こんな馬鹿げた話があるものか。
悪魔の嘲笑
「本日、執行部がから正式な辞令が降りた。本日をもって烏羽センカをフェンリル極東支部保守局第一部隊の隊長に任命する。」
書面の字面を機械的に追ったツバキの硬い口調がエントランスに響き、整列した一同の鼓膜を等しく打つ。ざわりと波立ったざわめきの後、呆然と佇むセンカの隣で、すげえ、と呟いたのはコウタだった。
「すっげえ…出世じゃん!大出世じゃん!」
飛び跳ねて拳を握る彼の傍らで、優しげな笑みを浮かべたサクヤとアリサが複雑な色を揺らめかせながら、それでも祝いの言葉を紡いでくれる。途端に身を襲う居心地の悪さに俯く銀色が横目で密かに見上げた隣のソーマだけは、幸い、黙したまま前髪の下から、横目で覗いてくるだけだったが、この雰囲気に素直に流される事の出来ないセンカにはそちらの方が有り難かった。
帰還翌日の、急な昇格。嬉しいか、否かであれば、センカ個人の答えは明らかに否だ。
第一部隊隊長とはつまり、リンドウの後釜を意味している。生きているのか、いないのかも判らない――昨日、調べた所によれば自分達二人は既に二階級特進していたが――者の帰りをいつまでも待つ事は出来ないとはいえ、帰還したばかりの新人を部隊長に昇格とは破格過ぎる厚遇と言わざるを得ない。しかも、当のセンカはまだ二階級特進を取り下げる手続きの最中の上、休息を命じられている身であり、前線への復帰については未定と言って良い。戦力にならない者を隊長格になど、それこそ、正気を疑う。年功序列にしても次に部隊長を担うべきなのは副リーダーを勤めるサクヤか、そうでなければ長年神機使いを勤めるベテランのソーマであり、「経歴上」下っ端のセンカが出る幕ではない。
予想出来た事とはいえ、何か裏があるのだろうとは思わずにいられない人事にセンカは唇を噛む。湧き上がるのは腸を焼く熱。これは、リンドウや第一部隊を冒涜する行いだ。紛れもない暴挙だ。密かに長い袖の下で握り締めた白い手が戦慄く。爪が皮膚を破らないで済んでいるのは、まだ憤りが理性で抑えられる程度であるからだろう。だが、それも、いつまで保てるか。
通達の終了を告げて踵を返そうとする黒髪を、細く、けれど、唸る強い声が引き留めた。
「解せません」
冷えた鉄の如く堅い声音に刹那、ツバキの肩が弾む。目を落としたファイルから顔を上げれば、見据えてくるのは凍える冬の色。銀糸の合間から険しく覗くそれはあたかも水底に揺らめく炎を映すようで、彼女は吸った息を喉に詰まらせた。
何処かで音を紡げなくなった誰かの、無理矢理、吸った息が、ひゅ、と鳴る音がする。
矢鱈に長く思えた沈黙は一瞬であったかもしれない。
「…解せない、とは?」
何とか飲み込んだ息を吐き出して紡いだ音は何ともお粗末だ。自覚出来るくらいには酷く間抜けなそれに内心、苦虫を噛んだ彼女は手持ちのファイルを爪で掻いた。これでは彼の機嫌を逆撫でするようなものだ。己の愚か者。
冷や汗を頬に滑らせたツバキの予想に違わず、要領を得ない返答に珍しく苛立ちを濃くした白藍が更に鋭く細められ、また喉が凍り付く。――――これ程に冷たい眼差しを浴びせられた事がこれまであっただろうか?対峙してきたアラガミでさえこんなにも冷えた眼差しを向けて来た事はない。ただただ冷たいばかりの、白藍の瞳。一度の瞬きすら許さぬ深い憤怒の冷気がエントランスの大気を飲み、凍らせている。耳から吹き込まれ、内臓まで止めるのは氷と化した白雪の艶美な鈴の音。
「通例ならば、現副リーダーである橘サクヤ曹長が隊長を担うべきです。曹長を差し置いての人事など、承伏しかねます」
澄んだ氷を打ち鳴らす如き玲瓏な響きが、ぞくり、背筋を上る。
「僕を推挙したのは、何方ですか」
それは誰何ではなく、逆らえない脅迫だった。ぎらぎらと光る双眸は敵に挑む獣のように。誤魔化せば、噛み付かれると錯覚する圧力が首を絞めて、声を奪う。
正面から対峙していない筈の隊員達が数歩後ずさったのは、恐らく、保守本能からだったのだろう。
「同じ事は、二度言いません。お答え下さい、雨宮ツバキ教官」
捕まれた心臓が痛い。肺が膨張し切ったように苦しい。聞こえる血流、脈の音。――――直後、本能が義務感を越えた。
「…シックザール、支部長だ…」
「有り難うございます」
短い謝辞の後、磨いだ氷を細く尖らせた凍える銀色が大気を切り裂きながらエレベーターの扉に消えた。
残されたのは、流れた汗に米神を濡らす女と消えた銀色を見送った隊員が四人。
蛇のように笑う男の顔は、久方ぶりに見た癖に記憶のそれと寸分違わずそこに存在していて、早速、殴り込んだ事を後悔し始めたセンカは思わず顔を逸らした。対して、直立不動を保つ彼を眺めるシックザールはあからさまな嫌悪の仕草に気を悪くする風でもなく、いつになく上機嫌な様子で優雅にコーヒーカップを傾けて見せる。
「手駒が戻ってくるというのは存外、安心するものだな」
それが使える物なら尚更。余裕の笑顔をこんなにも胸糞悪く思った事も無いだろう。
耳朶を舐めしゃぶるような声を今更、長々と聞くつもりもないセンカの唇が、シックザールにしては珍しい好意的な言葉を跳ね除けて開いた。
「この度の事ばかりは承伏しかねます。部隊長への就任を取り下げて下さい」
昇格への感謝も無く放たれた異議に、途端に男の瞳が上機嫌を翻す。
「…以前、教えた事をもう忘れたか。お前に己の意思を述べる権利は無い。それ以上、ふざけた人間ごっこをするつもりなら、お前を教育し直さねばならんな」
丁度、生殖実験も久しくなっていただろう。言われて、細い喉が引き攣った。
確かに、フェンリルに所属して早数ヶ月、これまで一度も生殖実験は施されていない。だが、今それをされるのは、困る。都合が悪い。任務に支障は無いものの、現在、自分の周囲には人が溢れている。特にソーマやシオ、今のリンドウはアラガミの気配に殊更、敏感だ。自分が生殖実験から解放された時、その気配に気付かない彼等では無いだろう。リンドウに至っては生殖実験について説明までしてしまった。その事をあまり良く思っていなかったらしい彼が憤らないとも言えない。
呆然としながら、身体の底からせり上がる炎に牙を剥き掛けていた漆黒を脳裏に思い起こし、センカは軽く首を振った。――――彼を刺激してはいけない。今は、特に不安定だ。なるべく心が平静であるよう配慮しなければ。
「……申し訳ありません…口が、過ぎました……」
自分が耐えれば良いだけの話なのだ。あとはシックザールがリンドウの存在に気付かず、シオの存在に気付かず、全てが水面下で終わればいい。割り切れ。これは「命令」だ。大丈夫。まだ彼等を殺せと言われた訳じゃない。まだ…まだ。
白い面に氷の無表情を貼り付けて頭を下げた銀色を満足気に眺めたシックザールの目が和らぐ。
「分かればいい。しかし…期待通り通り、滞りなく任務を完遂してくれたようだな。お前はそういう所だけは良く出来ている」
任務。蒼穹の月。よくやった、と言ってくるという事は、リンドウの死を疑っていないという事なのか。否、油断は出来ない。してはいけない。これがこの人のやり方なのだ。何処かで、食い違う歯車の小さな一つを見つけ出そうと目を光らせている。嘘を探す眼差し。十六年、それを見てきた。油断をしてはいけない。シックザールにも、サカキにも。絶対に。
噛み締めた奥歯が口内を噛み切り、鉄の味が広がる。存外、多い量が唾液に溶け、口端から零れぬよう花弁をきつく閉じた白雪は喉を鳴らした。
艶やかなマホガニーのデスクに頬杖をつきながら愉悦に笑む金色の男が、まるで牙を持たない謀略に長けた獰猛な獅子のようだ。
「隊長就任の際は呼び出すのが定例だったが、お前から来てくれて手間が省けた。…と言っても、今更、お前に説明をする事など一つも無いがな。取り立てて言う事があるとすれば、リーダー専用の個室が与えられる事くらいか」
「部屋が、変わるのですか?」
訝しげに眉をひそめたセンカに、しかし、今度のシックザールは気分を害さなかった。代わりに、試すような視線で男の唇が弧月に歪む。
「前リーダーであるリンドウ君が使用していた部屋を使って貰う」
「え…」
木霊する音が意識を殴り、直ぐには理解出来ない。今、何と言ったのだろう、この獅子は。――――リンドウの部屋を、使う。リンドウの部屋。彼の部屋が、己の部屋になる。それは、つまり。理解して、首を振る。否、それだけは、出来ない。己は廊下の床でも倉庫でも構わないが、そこだけは、いけない。そこだけは。
俄かに焦りを滲ませた白藍が見開き、硬く閉じていた花弁が大きく開く。
「そんな、それは…!」
「何を動揺する必要がある?」
遮り、切り返され、言葉を奪われた銀色が音の出ない唇を二度、三度、戦慄かせ、やがて、半開いたまま、ただ、吐息だけを繰り返した。浅い呼吸の音色が時計の音と共に、室内に張った沈黙の薄氷を割る。瞬きを忘れた淡い青が深い錆色に縛られ、揺れた湖面が乾いて痛みを訴えた。
視界に映るのは嫣然と背凭れを軋ませる男の微笑。
「彼は、『もういない』のだろう。『空いている部屋』を遊ばせておく余裕は無い」
楽しげな声色が何かを叩きのめす。落ち着け。落ち着け。彼の言う通りだ。リンドウはいない。少なくとも、このフェンリル内にはいない。けれど、嗚呼、でも、あの人が戻る筈の場所に、己が陣取るなどあってはならないのに。だって、あそこは『リンドウの部屋』なのだ。いつもリンドウがあの部屋で煙草を吸っていて、紫煙が明かりを曇らせて、テーブルに置かれたままのビールの缶から仄かにアルコールの香りが漂い、それだけでふらりと酔いそうになる、そんな、彼の場所。そこに自分などが入ってしまったなら、彼の存在を否定する事になってしまわないだろうか?雨宮リンドウはもう存在しないと、証明する事にはならないだろうか?
フェンリルの中から雨宮リンドウの痕跡を消す。それがどれ程、罪深く、愚かしい事か。そんな冒涜は、馬鹿な事が、あって良い筈が無い!
「どうした?もうリンドウ君は『いない』のだろう?それとも、私が間違っているかね?」
間違っている。大いに間違っている。あの人はまだいるのに、此処へ帰ってくるべき人なのに、これは、間違っている。嵐の如く体内で渦巻く感情の波に抗いながら、僅かに残った冷静な部分が辛うじて支配した口は――――正論を述べた。
「そう、ですね…申し訳ありません…」
枯れた声が洩れる。
口にした言葉は機械よりも冷えた響きだったに違いない。寧ろ、そうでなければ口にする事は出来なかっただろう。危うく、試されている事を忘れる所だった。我ながら、素晴らしい起死回生に賛辞を贈りたい気分だ。
リンドウの部屋を使わせると言ったのも、彼はもういないのだと執拗に問うてみせたのも、全て、センカがリンドウを間違いなく殺したか、或いは、確かに死んだのを見届けたかを確認していたのだろう。事実、シックザールは己が間違っているか、と問うて来た。裏を返せば、リンドウが生存しているのか、と訊いているものと同義。要は、餌を投げられたのだ。喰い付けば是、喰い付かねば否。
かくして、爪先を掠めただけに留めたセンカは辛くも難を逃れた事になる。
生意気な口を閉ざした人形を眺めて、またしても満足気に頷いてみせるシックザールはこの仕草を「人間ごっこ」の延長だと思っているかもしれない。そうであれば良いと願う銀色の、漸く瞬きを思い出した白藍の瞳には肩の力を抜く金髪の男の嘲笑が映り込んでいた。
「お前の荷物は既に運び込んである。ロックも変更済みだ。新しい部屋へ速やかに移動してくれたまえ。特務の連絡は追ってする」
「了解しました」
薄情なこの様をあの人が見たら何と言うだろうか。
恭しく下げたこの頭を、誰か、斬って落としてくれればいい。
そう切に願った。
お気づきだとは思いますが、順序がいろいろ逆転して、新型の隊長就任がコールド・ダムゼルと入れ替わっています。ご都合主義ってやつですね!てへっ!(オイ)
新型の復帰をコールド・ダムゼルにしようと考えるとどうしても隊長就任と時期を入れ替えなくてはならなかったのでこうなりましたが、まあ、違和感は仕方がないという事にして下さい…これしかなかったんです…っ!
中身的な話をすると、新型さんの絶対零度怒髪天の直撃を食らったツバキ様は本当、とばっちりと言わざるを得ません。「悪いのは支部長なのにどうして私が怒られるのか!」という文句を…言えない中間管理職(ぇえ)今日も胃薬と頭痛薬を手放せません。癒しの筈の義理の家族(違)にまで嫌われるかもしれない危機に御姉様は支部長に対して結構あからさまな殺意を覚えたり覚えなかったり。
当の元凶は、というと、こちらは全然意に介していない感じです。寧ろ、手駒が戻ってきてやっぽーい!みたいな。博士の推測に違わず要職につけてもっとこき使ってやろうと暗躍中です。
で。最後の最後に嬉しくないお鉢が回ってくる新型はまたメンタルダメージハンパない。
2012/05/06 |