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 おかえり、センカ。久しぶりに会った養父はそう言って笑ったけれど、その目は少しも笑っていなかった。

魔法使いは白雪姫に魔法をかけた

「さて、予想通りの素晴らしい赤数字だ」
 言い放つサカキの声音は春の陽気に似たにこやかな笑顔とは酷く掛け離れた、雪も凍る冬の夜に似ている。検査を終えたセンカはシャツの釦を留めながら脳裏でそう思う。
 無機素材のような微笑。こうして、彼が裏腹な態度を取る時は少なからず怒っている時だ。例えば、センカが己に物体以下の扱いを強いて襤褸雑巾に等しい形で帰ってくる時、サカキはよくこういう顔と声でセンカを叱って窘めた。
 己が物ではない事、決してそういった扱いをしてはならない事、加減と分を弁える事、そして、立ち向かってくる相手を殺される理由にしない事。最早、暗唱出来るまでになった説教は実の所、半分以上、意図を理解し切れていない部分が多い。元々、成り立ちから人間とは明らかに違う自分が人間らしさを説かれても今は言葉を鵜呑みするくらいしか出来ないが、しかし、以前の自分から考えればそれは進歩なのだろう。理解出来ないものを徹底的に意識から排除してきた己にしては柔軟な対応だと思う。ただ、鵜呑みにしたからといって理解出来たという訳では無論、無い。固形のまま飲み下し、持て余していると言うのが正しい表現だ。例えるなら、飲み込んだは良いものの、消化不良を起こし、胃凭れが起きている。そんな感覚なのだろう。
 一つ息をついて思考を断ち切り、最後の釦を留め終えたセンカの白藍が粉雪の風を帯びる学者の肩を通り越して奥の間へ続く鋼鉄の戸を眺める。――――あの戸の奥が、シオに宛がわれた部屋らしいと知ったのはつい先程だ。
 支部長室から帰って来たサカキが久々に見るセンカを前にして驚きもせずに真っ先に行った事といえば、まずはソーマを追い出す事だった。追い立て追い立て押し出して、不満気に顔を顰めるソーマを戸口の向こうへ追い払うと今度は手際良くシオを得意の口八丁で誘い出し、誘導された子犬はいとも容易く宛がわれた部屋の中。ぴしゃりと鉄が閉まる寸前にそれは楽しそうな笑い声が聞こえて、そのあまりの暢気な様子にセンカは密かに彼女の教育方針について考えたくらいだ。そうして、静かになったラボラトリを見回した男が最後に美しい筆捌きで書き上げた張り紙を戸の外に張り出せば、何人たりとも入り込めない空間の出来上がり。実に満足気に頷いたサカキが穏やかとは言い難い笑顔で振り向いたのは直後の事で、検査の末に弾き出された数字の悪さにまたうっそり笑ったのはその数分後の事だった。
 全てを終えた今の表情は前述した通りの極寒仕様。どんな業火も瞬く間に凍り付くに違いない。
「まあ、君の事だから死んではいないと確信はしていたけど、私でも遅くなれば心配くらいはするんだから連絡くらい寄越しなさい。暫くは前線に出さないようにヨハンに言って置くから、薬を飲んでしっかり休むように。こんなになるまでまた何処で何をしていたか知らないが、道草も時と場合を考えるべきだ」
 口調は常とは変わらないとはいえ、端々に棘が見え隠れするからには怒りは相当のものなのだろう。
「…はい。申し訳ありません…」
 大人しく床に目線を移して小さな唇を開き、センカは退室するべく、立ち上がった。―――― 一通りの検査は既に終えているのだから、辞しても問題は無い。これ以上の会話は、寧ろ、こちらに不利になる。喰えない学者は勘が良い。先程のシオの様子からして全てが隠し通せているとは思わないが、だとすれば、どこまで勘付いているのか。エントランスでの一件から動揺したままの己の状態では、一戦交えるには分が悪い。
 いつものように茶を淹れるべく背を向けて湯気を噴くポットに向かい合ったサカキの適当な手付きを一瞥して踵を返した彼を、しかし、学者は逃がさなかった。
「そういえば、以前もこんな事があったのを覚えているかい?」
 水面に小石を投ずるかのような声音。こつり、止まる足音と、かちゃり、ぶつかる茶器の音が響く。
「以前も、こうして勝手に行方を暗ませて、遅く帰って来た事があった。覚えているだろう。忘れる事は無い筈だ。その時の事で、私はまだ君に訊くべき事を訊いていない。君も、訊かれないから報告していない。…タイミングが掴めなかった訳ではないし、答えに当たりをつけられない訳ではないけどね…君があの仔に一生懸命生きる術を教えようと奮闘していたから、今は問う時では無いと判断していただけで、見逃していた訳では無いんだよ」
 分かっているね?静かに言葉を並べるサカキの掠める言い回しは切り込む頃合を探っている証拠だ。考えるまでもなく思い当たる節に、背筋を冷えた何かが滑り落ちた。
 勿論、あの仔を連れ帰ったその日から見逃されている事には気付いていた。幾度も手首に巻かれた血の滲んだ布に視線を感じていたものの、本来であれば真っ先に問うて来るだろうその質問を、彼はいつになっても問いかけて来ないものだから、安堵するよりも寧ろ、不気味に思っていたくらいだ。アラガミの生態に並々ならぬ興味を持つ彼がそれを見逃す筈が無く、センカの動向を探るという意味でも注視しない訳が無いあの日の事。自然の摂理に逆らう現象。今まで泳がされていた事実が、今思えば信じ難い。――――まさか、こんな場面で問われるとは思ってもみなかった。否、こういう場面だからこそなのであろうか。あの時の事と重なるくらいには帰還が遅すぎたのか。どちらにしろ、最悪だ。
 言うな、訊くなと脳裏で唱える銀色の願いを、穏やかに見せた弓の一矢が粉砕する。
「レンギョウをどうやって救ったんだい、センカ?」
 刹那、目を、閉じた。長い瞬き。瞬間の闇。
 逃げられない。白を切るべきか、切らぬべきか。選択肢は少ない。賢い方は後者であろう。だが、そこから導き出されるかもしれない事実を思えば、易々と真実を口にする事は憚られた。
 生まれた沈黙に沈むように、薬品のにおいが混じる空気を吸い、俯いた銀髪が白藍の目元に影を落とす。――――何も、言わない。白を切り通す自信は無く、切らぬ自信も無く、かといって、嘘をつく度胸も無い。選択は、ただ沈黙。
 意地を張る子供の如くむっつり押し黙った自分は酷く滑稽だっただろう。聡い彼にとってはそれだけで答えになっているようなものだ。分かっていてもこれしか選べないのは一重に、これならばレンギョウの事は隠せないにしろ、リンドウの事までは露見すまいと踏んでいるからに他ならない。あの人の事が知れなければ、それで良い。まだ知られる訳にはいかない。
 必死に無言を貫く、引き結ばれた花弁に学者が溜息をついたのは、諦めよりも呆れの方が色濃かったかもしれない。
「…言いたくないのならもう少し待ってあげても吝かではないが、私にまで秘匿しておくつもりなら、これだけは覚えて置きなさい」
 温度を更に下げた声音に細い肩は震えながら、けれど、耳を塞ぐ事だけはしなかった。
「もしもその結果、誰かに危害を及ぼすようならば、私は誰が何と言おうと直に君を檻へ連れ戻すよ」
 佇む学者の背中に返ったのは、無機質な扉の閉まる音。


 殊更、冷静な声色で紡がれたそれは、執行猶予をつけられて見逃されただけの重罪人を縛る枷の代わりだったのだろう。
 久方ぶりに足を踏み入れた、少々埃っぽい自室の扉に珍しく鍵を掛けたセンカは神機をソファに立てかけて部屋を見渡した。――――何も、変化は無い。当たり前だ。誰もこの部屋には入れなかったのだから。…リンドウの部屋も同じだろう。あの意外に綺麗な部屋の、磨かれたテーブルにもうっすら細かな繊維が積もっているに違いない。並べられた酒瓶に指を滑らせれば、きっと指が薄く灰に染まる。夕日に照らし出されたあの、リンドウの、煙草の香りに包まれた部屋が。
 早くあの部屋に彼の姿が戻れば良い。思いながらも真実を口に出来なかったのは己の愚かさ故であったのか。分からないまま時は流れて、誰にも会わぬままラボラトリから自室へ戻ってきてしまった。
 サカキはシオと自分の接触に勘付いている。気付いていて、レンギョウの件と同じように見逃してくれている。まだリンドウの件にまでは思い至っていないにしても隠し続けるのは不可能だ。サカキ自身も恐らく、シオと接触していただけでは説明し切れない帰還の遅さを琴線に引っ掛けている。それを示す何よりのものがあれだ。――――誰かに危害を及ぼすようならば、連れ戻す。今まで、どれ程、心乱れようとそれだけは口にしなかったサカキの、あの言葉。何を隠しているのか分からずとも、それが人類に危害を及ぼす可能性を感じ取っているのだろう。あそこまで明確に言い切るのだから、その事態が起こった時には、問答無用で暗く冷たい檻へ戻されるに違いない。
 淀む闇。床を這う冷気。纏わりつく大気。静寂の中の耳鳴り。全てが輝く世界とは違う檻の中。出られるのは再び、特務を与えられた時。どこまでも閉鎖された自我の必要性を否定する世界は今、自分が置かれている場所とは比べ物にならない。けれど、そこが、今まで己が置かれていた場所なのだ。ただ、元いた場所へ戻るだけ。何も難しい事は無い。生かされる環境が戻るだけだ。けれど、なのに、どうして、この胸は嫌な鼓動を打つのか。
 戻れるか?自問して、佇んだ薄暗い部屋の中心。ふとベッドのサイドボードに向けた白藍が空のコップに刺さったままのそれを捉え、歪んだ瞳がゆるりと降りた瞼に隠された。

 広がる闇の、その中で、瑞々しく咲いていた筈のいつかの竜胆の花が枯れている。
 恰も人間であった彼が死んでしまった事実を突き付けるかのように、色褪せて、からからと、からからと。



新型、ドS博士にいじめられる、の巻。
博士としては覚えのある帰還の遅さに「ん?これはシオに接触する以外に何かあったかな?うちの子がそんじょそこらのアラガミ相手に負ける訳ないし…これは前科を踏まえた何かをしてきたかな?」みたいな推理をしています。リンドウさんの生存にまで思い至っている訳ではないですが、また何か勝手な事してきたな、くらいの感覚。レンギョウについては「ま、この子の事だから死なせてないでしょ」なんて思っています。その上で、その「勝手な事」が何なのか確信を持つべく、ばっさり切り込んでくる特攻博士。タイミングがいいのか悪いのかよく分からない中年は容赦がありません。
新型はそんな黙秘権の通用しない博士が怖くてしょうがなかったり。アナグラにはそういう意味で味方をしてくれる人がひとりもいないので常に背水の陣を敷いています。そして、最後は自分から身を投げてしまう始末(ぇ)

2012/04/21