それはきっと八つ当たりだった。
首に首輪を、胸に切っ先を
センカが逃げ出したのを背中で見送った観察者にもごもごと小さな声がかかったのは急須に淹れたままだった緑茶が苦味を強くしてきた頃だった。
「はかせは、センカのこと、きらいなのかー…?」
か細い声は誰何をするまでも無い。シオだ。まだ入室の許可を出していないというのに困った子犬である。どうやら只ならぬ雰囲気にセンカの身を案じた彼女はこっそり盗み聞きしていたらしい。苦笑しながら、危うく忘れかけていた急須の口を傾けたサカキは薄い湯気を踊らせてカップの中へ弧を描く茶を眺めた。
「どうして、そんな風に思うんだい?」
「…だって、いじめてた…」
自室の扉の前に佇み、俯くシオを尻目に茶を注ぐ手を止めて色を見るサカキが、些か濃く出過ぎた茶を一口啜る。
苦い。明らかな失敗だ。全く、何故、自分が淹れるといつもこうなのか。何十年とこの飲料を愛飲しているサカキには未だに理解し切れない。どういう訳か、センカが淹れる時だけはこうではないのだ。苦味の中に甘さが滲む素晴らしい逸品になる。しかし、自分ではどう淹れてもああはならない。水も同じ、茶葉も同じ、淹れ方も同じ。さて、何が違うというのか、サカキともあろう学者がさっぱり見当もつける事が出来ない。実に腹に据えかねる事柄である。分からない事があれば突き詰めたくなるのが学者の性。今日も今日とてその疑問は腹の底で燻って、結果、この様だ。堂々巡りも笑えない。
湯を入れる度に考えているのが悪いのかもしれない、とは自覚している。何故か何故かと理由を考える内に良い頃合いを逃してしまっているのかもしれない、と考える間に、やはり、時間が過ぎて苦くなってしまうのだろう。だが、昔、料理にもその家の味があったというように、これが己の茶の味だと言われればそうなのかもしれないとも思う。目の覚めるような苦い、痺れる硬い茶の味。少しばかり素直に物事を考えられない自分が淹れるに相応しい味だ。同じように、記憶に残るあれがセンカの味なのだろう。
むっつり無表情からは想像もつかない柔らかな味を舌の上に再現したサカキの目が穏やかに細まる。――――知っている。あの子は心まで無表情ではない。寧ろ、心が無表情なのは、自分の方だ。
「…いじめてはいないよ。ただちょっと叱っただけだ」
言いながら、彼は先の己の言葉を脳裏で辿った。洩れるのは嘲笑。
ちょっと、などではない。あれはセンカを突き落とす言葉だった。少しずつに他人の存在を受け入れるようになった今のセンカにとってあの言葉は死刑宣告に等しかったに違いない。我ながら残酷な言い回しをしたものである。混沌へ連れ戻す宣言に怯えぬ者など皆無であろうに、苦い茶しか淹れられない自分は平然と彼の感情を叩き潰した。あれでは、下手に意思を持つなと言っているようなものだ。常々、感情論に首を傾げる彼に人の心を説いていた己が聞いて呆れる。
そういう意味では、シオのいう「苛めていた」は正しい見解だ。
ヨハネスの思惑にはめられたとはいえ、センカは姿を消し、いつの間にか特異点と接触し、連絡の一つも無くそれを隠したまま、彼にしては遅すぎる帰還をした。憶測に過ぎないが、まだ他に隠している事があるだろう。試しにぶつけてみたレンギョウの件についても沈黙を貫いた。――――率直に、面白くない。その一点に尽きる。何時いかなる時も隠し事などした事の無いセンカが頑なに口を閉ざすなど如何なる理由があっての事か。正直、ヨハネスよりも彼の事を理解していると自負する身としてはこの期に及んで秘密を持たれるなど心外以外の何物でもない。
今まで秘密を持たなかった子が親に隠し事をする事は思春期の子供にはよくある変化であり、いくら身内といえど、言えぬ事などごまんとあるのであろうから、不思議な事ではないが、しかし、頭の理解と心の理解は別物だ。自分にすら言えない秘密があるのかと信用の無さに愕然もする。
渦巻く心配を暗い憤りに変え、勢いのまま斬り付けるように放った子供染みた理不尽な嫉妬。それが、あの言葉の正体だ。何とも幼稚な事この上ない。
己に呆れの息を吐き、振り向けば、ぶぅたれた顔で見てくる子犬が一匹。
「…はかせがおこったソーマみたいなかおでいじめたから、センカ、いっちゃった…うた、うたえるようになったよ、って、いおうとおもったのに…えらいなー、って、ほめてもらおうとおもったのに…」
はかせのばか。ばかばか。どんびきです。彼女なりの、最大限の非難なのだろう。手足を棒のように張り、ぶんぶん振りながら、小さな口を尖らせ、口内でころころ鈴の音を転がし、最後に目一杯、頬を膨らませて金の瞳の瞳孔を絞って見据えてくる。
本気で機嫌を損ねていると分かる表情に苦笑を浮かべたサカキはそっと息を吐いて返した。
「それはすまなかったね。でも、心配しなくても、あの子はまた来るよ」
「でも、はかせがいじめる」
「もう苛めないよ」
探る目に返す視線には今度こそ嘘はない。本当の所、先程も苛めるつもりなど無かったのだ。ただ、思ったより彼の存在を観察対象以外として見ていたらしい自分の巻き起こす感情が強く表に出てしまっただけで、あれさえ無ければ、ちゃんと穏やかに帰還を喜んで、己でも笑えるわざとらしい仕草で銀糸を優しく梳いてあげた筈だった。――――そうだ。本当は、きちんと喜んでいる。叱るより、いびるより、試すより先に、きっと湧き上がった喜びを見せてあげたかったのに。おかしな所で不器用な自分はおかえりの一言すらまともな口調で伝えられないまま、彼の心臓に刃物を突きつけてしまった。いい歳をして優先順位を間違うなど、愚かにも程がある。呆れも通り越して、嘲笑すら浮かばない。
親子というのは、こんなにも難しいものなのだろうか。血の繋がりの無い自分達ですらこうなのだから、実際に血縁のある者達は更に難しいに違いない。
「……あの子は泣いていると思うかい?」
否、あの子は泣いてなどいないだろう。あの子は泣かない子だ。あの子の頬に水の玉が滑るなら、それは天がこぼした自然の涙の他は無い。そう思う。だって、この十六年間、どんな襤褸になって帰ってきても、彼は泣き言を言うはおろか、隠れて肩を震わせた事さえないのだ。暴言や脅迫にも慣れている。これくらいで泣いている訳が無い。絶対に。一人きりの部屋で小さな身体を丸めて目元を拭っているなど有り得ない。
半ば確信的に、言い聞かせるかの如く胸中で己の言葉を否定したサカキが、ふらふらと視線の真偽を確かめるべく近寄ってきたシオの白い髪に手を差し込んだのは、センカにしてやれなかった事の代わりだったのかもしれない。
不意に触れてきた温度に、金の瞳が細く笑む。
「センカはなかないぞー。きっと、わらう」
直後、木漏れ日よりも明るい笑顔を浮かべた彼女から返った言葉に目を見開いたのは観察者の方だった。
「笑う?」
「うん。きっと、いたそーにわらう」
ふわって、わらう。そうして、そうやって笑ったまま、自分の中の暗いものを誰も触れられない深い場所へ仕舞っていくのだろうとシオは思う。誰にも触れられないように、誰にも気づかれないように、そっと、静かに、自分も気づかないように、仕舞って、鍵をかける。そうすれば、誰も傷つかずに済むと彼は知っている。けれど、そうする事で自分が傷ついている事には気づかないのだ。だから、彼の感情はいつも凪いでいる。
「センカはおこらないし、なかないぞ」
どんなに理不尽な事をされても怒らないし、泣きもしないセンカ。それは、十六年共にいるサカキが一番よく知っている。知っているからこそ、もどかしくもある。そして、もどかしく思っている事も、聡い当の彼は知っていて、その痛みをまた身体の奥の誰も届かない場所へ仕舞うのだ。知っている。分かっている。知らない筈が無い。棘を飲み込んで飲み込んで飲み込んで、吐き出す事を知らないまま、飲み込み続けているあの綺麗な銀色。彼がそういう不器用で優しい生き物である事を、ずっと長い事傍にいる自分が良く知っている。
しかし、改めてシオに教えられるというのも何か、新鮮なのか、気に食わないのか、微妙な所だ。その辺りは、年嵩の奇妙な矜持というものなのかもしれない。
眺めたカップの冷めた緑にぷかり、浮くのは茶柱一本。
「…そうだね。怒りもしないし、泣きもしないね、あの子は」
例えば、「その日」が来て彼を再び檻に閉じ込めなければならない時も、彼は何も言わずに慣れた闇に身を沈めるのだろう。澱みの中で虐げられながら、痛みを飲み込み、感情を消して、物になる。物は怒気を抱かない。悲しみを、喜びを、悦楽を知らない。よく出来た人形そのままに与えられる苦痛と暴力的な行為を、煌く白雪は甘受する。――――それを、見ていられるだろうか。もう一度、始めから。ともすれば、初めよりも残酷な自我の崩壊していく様を、最初から、本当に動かなくなる最期のその時まで、見ていられるだろうか。
目を閉じて、吐き出す息が鉛を含んで重い。
「……あの子に酷い事を言ってしまったなぁ。謝らなきゃならない」
「わるいことしたら、ごめんなさい、だってアリサがいってた。シオもソーマとなかなおりしたよ」
無邪気な声につられて浮かべた笑みは、きちんと笑みになっていただろうか?そうだね、と返した言葉が酷く嘘臭く響き、サカキは胸中で己を嘲笑った。
鳥羽センカ帰還の報を受けたヨハネスは再び手に取り戻した使える駒を無駄に遊ばせはしないだろう。組んだ手の下でほくそ笑んだ旧友が考える事など容易に想像がつく。考えられる選択肢は、センカを空いた幹部席に据えるか、過酷な状況からの生還を評して特務を与えるか。どちらにしろ彼には良い状況にはならないだろう。体の良い事を並べ立てながら、その実、指示するのは第一部隊の監視、及び、必要に応じての暗殺だ。裏切りを指示する絶対的な指導者に、彼は逆らえないだろう。
そして、自分は、暴走する旧友を止められないもどかしさを抱えたまま、痛みを飲み続ける銀色を「観察」するのだ。
子犬が博士に物申すの回。
子犬は下手な駆け引きの知恵が内分、ストレートです。直球剛速球。博士相手にも引けを取らない伝家の宝刀(何それ)この頃になるとシオさんも随分、口達者になっている頃なので、口調のカタコトさが和らいで(?)います。
中身的な話をすると…博士にとって新型という子は養子である前に観察対象なので「観察するに好ましくない行動」については非常に厳格です。最近ではそれが多少、緩和されてきているとはいえ、根本的な変化はないので首輪の存在を確かめさせる手に優しさはありません。ですが、「緩和されてきている」と言った通り、新型の人間として意識に基づく行動にも理解を示しているので、自分の中で板挟みになっている状態になってしまっています。その苛立ちが正論と混ざって新型に向けられてしまったのが前回、という形。それが、子犬には「はかせがおかーさんいじめてる!」というように映ったようです。まあ、実際、苛めてるんですが(笑)
その子犬が最後に言った事は、自分のしている事を客観的な観点から見て、決して間違っている訳ではない事に気づいている博士には当分出来なさそうな事です。
2012/04/29 |