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 後日、男は、俺は悪い事なんて一つもしていない、とのたまった。

肝心なのはTPO

 その日、エントランスに現れた面々は酷く疲れた様子でツバキの前を横切り、多少の事では動じない筈の彼女を大層、驚かせた。
 恰も死人のように歩く彼等。その酷さといったら、無い。顔色の悪さは勿論、目の下の隈に始まり、唇のかさつき、少しこけた様にさえ見える頬まで、一晩で何があったのだろうと目を見張らせる程だ。
 そんなにきつい任務を連日、与えていただろうか?首を傾げて場にたむろする防衛班や整備班達を一通り眺めた後、真剣な面持ちで手持ちのファイルを捲り出した彼女を他所に、青白い顔の彼等、第一部隊はぼそぼそと、それこそ死者の呻きの如く話し出した。
「…ねえ…寝れた?」
 そう言うのは殊更、疲労感を感じさせる顔をしたコウタだ。ぐったりしながら歩いてくる彼は最早、腕を上げる気力すら無いらしい。
 死んだ魚に似た彼の目がぐるり周りを見渡して止まった所で、同じ目をしたサクヤとアリサが首を振る。
「聞かないで頂戴…警戒し通しで寝てないわ…」
「そうですよ…見れば判るじゃないですか…」
 お互いに凭れ掛かって支え合う彼女達の手には未開封の缶コーヒーが一つずつ。プルタブを開ける気力も無いのか、細い指先に引っ掛かっているだけのそれは宙にぷらぷらしていた。…成る程、あれから一晩中、二人で件の男の部屋を見張っていたのか。何ともご苦労な事である。
 彼女達の尽力のおかげで狼に喰われずに済んだ銀の子兎は只今、目線の先のターミナルで任務の準備中だ。
「…お前は?」
 ちらり。隣に佇むソーマを見て、嗚呼、返る視線が斧のよう。曰く、重く、冷たい。
「寝られる訳ないだろ」
「だよな」
 結論として、現在、早朝から任務に出ているリンドウとエントランスでターミナルを確認するセンカ以外の誰もが寝不足と猛烈な疲労感に襲われているという事らしい。一晩でこうも消耗してしまうとは、とんでもない事件を引き起こしてくれた彼等が悪いのか、それとも、その後に保安部を呼ぶべきか迷う行いをした男が悪いのか、或いは、公に言えない意味で捕喰されかけた銀色を守ろうとした自分達の体力が貧相なだけなのか。どれにしろ、遠い目をしたくなる理由には変わりない。
 とんでもない事件とは無論、彼等…リンドウとセンカが昨日、繰り広げた予想の遥か斜め上を行く告白合戦の事である。まだ防衛班には知らせていないが、あれはとんでもなかった。リンドウが本気を出して愛を囁く前に、センカから飛び出したまさかまさかの「嫌いではない発言」。あの現場を目にして度肝を抜かれない者はいないだろう。現に、二人の遣り取りにある程度の耐性があった筈の第一部隊でさえ綺麗に硬直してしまった。
 だが、問題はその後だ。
 センカの発言が余程、嬉しかったのか、舞い上がってうっかり箍を外したリンドウが、よりにもよってその勢いのまま、銀色の愛らしい唇を奪おうと襲い掛かった――見ていた方には襲い掛かったようにしか見えなかった――のだ!全く、油断も隙も無い、とは、銀の純潔を守るべくその日の内に愛用のグローブに鉄板を仕込んだ逞しい凄腕スナイパーの言。あれで殴られたらそれはそれは痛いだろうが、皆にとっては所属する部隊の部隊長、彼女にとっては幼馴染でもある人物に対して、それはやりすぎじゃないかと思ったのは…どうやらコウタだけであったらしい。一瞬後に振り向いた先で同じく手袋に鉄板を仕込んでいる銀髪の後輩と無言でばきぼき拳を鳴らしている青いパーカーの先輩を認めて、彼はがっくり項垂れた。
 まあ、フォローが出来るかと言えば、返せる答えは否。仲直りついでにお近付への第一歩を少しばかり間違った方向へ踏み出してしまった隊長殿には行き過ぎた行いに対する制裁をしっかり受けて貰うより他は無い。しかし、その制裁も、色々な意味で解禁されてしまった彼にはあまり効いているようには見えないから困ったもの。おかげで、漲り盛り上がる彼がセンカの部屋に夜這いに行かないよう夜中中、必死になって見張った自分達はこの有様だ。だって、あの男と来たら、誰の前であろうと何処であろうと聞いているこっちが赤面、卒倒してしまいそうな口説き文句をあの綺麗な銀髪から覗く小さな耳に吹き込もうとするのだ。あんなもの、最近、他人との接触の仕方を覚えたばかりのセンカには悪影響以外の何物でも無い!
 はあ。全員で溜め息をついた、その時。
「あ、リンドウさん、お疲れ様です!」
 高らかにエントランスの空気を裂いたタツミの声に第一部隊は瞬時に反応した。おう、おつかれ、といつものように返す声がする。――――奴が、帰ってきた!しかも間の悪い事に、センカがこのエントランスにいる時に!だが、いや、しかし、まさかこの大勢の前で昨日のような暴挙には及ぶまい。昨日の事件を知る一同は身を固めて思う。ここには防衛班は勿論、整備班や受付のヒバリ、何より、彼の実姉であるツバキだっているのだ。まさか、まさかあの甘過ぎる声で、破廉恥な言葉で、銀色を口説こうとする訳が…無い、と思いたい。彼だってTPOくらいは弁えている筈。…多分。
 半ば願いにも似た視線に気づく素振りも見せず、ふらりと麹塵を彷徨わせたリンドウは銀の光を捉えた刹那、部下の予想に違わぬ、砂糖も恥ずかしがって蕩け出すような微笑を浮かべて燐光が舞うターミナルへと歩を進めだした。靴音は勿論、気配を消すのも忘れない辺り、抜け目が無いというより、小賢しい。
 ああ、終わった。これは昨日の再現映像。そう思ったのは誰だったか。遠い目をした第一部隊を他所に、昨日の事件を知らぬ者達は不思議な顔で件の光景を見詰めている。
 鋼鉄の床を忍んで進むブーツ。リンドウの歩幅からすれば出撃ゲートからターミナルまではほんの数歩の距離だ。そっと背後から覆い被さるように近付き、ターミナルの両の手摺に手をついて小さな銀色を閉じ込めれば、見えるのはモニターを追う度に僅かに揺れる銀の髪と、その毛先からふわりと舞う儚い燐光。タッチパネルに触れる繊細な指先。俯いた拍子に、溜め息が出る程白いうなじが襟から見え隠れすれば、華奢な身体から香る甘い香りに誘われて、噛み付きたくなる衝動が頭を擡げる。良い、香りだ。
 気付かれぬように小さな笑みを零して、リンドウは細心の注意を払いながら、銀色の隙間からちらりと覗く小さな白い耳へと唇を寄せた。彼はまだ気付かない。息を吸えば鼻腔に満ちる、自分が使うものとは違う石鹸の香りと、彼の良い匂い。ああ、身体が熱くなる。零した声音にもその熱は籠もっただろうか?紡ぐのは妖艶な熱情の響き。
「…折角、帰ってきたのに労いの言葉も無いなんて、つれないな」
 お仕置きしてやろうか。突然、耳を掠めた唇の温もりに飛び跳ねた細い肩が、吹き込まれた低い振動に震える。咄嗟に燐光を散らして振り向いた白藍は、気がつけば吐息を感じる程近い距離にある男の顔に刹那、硬直した。――――近い。これは近い。何時の間に近付いたのか、身を包むのは濃い煙草の香り。瞬きに揺れる睫毛の一本すらわかる距離で秀麗な顔が甘い微笑を湛えている。これはどうした事か。何故、自分はこんな窮地に立たされているのだろう。目の前に現れた綺麗な弧を描く、少しかさついているように見える唇が、下手に動けば触れそうな、絶妙な位置で口付けの頃合を計っている。さらりと胸の奥まで擽るように頬に触れてくるのは彼の黒髪。それが閉じ込める檻の役目を担って触れて来ない両手の代わりの如く、優しく肌を撫でている。さり気無く背に押し付けられた彼の身体から感じる体温が少し高い気がするのは何も任務帰りで気分が高揚しているからだけではないだろう。
 溢れる恋情を隠しもしない男の瞳に珍しくあからさまに動揺してみせた白藍は、数瞬、彷徨ってから躊躇いがちに熱を孕ませた麹塵を捉えた。
「せ、んぱい…っ」
 漸く絞り出たか細い声も珍しいなら、そのうろたえ具合に更に甘く微笑んだ男の言葉はグボロ・グボロが空を飛ぶかの如く。
「ん。ただいま。今日も可愛いな。愛してるぞ、センカ」

 カーン!ばしゃ。ころころころ。バキィ!ゴトン!かしゃーん。ガシャッ。ばさばさばさ!

 直後、エントランス中から一斉に騒音が鳴り響いた。――――様子を見守っていたタツミとブレンダン、ジーナが手にした缶の中身を盛大に床にぶちまけ、カノンはテーブルに広げようとしたクッキーの包みを思わず握り潰し、任務に出ようとしたカレルとシュンの手からは神機が滑り落ちる。書類にメモを取ろうとしたヒバリはペンを落とし、リッカがスパナを落とし、最後にツバキの指からファイルの中身が景気良くばら撒かれて終焉。場の雰囲気は最早、ウロヴォロスも逃げ出す混沌そのものだ。
 なんという事だろう。本当にやってしまうとは、流石、伝説を作る男、雨宮リンドウ。固まった第一部隊も暫し静観するしかない。
 男が一歩詰め寄れば、華奢な身をターミナルに押し付けられ、屈強な身体と機械の間で身体を反転させる事さえ難しくなった銀色は俄かに焦りを滲ませた。手足を絡めてまでは来ないものの、押し付けられる身体の熱は明らかに情欲のそれで、このまま捕らえられていればどうなるか分からない。何とか脱出しなければ、我が身が危ない。
 そう顔に書いて逃れようと身を捩る仕草すら可愛くて、檻を作る男の顔には笑みが浮かぶ。何とか手摺の隙間からすり抜けようとする様は、まるで、もがく子兎。こちらの気分はさながら、それを眺める狼か。似合い過ぎて、尚、身体が熱を持つ。
「…逃げるなよ。追いかけたくなるだろ?」
 耳の稜線を唇で辿りながら、低く抑えた声音を吐息に絡めてやれば、ぴくり、跳ねる身体と耐えて息を詰める気配。
「追ってくるから、逃げるんです」
 少しばかり恨みがましく肩越しに睨み据えてくるその顔すら酷く欲を煽って止まないのだと彼は知らないのだろう。身を捩る度に柔らかな尻が熱を帯びるこの腰に当たっている事にも気付いていないに違いない。必死さが滲む瞳が、気分を尚、高揚させる。機嫌を良くした狼は体内で暴れる熱を移そうとするように更に身体を寄せて擦り寄った。
 掠れた声で囁く言葉は、熱く甘美な砂糖菓子か眠れぬ夜へ誘う悪魔のそれ。
「逃げられればもっと追いたくなるんだから、大人しく食べられちまえよ」
 手摺に添えていた手を細い腰のくびれに添わせ、眩しい肌に導かれるまま、柔らかな首筋に口付けを――

「当たってぇぇぇぇええええ!!」
「貫けぇぇえぇえええ!!」

 ボゴォオ!

「ぐほぁっ!!」

 触れる直前、繰り出されたのは見事な直線投球。持てる力の全てを込めてサクヤとアリサの手から投じられた未開封のコーヒー缶が恰も弾丸かレーザービームの如く的確な狙いで男の側頭部に直撃する様を見た面々はまたしても硬直した。…あれは痛い。手加減のての字も無かった。繰り出される瞬間の叫びもアラガミを相手にしているかのような緊迫具合だ。
 もんどりうって、ついでに手摺を乗り越えて転げ伏した男の作り上げた暖かな牢が壊れた刹那、両腕を広げたサクヤがすぐさま声を上げる。
「今よ!センカ、こっちいらっしゃい!!」
 急に消えた濃密な空気に呆然とする白藍は暫しターミナルに手をついて、ぽかんと薄く唇を開けていたが、殊更、緊迫して急かす声音に、徐々に周りを確認し始めた。――――いてぇ、と呻く声がする。目の前にいた、どうにも苦手な男は凹んだコーヒー缶片手に痛む頭を抱えて倒れていて、倒した先輩と同僚はどうやら助けてくれるらしい。
 そう認識したセンカがこの好機を逃す訳が無かった。
「あ、こら!」
 狼の制止を振り切って、ひらり、翻る銀の燐光。舞って逃げた先で彼は、ぎゅう、と確かめるようにサクヤに抱き締められた。しきりに頭を撫でられて、銀糸がぱらりと乱れる。
「うん。うん。怖かったわね…もう大丈夫よ!私達が守ってあげるから!」
 おいこら、人を変質者のように言うんじゃない。もぞもぞ起き上がったリンドウは手摺に凭れて憮然とした顔で思うが、その姿に微妙な視線を向けられている事には幸か不幸か、さっぱり気付いていない。
「そうですよ!安心して下さい!…孕まされたりしてませんか?」
「一応、博士に体調診て貰え?な?」
 こらこら、お前等、確かに既成事実を作ればこっちのもんだがまだ腰に触っただけだ!部下のあまりの言い草に今度はむっつり顔で黙り込む男は今にもハンカチを噛みそうで、それを眺めた数人が、うわあ、と声を上げる。――――残念だ。実に残念だ。色々な意味で。
 それぞれ打ちのめされる間にも、保護された銀色は一先ず無事を確認した第一部隊隊員の手により、あれよあれよという間に自室へ向かう箱の中。なんてつれない隊員達なのか。応援してくれると言ったのに、子作りの相談もさせちゃくれない。
 愛しの蝶を奪われたリンドウが消えていく燐光の欠片に残念そうな溜め息をつく間もなく、がしゃりと閉まった扉の音を合図にエントランスの雰囲気は一息に変化した。
 動き出すエレベーターの音を背景音楽に、かつん、と鳴るのはヒールの音。
「さて、皆、準備はいいわね?」
 低い声音はサクヤ。掌に打ち付けた拳が少し硬質な音を立てる。
「ええ、此処は任せてください」
 並んだアリサも拳を確かめ、
「とりあえず、チャージクラッシュで潰しておけばいいか?」
何処を潰すつもりなのか、ソーマが取り出したバスターブレード煌かせれば、
「俺、見なかった事にしとくよ」
残るコウタはくるりと隊長に背を向けた。――――もうこれはどうしようもない。どうしようもないから、後で合掌でもしておくしかない。
 ちーん、と音がしそうな苦悶の顔で密かに両手を合わせたコウタがふとエントランスの隅に佇むツバキを見たのは、第一部隊が隊長に説教という名の粛清をしようと各々、準備を始めた時だった。
 感じるのは肌を焼く業火のような憤怒の気配。思わず飛び退きたくなるそれは、うっかり戦慄く拳をぎりりと握り締めた瞬間を見てしまった彼を干上がらせた。その姿、まさに、鬼神降臨。たゆたう黒髪は恰も黒い炎が燃え上がるが如く。釣り上がった麹塵の双眸はぎらりと光り、身から立ち上る烈火の怒りで大気を焼く気迫は言葉発せずとも視線で他を殺せると錯覚する程。常から鬼教官の名に恥じない彼女の形相は今や、比喩でなく鬼となっていた。
 わお、これは凄いや。そうっと蟹歩きで彼女の直線上から離脱した彼は壁際に立ち位置を移して耳を塞いだ。恐らく、こうしても聞こえてしまうだろう。そんな予感がある。そして、その予感は決して外れる事はないのだ。
 牙を剥き、かっと見開いた目で前を睨み据えたと思った直後、腹の底から生み出された稲妻が唸りを上げてエントランスに落ちた。

「リンドウ!!貴様、そこに直れぇぇぇえええ!!!」

 ある日の午後、正座で姉に怒られつつ想い人を口説き落とす利点を提言する弟と、そんな弟に度々頷きそうになりながらも節度を説く姉の姿があったのはフェンリル極東支部部外秘の伝説である。



あー、楽しかった(ちょう自己満足!)
知りたい人がいるかどうかも分からないですが、どうしても書きたかった「エントランスで口説き事件」。本編が兎に角シリアス路線なのでこういうストレス発散的なものを書くと意外にノってしまって困りますね、うへへっ。よく判らない人は長編50話参照です。
見所は勿論、本気出したリンドウさんが遠慮なくエロい感じで新型さんを攻め立てる所な訳ですが………当家の趣向が出てますね…以前の拍手でもありましたが、こう、押し付ける、というのが当家は大好きなようです(変態!)あ、でも今回は下半身ではないですよ!?そりゃあ、体勢の関係上、ちょっとはごりっとしたものが新型さんのお尻に当たっ……ごふぁっ!(強制終了)……まあ、あれですよ。新型さんが俄かに焦りだしたのはそういう理由もあったかもしれないというだけで…もごもご…そりゃあ、女性陣が殺人球投げますわな。
投球についてはジャンピングピッチャーさせようと思いましたが、一応、自重しました(笑)だって、もう、ただでさえ壊れてますからね!
いや、しかし、久々にああいう場面を書いてとても楽しかったですよ(笑)フルスロットルなリンドウさんはいつも新型さんにエロい事を吹き込んでいるので新型さんがビ○チになったら十中八九、彼の所為です。

ちなみに、最後の姉弟の遣り取りはきっと「俺がセンカと結婚したら、あいつが貴方を義姉上と呼ぶんですよ!?」「何…っそれは…(想像中)…イイ…っ!…ではなく!そもそもお前、場所を考えろ!」みたいなちょっとギリギリな遣り取りだったと思います。常識は説くけど反対はしないお姉様(ぇ)

2011/04/16