さて、困った。――――おたまを片手にセンカは鍋を覗き込む。
傍目には常と変わらぬ表情でありながら、彼は実の所、非常に如何ともし難い状況に陥っていた。
さて、困った。――――これをどうするべきか。自分はそれ程、大食漢ではないし、かといって、これを片付けてくれる誰かがいる訳でも…
「なぁ、センカー、明日の任務……って、うおっ。何これ、すげぇ良い匂い!これって何のにお…い…」
「あ、コウタさん」
鍵を掛け忘れた扉から意気揚々と侵入を果たした同僚の名を呼んだ刹那、彼の動きが止まる。目を見開き、開けっ放しの口をそのままに、踏み込んだ体勢で固まっているのがなんとも滑稽だが、生憎と自分はそれを馬鹿笑いするような性格の持ち主ではない。それにしても、そもそも、何故、そこまで驚いた顔をしているのだろう?
沈黙が流れて数秒。漸くふるふると震えながら持ち上がったコウタの指が台所に佇むセンカを…正確にはセンカが睨み合いをしていた原因を指して戦慄いた。
「そ、それは…」
それは所謂、手作りの晩御飯というやつですか?
思えば、センカが何かを食している場面など見た事が無い。勿論、友人第一号を豪語するコウタが食事に誘う事はあったが、その都度、返ってくるのは否の返事か、そうでなければ計った様に灯る自室不在の赤ランプだけだ。此処最近ともなればその赤ランプだけが灯っている事が多かったものだから、そんなに嫌なのかと友人として少しばかり落ち込んでいた所である。
ただでさえ細い身体を支えるにはせめて、食事くらいはきちんと摂らなければならない。加えて、先日発覚した通り、彼は身体が強く無いのだ。余計に栄養を摂らなければ体調を崩すのは明らかで、だからこそ、コウタは彼の食欲の無さが心配でならなかった。
ラボラトリでサカキの入れた茶を飲んでいるのを目撃しているから、食べられない事は無いと思うが、誘えど誘えど返るのはつれない返事。それも控えめに、けれど、反論の隙を与えない巧みさで逃げてしまわれてはコウタに追いかける術などあろう筈も無かった。これがリンドウなら、それこそ彼を担いででも食堂に連れて行くのだろうけれど、コウタにそれが出来るかといえば、無論、答えは否だ。
数度断られて暫く、あまりに食べていないように見える友人を心配した彼が取った行動は観察だった。
食事をしないならば間食はどうか。実はこっそり菓子を食べて過ごしているのかもしれない。――――ある日、じっくり観察して見れど、彼はぼんやり虚空を眺めるばかり。結局、その日は彼が菓子の一欠片すら食べている場面を見られなかった。次の日も、その次の日も、その又次の日も、結果は同様。数日間それを続けたコウタはあまりの結果に、彼が空気だけで生きているのではないかと本気で思った程だ。
それが、今日、見事に覆された。
扉を開けた瞬間に鼻腔を満たしたまろやかな香り。野菜と豆がトマトの酸味を和らげて見事な重奏を奏でる様はまさに芸術だ。添えられたパンの甘みによく合う味は計算されているとしか思えない。――――ミネストローネ。人がそう呼ぶ一品がこれ程までに素晴らしいと思った事は一度も無い。まさしく、逸品。
が、それも今は全てコウタの腹の中である。
満腹感と満足感に顔をだらけさせ、彼はソファにふんぞり返った。
「ごちそーさまーっ!美味かった!すげぇ美味かったよ!…てか、アナグラの食堂より美味いかも」
「そんな事は無いと思いますが…お粗末様です」
大袈裟に贈られる賛辞に、未だ己の器の中身を攻略している最中のセンカはぺこりと律儀に頭を下げながら、内心、安堵の息を吐く。
本当に、どうしようかと思った。いつも必要な分量しか調理しない所為か、偶に多く作りすぎてしまうと非常に困る。今日も珍しく目測を誤ってしまい、実を言えば鍋を掻き回しながら途方に暮れていて、だから、コウタの登場は図らずも渡りに船だった。
そう思いながら、センカは己に割り振った小さなパンを消費すべく、更に小さく千切ってもしょもしょと口に放り込む。
「それにしても、お前、自炊してんならしてるって言えよな。俺、ちゃんと食べてるのか心配してたんだぞ?」
でも、まあ、安心した。コウタが笑いながらそう言えば、ぱちりと瞬く白藍の双眸が小首を傾げた。
そんな仕草を見せる不思議生物代表の食生活の真相がまさかまさかの自炊であると一体、誰が思うだろう?寧ろ、自炊出来るという事自体に驚くのかもしれない。ある程度の事ならば何であろうとそつなくこなすセンカを思えば全く不思議な事ではないのだが、その不思議さ故に「生活」という区分からは果てしなく遠い位置にいると思われているのもまた事実。現に、比較的親しい間柄であるコウタの中にも「自炊」という解答の選択肢が頭文字すらなかった。
野菜の欠片すら残さず空になったスープ皿を前に思い返せば、何とも失礼な話だったと言わざるを得ない。
胸中で平謝りして苦笑を浮かべたコウタは一口、水を含み、斜め向かいに座るセンカの器を眺めたところでふと、動きを止めた。
自分に出されたものよりも小さな器――どうみても小ぶりの御椀だ――に半分程度にしか盛られていないスープ。傍らの皿に添えられたパンですら掌より小さい膳は一言で言うならば、少ない。それが第一印象だ。こんな少ない量で足りるのかと思う程、その量は随分と少ない。コウタの半分、否、それ以下だ。きっとアラガミの方が良く食べるに違いない。例えるなら、そう、小動物の餌のような量。
「あの、さ」
「はい」
ぴたり。銀のスプーンを操っていた白い手が止まる。話を聞いてくれる姿勢だが、果たしてこれは訊いていいものなのか、疑問ではある。食事量に関する事、というのはやはり個人的領域のもので、他人が易々口を出していい問題でも無い。こちらの勝手だろう、と言われればそれまで。何か問題があるのか、と言われれば、確かに問題があるからこちらは問うている訳で…どちらにしろ、いい展開にはならないだろう。
逡巡する事少し。躊躇う視線がセンカと皿を行き来し――――それだけで、彼は理解したようだった。ゆっくりとスプーンを置き、姿勢を正す。
「……あまり、食事を必要としません」
「それって…量を食べられない、って事?」
コウタの問いに、彼は緩く瞬き、刹那、思案した。どう返すべきか、迷っているのか。相応しい言葉を捜しているのだろう。
彼は時折、会話の中でこういう仕草を見せる時がある。思い浮かべた言葉を更に推敲し、より相応しい言葉で大気に送り出す作業をしているのだ。それに気付いたのはいつの事だったか。その作業を経て奏でられる言葉はとても簡潔で、明確で、明瞭だ。しかし、同時にそれはとても人間味に欠けているとも思う。機械的な硬い表現。それが、酷く寂しい。
時計の秒針が半周する頃、こくり、と小さな頭が縦に振り、燐光が散った。――首肯だ。どうやら、きちんとした言葉を見つけられなかったらしい。それに気を悪くする事は無く、コウタは続ける。
どんなものにしろ、拒絶の眼差しを向けられていないだけまだ良いというものだ。まだ会話は出来る姿勢のまま。
「もしかして、食堂に行くのを断ったのも、全部食べられないから?」
逡巡して、再度、首肯が返る。…ああ、成る程、判った。
アナグラの食堂は元より神機使いが利用するからか、比較的量が多い。トウモロコシなんて、実際、凶悪だ。確かに、この食事量を鑑みて、センカには食堂食を消費するのは中々辛いだろう。食べられるだけで幸せなこのご時勢。食料を粗末にするなんて行為はそれだけで非難の対象だ。そういう意味では、彼は気を使って食堂での食事を断っていたのだろう。
無論、それだけでは無い事を自称、友人第一号は知っている。
ちらちらと探る目を向けて、恐らくこれが最大の理由であろうものを繰り出した。
「もしかして、食堂だとリンドウさん達と遭遇するかもしれないからってのも、ある?」
ぴしり。
音がする程の硬直というのを、コウタは初めて見た。
見た目は平常だ。そう、見た目だけは。いつもの無表情に、いつもの肌の白さ。いつもの眼差しに、いつもの銀の燐光。しかし、千切った箇所が小鳥の啄み跡のようなパンの欠片にぼんやりと目を落とすその周りの時間だけがどうにも止まっているように見える。ともすれば、彼が眺めている――ように見える――白い皿の上に転がる香ばしいそれが見てはいけない物体のようにも思えたかもしれない。
ああ、成る程、判った。これも答えだ。寧ろ、これ「が」答えだ。彼はもう一度、納得した。
センカにとって雨宮リンドウはいわば天敵である、というのは少々、言い過ぎにしても、センカがリンドウに身構えて相対しているのは第一部隊の中では有名な話だ。そうでなくとも、対人能力が壊滅的なセンカの事。人が集まる食堂での食事など、それこそ食事どころではないだろう。そこに運悪く――リンドウにしてみれば幸運なのだけれど――件の男が姿を現そうものなら脱兎の勢いで自室に飛んで帰るに違いない。そして、きっとその後姿をリンドウは疾風の如き速さで追いかけて捕まえるのだ。難なく想像出来てしまう辺りがなんとも言葉にし難い胸の重さを生む。
「あー…うん…何となく判った…」
半眼でモニターの彼方を見据えてしまうのはもう、ここ数日の癖だ。何て報われない我らが隊長殿。
しかし、ここで彼の自炊を全て黙認してしまっては社会性の育成に支障が生じる。それだけは何としても阻止しなくてはならない。何より、毎日一人で食事をするなど、友人第一号であるコウタには到底、許せる行いではない。
むぅ、と一つ唸って彼は口を開いた。
「あのさ」
「はい」
「どうしても、食堂に来るの、嫌?」
ぱちぱち目を瞬かせて見つめてくる友人に、彼は続ける。
「食べきれないなら俺が手伝うからさ、一緒に行こうぜ?リンドウさんがいない時間とか狙ってさ。そしたら大丈夫だろ?お前の飯、美味いし、俺もまた食べたいけどさ…偶には違うとこで違うもの食べてみるも良いもんだぞ?」
センカの料理は美味い。世辞ではなくコウタはそう言い切れる。だが、そんな美味しい料理を一人で食べるなんて、どんなに美味しくても味気ない。今日は自分がいるけれど、いつもはたった一人で調理をし、たった一人で食事をし、たった一人で後片付けをしているのだろう。そんな味気無い食卓の所為でこのミネストローネの味がどれだけ損なわれてしまうのか。惜しくて堪らない。だから、そう、きっと、大勢がいる所で食べる楽しさを知ってもらえれば、何か変わるのではないかと思うのだ。何が、とは、まだ明確な言葉には出来ないけれど。
応えを待つ事数分。刹那の逡巡が沈黙に変わる頃、少しばかり眉尻を下げた銀色の小さな唇から、ぽつり、と鈴の音が零れる。
「……その条件でなら、構いません…」
漸く紡いだような、小さな小さな言葉に、コウタは苦笑を禁じえなかった。その条件で、とはつまり「リンドウに会わない条件で」という事だろう。此処まであからさまだと同情すらしたくなる。どれだけこの白雪はリンドウを警戒しているのか。その様はまるで毛を逆立てた子猫のようだ。こうなっては触れる事はおろか、近づくだけで威嚇されてしまうだろう。
子猫を前に戸惑う大きな黒獣。なんとも滑稽な構図だ。思い描くだけで笑いが込み上げてくる。彼が白雪と仲良くランチだなんて、まだまだ夢の話に違いない。
腹を抱えて笑いたい衝動を押さえ込み、彼は胸中で大声で叫んだ。――――嗚呼、何て可哀相な我らが隊長殿!!、と。
後日、初めて食堂に赴いたセンカに大森タツミが感動の涙を流したのはまた別の話。
時間軸的には「友達レベル2」後くらい。
新型さんの食生活についての新事実。まさかの自炊でしたというオチ。そして理由が「リンドウさんと会うかもしれないから」という非常にリンドウさん的には嬉しくない理由。どんだけリンドウさん警戒してるの、当家の新型さん(笑)
自炊ネタはどうにかして出したかったので満足です よ !!
何もかもが一人分しかない新型さんのお部屋での食卓はコウタさんにスープ皿、新型さんに御椀というなんとも奇妙な食器の組み合わせ。後日、またコウタさんが新型さんに食事を強請るときには自分でお皿を持ってきます。じゃないと食器足りないですからね!
タツミ兄さんが感涙したのは…ほら、アレですよ。やっぱりお兄さん的に心配していた、というか…おいおい泣いて縋ってたと思います…。祝杯とか挙げたよ、きっと。凄いウザイ感じで。
サクヤさんもソーマもきっと陰ながら心配していたんじゃないかと。博士は……知ってても言わないのが博士クオリティ(何)
リンドウさんは言わずもがな…というか、あの人はきっと一生、新型さんが自炊してるのを知らなさそうです。誰も教えてあげない(酷)
何て可哀相な我らが隊長殿!!
2010/11/28 |