初めまして。狼はそう言った彼の言葉が嘘だと気付いた。
白雪の嘘
「…お前…生きてたのか…」
罵倒してやろうと心に決めていたにしては、呆然と零れた一言は間抜けすぎたかもしれない。
我に返ってから歯噛みする事になる言葉を紡いで、また硬直したソーマを冷静に眺めたセンカがゆるりと頷く。はたり。瞬く睫毛が羽のよう。
「はい。先程、帰還しました」
澄んだ声音は現実か?現実だろう。詰まる息を吐き出して紡いだ阿呆臭い言葉を笑う事もせず、緩やかに小首を傾げる仕草は、やはり、彼そのものなのだから。
茫洋とした無表情は変わらないまま。平然と返す、何処か的外れな言葉も変わらないまま。両腕で大事そうに神機を抱えて、吹けば飛びそうな朧げな様子で佇む様も、全てが同じ。コウタ達もこの姿を見て、今の己のように呆然と、ただ立ち竦んだに違いない。或いは、感傷に浸りやすい彼等の事だから、わぁわぁ泣いて縋りでもしただろうか?
散々迷惑をかけた癖に、ちっとも反省していないその態度は起こした事件の重大さのわりにあまりに普通すぎて、こちらが困る。などとは、まあ、彼自身は微塵も思っていないのだろうけれど。
肩の力を抜き、鼻で溜め息をついたソーマの眉間に皺が寄る。何だか、腹も立ってきた。こん畜生。
「……馬鹿が。帰投時間はとっくに過ぎてるぞ」
「…申し訳ありません…」
少しばかり、熱を持った目頭に気付かぬふりをして言えば、お世辞にも反省しているとは言い難い小さな声で謝罪が返って来るものだから、予想通り過ぎる展開に、ついにソーマも我慢の限界を迎えて苦笑を浮かべた。…恐らく、コウタ達も同じ道を辿ったに違いない。始めこそ怒って、泣いて、けれど、最後にはこうして笑ってしまうのだ。そして、そういう周囲の反応にすら、この銀色は小首を傾げて不思議そうにしてみせたのだろう。全く、難儀な性格をしている。
何にしろ、彼は帰って来た。自分で宣言した通りに。砂塵の向こうに消えた声が、俄かに聞こえ出す。
「『アナグラで会いましょう』なんて、次は言うんじゃねえ…ジジイになっても待たなきゃならねえ羽目になる」
茶化した言葉に、柔らかく緩む白藍の双眸。
「はい」
一言だけの短い返事は、最早、それが普通になってしまっていて、それにすら安堵を覚える己にソーマは淡く笑った。――――アナグラで会いましょう。髪に砂を纏わりつかせて、儚く消え行くように微笑んだ姿が、今でも脳裏に焼きついて離れない。でも、彼は確かに帰って来たのだ。奇跡の権化のように。
「覚悟しておけよ。暫くは周りがお前を放っておかないだろうからな。俺もお前にはコイツの事も含めて、話す事が…」
組んでいた腕を解き、腰に手を当てて姿勢を崩した彼がシオを一瞥して続けようとした、瞬間。
「いわないぞーっ!!」
「……は?」
「ぐっ」
びよん、と床から光の速さで飛んだ――それは正に飛んでいた――白い塊が銀色に衝突して絡みつく。センカの口から思わず零れた苦しげな吐息はそれが本当に苦しかったからだろう。傍目で見て分かる程強い力で抱き締められた彼の滑らかな眉間に皺が一本出来ている。
「ひみつはひみつだから、シオはいわないぞーっ!いわないんだぞーっ!!」
何だ、これは。何が、どうなった。喧しい。耳が壊れる。
骨の軋む音が聞こえそうな中、理解の追いつかない展開に固まったソーマの身体機能で稼動しているのは感覚が良過ぎて、寧ろ、不便な耳だけだ。動かない眼球に映し出されるのは、がっちり抱きつかれたまま動けないセンカが混乱して叫ぶシオの背を優しく撫でながら、溜め息をつく、珍しい光景。一見、微笑ましいその様を暫し眺めたソーマは、ふと、違う意味で動きを止めた。――――何処かに、違和感がある。何かが噛み合わない、そんな違和感が。あれでは、おかしい。
そもそも、彼は見ず知らずの者に抱きつかれて、平然としていられるような者であっただろうか?答えは否だ。見知った者ですら警戒するセンカは他者に必要以上に触れられる事を厭う筈。だが、目の前の光景はどうだろう。少々、乱暴にじゃれ付かれても平然といなしている姿はレンギョウに接している時の様子そのものだ。しかし、彼等は初対面の筈で、なれば、どう見ても人間にしか見えないシオがアラガミであるなどとセンカが知る訳が無い。警戒心の塊である彼が、あのように接するのは、おかしい。
眉を顰めたソーマの耳に清廉な声音が響いた。
「………何を言わないのかは分からないが、頑張ったのは分かったから、離してくれないか?」
目を細めた姿を見て、唐突に理解する。感じる違和感。――――あれは、嘘だ。
体内の琴線が震えた直後、良過ぎる耳に少々よろしくない、骨が軋む音が飛び込み、我に返って青褪めた狼は今にも抱き殺されそうな銀色から子犬を引き剥がしにかかった。
全く迷惑この上ない事だと彼は嘆息する。
ぐずる子供を引き剥がす労力というのが半端なものではないと知ったのはつい先程の事。それが非力な人間の子供ではなく、アラガミならば尚更だ。細い身体など見てくれだけ。脚まで絡ませ、木にしがみつく虫か性質の悪い怨霊のように痩身に取り付いて離れようとしないシオの首根っこを引っ掴んで力の限りに引っ張った時には引っ張られたセンカまでもが一緒に倒れこんできたものだから、無理に引き離そうとした天罰の如く二人の下敷きになったソーマは天井の電灯を眺めて、もう二度と母子を引き剥がす役は負うまい、と思ったものだ。これぞまさに貧乏くじ。どうして自分ばかりがこんなものを引く羽目になるのか、甚だ疑問である。
二人の間でまるで布団のようだとはしゃいで尚も銀色にしがみつくシオはさておき、謝罪を述べながら身を起こしたセンカが何故、ラボラトリを訪れたのかといえば、無論、メディカルチェックの為だろうと予想がつく。ずっと行方が知れなかったのだ。健康状態の確認は必須事項であるが…見て分かる通り、肝心のペイラー・榊は不在である。今頃は先日、帰って来たと知らせのあったシックザールと支部長室で腹黒い探り合いをしているに違いない。帰って来るのはもう少し後だろう。
思いながら、身を起こしたソーマは床に座って未だに抱き合っている二人――主にシオがしがみ付いている――を見て呆れた表情を浮かべた。
「おい。お前ら、『初対面の癖に』いつまでそうしてる?」
感動的な再会を果たした親子じゃあるまいし。含ませて言う言葉に、彼は気付いただろうか?探り見る白藍はぼんやりしたまま色を変えなかった。――――思い違いか。否、そうである筈が無い。彼等の触れ合いは自然過ぎる。
そうですね、と呟き、そっと絡む腕を外す仕草すら慣れているように見えて、それを眺めるソーマの胸の内では確信と錯覚が天秤上で揺れた。
外される腕を不思議そうに見たシオの肩に手を置き、緩やかに瞬く白藍を大きな金色に合わせるセンカの唇から呼吸の音が聞こえる。
「『初対面』ですから、名乗らねばいけませんね」
ぴくり。僅かに瞳孔を絞った金の瞳が瞬き、背筋が伸びたのをソーマは見逃さなかった。
「初めまして。フェンリル極東支部第一部隊所属、烏羽センカだ」
朗々と伸べる口上は硬くも無く、柔らかくも無く。しかし、レンギョウ以外に対して敬語を崩さないセンカにしては酷くぞんさいにも思える自己紹介だ。これがいつもの彼ならば、「初めまして。フェンリル極東支部第一部隊所属、烏羽センカ『です』」と括る所だろう。それが、今回は敬語で結ばず、短く切っている。これは、あの幼子相手にしか見た事の無い口調だ。
白金の前髪の下で目を細めるソーマの視線の先で、センカの言葉を咀嚼したシオが興奮を隠しもせずに頷く。
「シオはなー、シオっていう!アラガミだぞー!でなっ、ふくもっ、ふくもつくってもらったんだ!みんな、にあうっていってくれるぞ。えらい?」
「ん…偉いな」
身を包む衣を見せびらかすように両手を広げてみせながら、瞳を煌かせて言葉を繋げる彼女の頭を極自然に撫でるセンカの素振りは、実に滑稽に見えた。レンギョウというアラガミに慣れていたとしても、人型のアラガミになど慣れている訳が無いのに、これはどういった事だろう。やけにはしゃいでるシオもシオだ。己の名前を名乗る所までは良い。良く出来ている。しかし、後半は初対面の者には決して言わない内容だろう。初めて会う人間に、態々服を新調した旨を伝える必要は無い。まるで、久方ぶりに会う友人に近況を報告しているかのようにも思える口調だ。
前髪に表情を隠し、ソーマの天秤は錯覚を捨てた。
確信する。この二人は嘘をついている、と。恐らく、彼等はああして穏やかな会話をするくらいには以前に面識があるのだ。これは確信に近い。だが、そうとなればまた次の疑問が湧く。言語の問題である。シオは此処に来るまで碌に人語を解せなかった。だというのに、どうして彼等はこんなにも親しげなのだろう?アラガミとの意思疎通は相手が如何に知能の高い個体であろうと苦難を労する事は確かだ。それが、こんなにも自然に接する事が出来ているという事は、相当前から明確な意思疎通に成功していたと考えて良い。しかし、それは――――人間では、不可能だ。
気持ち良さそうに白い指先が白い髪を撫でるのを享受しているシオがあまりの心地良さに舟を漕ぎ始め、センカの手がそっと揺れる身体を支えている。どちらも、人型の存在。人間に、見える。「片方だけが」そう見えるだけなのか、或いは、「両方が」そう見えるのか。そこまでの確信は、見た目だけではやはり得られない。
聞こえ始めた寝息に合わせ、ぽん、ぽん、調子を取って優しく背を叩く柔らかな音。
人語を解さないアラガミとの意思疎通は不可能だ。彼女と同種の、アラガミという種族でもない限りは。
苦い顔で結論付けたと同時、不意に開いた研究室の戸口に帰還したサカキの姿を見つけたソーマは密かに安堵の息をついて思考を切り上げた。
名探偵ソーマさん(違)が真相に近づいているよ、の回。
そもそも、シオさんは隠し事が出来ない子なので分かる人には新型とシオさんの接触があったところまでは勘付かれ済みです。そこから先については、新型の事をどれだけ知っているかにかかっていますが…今の所、全部知っているのは博士だけなのでソーマさんは「どうしてシオさんと親しいのか」まではわかりません。予想がつかない部分なので、シオさんがうっかりぽろっと言わなければ謎のまま。なので、シオさんはその部分だけでも頑張って秘密にしております。…いや、本当は全部頑張って秘密にしているつもりなんですけどね(笑)
新型さんは薄々気付かれていそうな事に気付いていつつも得意の黙秘でスルーです。
再会的な意味では…「アナグラで会いましょう」が実は結構気に入らなかったソーマさん。「てめぇ、いつまで待ってりゃいいんだよ!」みたいな心境だったようです。
かなり嬉しいくせに素直じゃないのでコウタさん達みたいにわぁわぁしない。それがソーマさんクオリティ。
2012/04/14 |