追っている。空振りが続いてもどかしくない訳が無い。だが、それは隣で顔を歪めるサクヤも同じだ。家族同然の幼馴染の手掛かりに手が届きそうで届かない状況を歯痒く思っているに違いない。
 ひょう、と吹いた風に一度、苦虫を噛んだアリサは虚空を一瞥してから気まずそうに再度、口を開いた。
「……彼等も、力を尽くしてるのは分かるんですけど…」
 でも、と言い募ろうとして口を噤む彼女の言葉を継いでサクヤが頷く。
「…そうね。…悔しいけど、今回はセンカが帰って来てくれただけ良かっ…」
 言いかけた、刹那、聞き慣れた唸り声がそれぞれの鼓膜を低く震わせた。ぐるるる。濡れた唸り声が、吹雪の向こう、極光の波が揺らめく寒空の下、切り立った山の崖上から聞こえる。声の響き方からして、「それ」はこちらを見ながら唸りを上げているのだろう。くぐもってはいない、鮮明な地響きがそう語る。風音を縫い、微かに聞こえる、爪で大地を抉り掻く音。
 瞬時に緊張を身に纏って響きの方角を見上げた人間達は「それ」を見た。初めて、正面から。
 野生にしてはあまり埃っぽさの無い毛で覆われた体躯は黒。ヴァジュラの人面とも、プリティヴィ・マータの女帝面とも違う、髭を貯えた厳格な面は壮齢の勇士の如く。黒い毛の隙間から覗く白い牙と鋭利な爪が矢鱈と鈍く光って見える。翻る衣は闇夜に栄える金色の。撓る尾はその一振りだけで岩を砕けるのではないかと見紛う力強さで大気を嬲っている。――――ディアウス・ピター。フェンリルがそう名付けた、リンドウを屠ったとされるアラガミが赤い双眸を厳かな様子で瞬きながら、雪の廃墟にたむろする彼等を見詰めていた。
「あれが、黒いヴァジュラ…」
 誰かの囁きが遠く風に攫われる。息を呑む気迫の中でそれだけでも言葉に出来たのは賞賛すべき事だろう。奇妙な緊張が心臓を掴み、大きく脈の音を響かせる。
 今、此処で応戦するのは分が悪い。悪すぎるくらいだ。自分達は今、決して易くはない戦闘を終えたばかりで、手持ちの薬も極僅か。回復弾があるとはいえ、それも乱発出来る様な代物ではない。センカも復帰したばかり――厳密には復帰してすらいない――。疲労は限界近くで、緊張の糸はもう擦り切れる寸前だ。今、応戦すれば、苦戦は必死。リンドウ程の神機使いを屠ったアラガミを、例え、四人がかりであったとしても、易く倒せるとは思えない。良くて命からがらの敗走、最悪、奴の胃の中。どちらにしても敗北だ。出来れば、このまま退いてくれる方が望ましい。
 唸りの振動に息を潜めて、降りるのは沈黙。風の音。果たして、眼下の生き物を視界に収めたまま口を閉じた獣は――――ゆるりと踵を返した。
 地響きのような重々しい足音が遠ざかっていく。やがて、その音が消える頃、漸く肩の力を抜いたのは、コウタが先だった。
「…う、わ…びびった…」
 あんな迫力、ねぇよ。身震いついでにぼやいて、黒色の消えた山陰を見やる。
 無言で頷くのはアリサだ。いくら、仇として並々ならぬ憎悪を抱いているとはいえ、捕食欲を剥き出しにした獣と対峙するのはそれとは違う感覚なのかもしれない。少しばかり青褪めた肌を片手で擦り、雪原を見渡してから、彼女はもう一度、崖を見上げた。
 あるのは、最早、雪ばかり。
「……襲って来なかったという事は、空腹ではなかったんでしょうか…」
「分からないけど、兎に角、あいつを倒さなきゃ駄目って事よね」
 この近辺で感知されたというビーコンの発信源が屠ったアラガミの中に無かったという事は、今し方、この場を後にしたリンドウの仇たるあのアラガミが保持している可能性が高いという事だ。
「待ってなさいよ」
 いつか、近いうちに、その首、貰い受ける。眼下の虫けらを見下す帝王の視線を思い出し、また身震いした彼等はそれでも、携えた神機を握る手に力を込めて白雪を冠する崖上を睨み据えた。
 人間が抱く思いとは別に、黒色の野獣と視線を交わした白藍には気付かないまま。


 烏羽センカの帰還は暗い影を落としていたアナグラの雰囲気に閃光弾でも投げたかのような波紋を齎した。
 出撃ゲートを潜り、エントランスに姿を現した彼を見た瞬間の場は凍り付いていたと言っても過言ではない。あまりの素敵な驚きようにコウタが誇らしげに胸を張ったくらいであるが、何よりも彼等を驚かせたのは、てっきり帰ってくるとしても、ぼろぼろになっているだろうと思っていたセンカがまるきり以前のまま、綺麗な装いで神機を抱いて帰還し、あまつさえ、固まったままのツバキの前へ淀みなく歩み寄って、いつもの茫洋とした白藍で煌く銀髪から燐光を散らしながら、只今戻りました、と言った事だろう。
 全く、場違いとしか言いようが無い。これには、流石のツバキも怒りを燃え上がらせる事も出来ずにただ、苦笑を零したものである。
「…馬鹿が…連絡くらい寄越さんか。二階級特進を取り消す処理も楽ではないんだぞ?」
「申し訳ありません」
 手にしたファイルで軽く小突いてやる彼女に返る言葉はやはりというか、さっぱり反省している素振りが無くて、そこで漸く、周囲からも苦笑いが漏れる。――――この綺麗な子供は、自分がどれだけ周りを心配させたのか、理解していないのだろう。そういう意味では、少しばかりお仕置きが必要かもしれない。とりあえず、この後、食堂にでも連行してやろうか。
 誰とも無く目配せをし合った時、ふと、センカの肩の向こうを見たツバキがごくりと喉を鳴らして唾を飲んだ。そのまま、切れ長の麹塵がぼんやりと佇む銀色の白藍を捉え、紅を引いた唇を引き結ぶ。
 センカの白藍に映る、あの人と同じ麹塵。漆黒の髪。
 視線の意味は、言わずとも分かった。恰もこの身に添うかのように常に傍らにあった、否、あろうとした男の姿を探したのだろう。彼女の、弟の姿を。
 再び静まり返ったエントランスで、言葉を発する為だけに吸った息の音が矢鱈と大きく耳に届く。
「レンギョウと……リンドウ、は、どうした?」
 硬い声音。この声を紡ぐ為に、彼女はどれだけの勇気を振り絞ったのだろうか。一緒ではないのか、と続けられなかった瞳の揺らぎが彼女が確かに不安に駆られている事を示していて、嗚呼、やはり彼は必要な「人間」だったのだ、と思う。襲う、鉛の飛礫。低く蠢き、刹那、止まる心臓。重い衝撃に黙した銀色はただ、俯いた。ことりと首を折り、揺れた銀糸から燐光が舞う。
 頷いたようにも見える仕草はそれ以上の言葉を生み出さず、それだけで全てを理解した彼女は微かに息を詰めた音を喉の奥から洩らして、少しだけ顔を歪めながら、痛ましげに笑ってみせた。
「…そうか。お前だけでも帰って来てくれて、嬉しく思う」
 そう言い、メディカルチェックを促す為に肩に触れた彼女の指先が僅かに震えていたのに気付いたのは、触れられていたセンカだけだったかもしれない。それくらいに、声音も、仕草も、顔付きも、全てが常の通りだった。問い詰めなかったのは、語る方も辛かろうと配慮したからなのか、或いは、訊く事が出来なかっただけだったのか。指が白くなる程の力できつく握られたファイルの軋みが小さく胸を掻く。
 人の上に立つ者として相応しく、取り乱す事の無い彼女の立ち姿は、けれど、だからこそ、俯いた銀色を崖の縁へ追い詰めた。――――重い鉛が、また一つ身に沈み、抉られた傷が疼き出す。
 押し込められたエレベーターの扉が閉まる瞬間、ふらりと振り向いて見たエントランスの面々がいつものように穏やかに笑いながら見送っていて、がしゃりと閉ざされた箱が動き出した瞬間、彼はもう一度俯いて、細く息を吐いた。
 目を閉じる。遮られるのは光。広がるのは暗澹。

 大丈夫。嘘は言っていない。
 ただ、俯いただけだ。



ディアウス・ピターさんと再会の巻。プラス、支部に帰還。
ピターさんと第一部隊は初対面ですが、新型は再会です。お互い「何でお前まだこんな所うろついてんの」という視線であった…かどうかは分かりませんが新型さんが多少、威嚇をしたと思いますのでピターさんは小首を傾げたかもしれません。或いは、小馬鹿にしたかもですね。普通のアラガミには新型の行動は全く理解出来ないものだと思うので。
支部への帰還場面についてはやっぱり嘘つけないけど嘘っぽい素振りを見せちゃうよ、という新型お得意スキル:黙秘権の発動で皆さんが盛大な勘違いと思い込みをします。嘘はついてないですよ。「ただ俯いただけ」ですからね!でも、嘘に繋がる事だけは新型も認識しているのでがっつり後ろめたくて落ち込んじゃう。慰める人は勿論、いません。周囲の誰にもばれてはいけない事なので、只管、一人でどんどこ抱え込みます。
で。まだまだ抱え込むよ(ぇえ)

2012/03/27