興味があるわけじゃなくて、そうじゃないわけでもなくて。
ファレノプシス
月が高く昇る時間。時計が今日の役割を終えて休む間もなく明日を刻み始める瞬間をこの目で見られそうだ、と手にした書類を棚に押し込みながら、薄い唇から浅く吐いた微かな、それでも重い溜息が二人しかいない学生課にやけに大きく響く。紙ずれの音の、丁度合間に零れてしまったそれにロゼが呼吸を詰めるより早く、違う棚の前で同じ作業に勤しんでいた彼が微苦笑を浮かべて振り返った。
差し込む月明かりと柔らかなランプの明かりに照らされる銀の髪が揺れるのを気まずそうに見返す青い双眸。
「…悪い」
あんたの方が何倍も処理してるのに。言えば、困ったように笑って、彼は手を振る代わりに書類を振った。
「謝る事ないよ。手伝わせてしまっているのは僕だし、元を辿ればフランチェスカが逃げちゃったのがいけないんだから」
こちらを見て、言葉を返しながら、その手は止まらない。細かな文字を軽く一瞥しては書棚の背表紙を辿り、軽やかな手つきでばらばらの紙を整えていく。早く、的確に。手持ちのそれらを無くしては、次の山に手を伸ばして、また指先がしなやかに舞う。――存外、細くない手。壮年の男のように節立っていない所為か、彼の細さ故か。華奢に見られがちだろう彼の手は、しかし、決して女性的なそれではなかった。しっかりとした掌に、女性には無い硬さ。自分の手と比べれば、それは紛れもない男の手だ。
最初の書類を渡された時の手を思い起こしながら、ロゼはまた溜息をついた。別に、羨ましい訳では、無い。多分。
逸れた思考を戻そうと再度、目を向けた時計はまだ辛うじて今日だ。それもあと数十分で明日になる。それなのにこの手の中の紙は減る素振りを全く見せていなかった。これが最初に渡されたそれなのだから、全く世話が無い。自分は彼が三つの山を片付けるまでに一つの山も片付けられていないのだ。職種が違うとはいえ、これはあまりに筆舌にし難い無能さではないだろうか。手伝うどころか、足を引っ張ってすらいるかもしれない。そう思うだけで気が滅入る。
ロゼが学生課に足を運んだのはまだ夜になったばかりの時間だったように思う。明日の課題の確認に来たロゼの傍らを風のようにすり抜けて行ったあの焦げ茶色を何故、自分はとっ捕まえなかったのだろうか。あそこで捕まえておけば、こんな事にはなっていなかったかもしれない。だが、デスクの中で書類片手に半ば途方に暮れるフランチェスコが逃げた彼女を追いかけようとする間も無く、次々に訪れる学生達を相手にやれ課題だの、やれアルバイトだのと、課内を駆けずり回っている姿を見てしまえば、見過ごす訳にも行かない。温和な彼が忙しさに慌てる様子が珍しかったというのもあるだろうが、それよりも仕事とはいえ、世話になっている相手に薄情な態度を取るのは気が引けた。
手伝いを申し出たロゼに申し訳なさそうに安堵の笑みを浮かべた彼の顔を、ロゼは忘れないだろう。
聞けば、膨大な量の書類整理をフランチェスカが放棄してしまったらしい。几帳面な彼らが書類を溜める事はそうそう無いが、今回ばかりは仕方の無い事だったのだと、どうにか捌いた学生達の記録を一つ一つ纏めながら彼はやはり珍しく困ったような笑みを浮かべていた。しかし、それで逃げ出されて全てを押し付けられてしまうというのは…彼の温和な性格が祟ったのか、偶々運が悪かったのか。彼女の犯した勤務中の脱走の結果、通常業務までフランチェスコが全て請け負うことになってしまったのだから、とんだ貧乏くじだ。途中から自分も手伝ったとはいえ、出来たのはアルバイト報酬の受け渡し程度。夕方の課題報告でごった返す中では書類がどうのと手を出せる暇も、処理の仕方を乞う暇もなかった。
結局はフランチェスコが全てをこなし、ロゼは判子を押すだけだったという訳だ。なんと情けないお手伝い。幼児並だ。
「慣れない事はするもんじゃないな。結局、あんたの足を引っ張っただけだ」
呟きながら、漸く見つけた目当ての場所に書類を納める。酷く惨めな気になっているのはとんでもない被害妄想だと分かっているが、必死に文字と睨み合う自分とは対照に滑るような足取りで着々と山を減らしていく彼を見ていると、自分はかなりの迷惑をかけているんじゃないかと思ってしまう。
実際、フランチェスコが渡してきた書類は急がないものばかりだ。どれも、特別、今、書棚に納めなくてはならないものではない。恐らく、これは今日予定していた書類整理のものではないだろう。流れるような仕種で書類を納めている彼の消化している紙束こそが本題に違いない。自分が手にしている物の日付は一週間あまりも先の物が大半で、つまりは、結局、終わらせるべき書類整理もフランチェスコ一人で行っている事になる。
ぺなぺなと情けない音を立てる次の書類を見据えるロゼの耳を柔らかな声音が擽ったのは、書類の文字に先程とは違う意味で溜息が零れそうになった刹那だった。木々が微風に擽られるような柔和な笑い声が響く。
「ふふっ…初めからてきぱき動かれたんじゃ僕の立場が無いよ」
また一つ手の中の書類のかさを減らしながら、憮然とした表情のロゼにちらりと目を向けた赤い瞳が細く笑んだ。
「面倒な判子を押してただけだ。他の書類に躓くわ、あんたとぶつかるわ…良い事無かっただろう」
手の中の紙に目を落としたまま、これをどうしてやろうかと考える。――――戦闘学・特別戦闘員養成授業その二。激しく嫌な予感がする。講師は確認するまでも無い。その二があるという事はその一もあるのだろう。或いはその三もあるかもしれない。
「そうかな。僕は助かったけど?二人いると気分的にも違うし、判子を押すのも本当に意外と面倒だしね。それに…」
そう。面倒だ。こんな馬鹿馬鹿しい授業は判子を押すのと同じくらい…面倒?
「面倒?あんたが?」
彼の口から飛び出すには少々不釣合いな言葉に、思わず喉から声が零れる。咄嗟に出た所為か、大きく響いたそれは違う書棚に向かおうとしていたフランチェスコの脚を止めさせた。
柔らかな朧の光に浮かぶ端整な輪郭。ランプの中の揺れる橙に淡く染められた透けるような銀色。彼の色彩の中では一際目立つ暖かな赤い双眸は鮮烈というには柔らかい。同じ色合いをした人物を知ってはいるが、あの男は彼よりももっと、言うなれば、毒々しかったように思う。形の良い唇から紡がれる声音も、彼のそれはとても暖かい。そっと身体に沁みるような声音。温和な彼に似合う口調は多忙な業務に比べて少々おっとりしすぎている気もするが、それを聞いているのは嫌ではなかった。女生徒に人気があるのも知っている。この容姿だ。女共が放っておく訳が無い。困った顔でやんわりと贈り物を断っている様子を、ロゼは幾度か目にしていた。
ぱちくりと丸めた目を瞬かせたのはどちらだったか。気づけば絡まっている視線を外せないまま、ロゼは口を開く。
「あんたが面倒とか言うのが、意外で…」
そういうことは、言わないと思ってた。律儀に一つ一つ返事を返す姿。小さな文字を追って、仕事をこなす姿。いつでも細かく抜かりなく仕事をこなしている姿しか知る事の無いロゼには、彼の零した面倒という言葉が酷く不釣合いなものに思えて仕方が無かった。しかもその内容が、判子。判子を押すのが面倒だと。そんな些細な面倒が面倒か?おや、この面倒は覚えがあるような…。
ぽつぽつ零れる言葉に呆然と目を向けていたフランチェスコが、次の瞬間――吹き出した。
「っ、あははは!…ははっ、あはは…!ご、ごめ…可笑しくて…だって、君、今…自分で判子が面倒だって…!」
笑っている。謝りながら笑っている。持っていた書類を床にばら撒いて、目尻に涙まで浮かべ、身体を折って笑っている。こんなに大笑いしている彼など見たことがない。そこまで考えて、ロゼは自分の発言の馬鹿馬鹿しさに漸く気付いた。
生きてる内に面倒だと思う事など腐るほどあるだろうに。そもそも、彼の言う通り、今、自分が捺印作業を面倒だと言ったばかりだ!燃え上がるような熱にぐしゃりと手中の紙が潰れた。
「あ…なっ、ち、ちが…笑うな!もう笑うな!!」
耳の奥がごうごうと音を立て、顔に有り得ない程の熱が集まっていくのが分かる。思わず床に叩き付けた皺だらけの書類が動揺を示すようにばさばさとまばらに散るのも様にならなくて、また熱が昇る。
冷静な面立ちを崩して、白い肌を首まで赤く染めてたじろぐ姿にフランチェスコの笑いが増した。余計に響く気がするのはこの広い部屋に二人しかいないからだろう。
「…っごめんね、凄く可愛かったから…ふふっ、あ、ダメだ…あははは!」
「可愛くない!」
むきになればなるほど耳に心地良い柔らかい声がころころ転がる。抑えようとして、失敗して、また振り出しに戻る。一日分の笑いを消費しようとしているかのようなフランチェスコについにロゼは腕を組んでそっぽを向いた。ああ、くそ、泣きたくなる。なんでこんな事になってるんだ?
「…あんたが馬鹿笑いしてるのなんか、初めて見た!」
綿菓子の柔らかさで心を包む声音がこんなにも弾けるのを聞いたことが無い。こんなのはこの学園のどの女生徒も見たことが無いだろう。優しくて、暖かくて、綺麗なフランチェスコ。そんな認識しかない筈だ。それがどうだろう。今、目の前の銀色は身体を屈めて笑っている。
ロゼが羞恥に赤くなった顔を伏せたのと、漸く息をまともに吸ったフランチェスコが姿勢を正したのは同時だった。滲んだ涙を軽く拭って、手早くかき集めた床の書類を整える頃には馬鹿げた笑いの影もない。いつもの柔らかな笑みが浮かんでいた。
「…笑いすぎちゃってごめんね。怒らないでよ。こんなに笑ったのも久しぶりだったから、ちょっと、ね」
さくり。纏めた紙束を書棚に差し入れて、次の山を手にする。今度は、近づく足音。隣の書棚。
「久しぶり?」
数歩の距離で作業を再開する手を横目で見ながら、ロゼはまだ組んだ腕を解かなかった。返した問いにふわりと笑みが返る。
「この仕事をしていると、なんていうかな…一日中誰かと向かい合っているでしょう?」
「ああ」
「そうしたら、疲れるじゃない?」
疲れる。そんな言葉も彼にはどこか不似合いで、違和感が否めない。そう思う事自体が彼に対して失礼である事は重々承知しているが、噤んだ唇からふと零れてしまいそうな疑問を飲み込まなくてはいけないくらいには、想像の出来ない言葉だった。
思い返せば、彼はいつでも柔らかく笑っていて、些か感情を出しすぎている感のある片割れとは違う印象を受けていたのは確かだ。寧ろ、「柔らか」という表現自体が当て嵌まっているのかどうかでさえ首を傾げる。歯に絹を着せなければ、それは平坦ですらあったかもしれない。誰に対しても変わる事の無い態度。受付や売り子としては申し分ない才だが、それは同時に誰に対しても平坦でなければならないという事と同意義だ。嫌悪するものにも、好意を持つものにも。あからさまに顔を顰める事は許されず、あからさまに笑うことも許されない。それは苦痛だ。彼が言うのはそういう事だろう。一日中、生徒と向き合い、同じ態度で対応する。平坦でなければならない息苦しさ。窒息する程の圧力。
腕を解いたロゼの青い目を見返して、彼はまた困ったように笑った。――こんな笑顔ですら、本当は許されないのだろう。そっと逸らした瞳の先で紙切れが無表情に横たわっていた。
「いつか、笑い方を忘れてしまいそうになるんだ。一日、毎日、同じ顔をして、そうとしか見られなくなって…周りの人は基本的に此処に立っている僕しか知らないからね。相手も、僕も、お互いにそういう対応をするんだ」
ぱさ。よれた紙の背筋を正して、書棚に手を伸ばす。
「フランチェスカはそういう所は上手いと思うよ。彼女は最初から彼女だから。でも、『僕』を知っている人はあまりいないんじゃないかな」
優しくて暖かくて綺麗なフランチェスコ。人の固定観念とはかくも厄介なものだ。勝手に人物像を作っては、ふとした拍子に見せた違いに勝手に落胆する。実際、学生課にいるフランチェスコが激昂する様など誰が想像するだろう。美しい柳眉をきつく顰めて、赤い瞳を堪えきれない憤りに光らせる様など、今し方、彼の砕けた様子を見た自分ですら想像出来ない。暴言を吐く彼など、論外だ。――――当たり前の感情を刹那、晒す事も出来ない。押し殺して、耐えて、それで日々が終わっていく。いつか当たり前になっていくそれが、緩い綿の首輪のように心を殺していくのだ。
自分もその一員でしかなかった事実に微かな苛立ちを覚えながら、ロゼは放ったままだった書類を漸くかき集め出した。
物言わぬ紙の束。愚痴を言うにも物が相手では言うに言えない。リリアに仕えているという意味ではロゼも同じような境遇だ。朝起きれば彼女の我儘を聞き、昼になっても振り回され、夜の闇に漸く意識を沈めるまで気を使う。彼と違うのは祖父が傍にいてくれる事と、他人とは言え、そこそこ気心の知れた仲が相手というくらいのものだ。個人的な趣味がこれと言ってあるわけでもなく、気だるげに日々を過ごす。昔はもっと充実していたような気もするが、今は全てがその程度だった。
「…そういえば、あんた、趣味とかあるのか?」
思い立った言葉を迂闊にも零してから…しまった。これじゃあ、彼に興味があるように聞こえてしまう。別にそういう意味ではないが、そう取られてもおかしくない。
奇妙な早鐘を打ち始めた胸の内で冷や汗なのか羞恥の熱い汗なのかも分らないものを垂らすロゼを余所に、振り返ったフランチェスコは目を丸めて言葉を返してくる。
「趣味?なんで、また、急に?」
当たり前といえば、当たり前の疑問だが、今、そこには激しく突っ込んで欲しくない。かき集めた書類を抱いて、ロゼはまた熱の昇ってしまった顔を隠した。
「……別に。知らないから知ってやろう、とかじゃなくて…あんたが寂しそうだったから、とか…そんなのでもなくて…だから…」
もごもごもご。口の中で転がす言葉は静か過ぎる部屋には十分なくらい響いて、それにまた彼の赤い瞳が丸くなるのが言い知れない羞恥を煽る。――別に、本当に、他意があったわけではなくて、ただの気まぐれというか。そもそも、この作業を手伝っているのだって気まぐれで、普通なら早々に用事を済ませて寮の部屋で眠りについているはずで。別に彼の傍にいてみたかったから、とか、そんな理由でもなくて…だから、ああ、くそ。訳がわからなくなってきた。つまりは、趣味を訊く事くらい普通の事だという事で、だから、別におかしな事じゃないわけで。ああ、でもそれが何故か後ろめたい気がしているのは、
「…誰も知らないあんたを知ってるのが俺だって良いだろう…」
小さな声に隣の書棚の、紙ずれの音が止んだ。
ついにやってしまったフランチェスコ×ロゼ…。
次のあとがきで叫んでおきます…。
2008/09/04 |