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 お互い、鬱憤を晴らしているのさ。

花牢 九、悪魔が来たりて

 庭の松に何か思い入れでも?柔和な声音でそう言って傍らに立った男に、縁側に座ったロゼはあからさまに顔を歪めて見せた。
「…俺が何度もあの松に吊るされたのを知ってて言うか」
「君が吊るされる度に降ろしに来て上げたんだから、思い入れの一つもあって欲しいところだけど?」
 柔らかく微笑みながらロゼの傍らの柱に凭れるフランチェスコの瞳を隠す銀糸が光を散らして、ふわりとそよ風に舞う。不満げに脚を揺らす遊女の青い双眸と同じく、降り注ぐ陽光に赤い瞳を細めながら、その視線を庭の松に向ける彼は夜見世で見かける時より朗らかだ。それも当然といえば当然だが、見かけ、仕事中とそれ以外との微笑みの区別がつかないだけに、ロゼにとっては気の抜けない相手でもあった。
 若くして番頭という地位に座り、遊郭を裏で支える若い衆を纏めるフランチェスコ。温和な顔の裏で厳しく廓の男衆に指示を下す彼はロゼ達遊女や、彼の指示を仰ぐ身の者にとっては恐怖の対象だ。効率よく動けなければ、どんな年嵩であろうと首を切る。言葉程の技術が無ければ、即座に格を下げる。その判断は驚くほど早い。大勢の目の前でアルレビスの戸口から蹴り出された者も一人や二人ではない、とロゼは記憶していた。
 そのおかげで、この遊郭の人手はお世辞にも足りているとは言い難いが、それもフランチェスコ一人と彼が残した者がいれば足りなくも無いのだから、その有能ぶりはわかるというものだ。
 忘八になり切れない楼主に半ば呆れ返った遣り手がこの男に裏方の人事を任せているのは奇策でありながらこの上ない良策でもあった。
「忙しいはずの番頭が縁側で陽に当たってていいのか?」
 万年人手不足の遊郭で、番頭が油を売っていて良い筈が無い。ただでさえ忙しい身の上。サボっているといって差し支えないようなロゼの傍らで同じように呑気に話をするような余裕があるとは思えない。陽を見れば、昼見世が終わりに近づいた頃だ。ひと段落するとはいえ、彼のもとには夜見世の段取りその他を手配する仕事が次から次へと舞い込んできているだろう。
 ちらりと見上げて様子を伺ったロゼに、微笑んだままの赤い双眸が緩やかに瞬き、少しだけ心外だ、と含み笑いを洩らした。
「僕が少し外れたくらいで右往左往するような無能を残したつもりはないよ。その程度ならこの遊郭にはいらないからね」
「…つくづく恐い奴だな、あんた」
「役職に対して、と考えるなら、それはお褒め言葉だね。有難う」
 笑いながら言う彼の言葉には卑屈さがないものだから、余計にたちが悪い。だが、下に舐められていれば、いつかとんでもない失態を犯されて妓楼の面子が立たなくなるのは確か。そうなる前に、少しばかりの恐怖で軽く押さえつけてやるくらいが丁度いいのだ、といつかに姉女郎が苦笑しながら言っていた――今思えば明らかな弁護だったが――気がするのを、ロゼは松を眺める意識の奥で思い出していた。
 足抜けすれば厳しい折檻の末に晒される。上に逆らうか、無能を晒せば即座に職を失う。与える罰は、寧ろ、少々、やりすぎるくらいでもいい。フランチェスコ自身、今の言葉でそれを肯定している。
 そんな有能さだけでなく柔軟さも買われて番頭に据えられた男は大半の者には半ば、恐怖の対象であり、又、その他の一部の者には単に喰えない男として、正反対にもなりきれない、微妙な認識ばかりをされていた。
 無論、ロゼは後者である。彼に言わせれば、百合の根でも毎日ちまちま食べては解毒を繰り返せば、その内、気にもならなくなるらしい。――――つまりは、慣れた、と。そう言う事である。
 出会いとしては冒頭の会話にもある通り、事ある毎に折檻されて松に吊るされたロゼを、当時は下っ端だったフランチェスコが毎度毎度、解放しにやってきてやっていたという、華々しくも初々しくも可愛らしくも無い、とんでもなく殺伐とした関係から始まった交友である訳だが、その都度、やれ懲りないだの、やれもっと要領よくやれないのかだの、散々な事を言われては、ちょっとやそっとの毒にも慣れるというもの。遊郭に来たばかりの頃の幼いロゼは怒りの気配を隠しもせず、折角、松に結わえられた、血を止めるくらいきつく身を縛る縄を解きに来たフランチェスコを力の限り睨んでいたものだ。それに対しても、変わらぬ笑みが返ってくるのだから、幼子としては俄然、面白くない。いつか泡を吹かせてやる、と密かに意気込んでいたのも懐かしい思い出だ。…多分。
「…で?松に吊るされた時の惨めさを思い出して嘆いてたの?」
 久しぶりに吊るされたいなら吊るしてあげるけど。わざと昔日の失態を思い出させてくれる男の趣味の悪さに地獄の主も滑って転ぶ。臆面も無く言ってのける顔に拳の一つでも入れられたなら、と思えど、仮にも番頭相手にそれは明らかな愚行だ。
 再度、ちらりと見上げれば、見下ろしてくる赤い色に悪戯な光。――――これだから彼を話すのは少しだけ気が乗らない。完璧に自分で遊んでいると分る相手に、溜息をつかない奴がいたなら見てみたい。
「……夜見世に出させないつもりか?」
 あえて、やめてくれ、と言わないのはせめてもの意地だ。それも、彼は読めてしまっているだろうけれど。現に、薄桃の唇から返って来た応えが予想通り過ぎて、肩を震わせて笑いを堪えているフランチェスコが目の前にいる。
「…鬱陶しい。どっか行け」
 寧ろ、消え失せろ。憮然とした表情をさらに斜め下に降下させたロゼが殊更、大きく素足を揺らしたのを見て、流石にフランチェスコも笑いを納めた。――このまま機嫌を損ね続けたら、夜見世をばっくれてしまいかねない。ただでさえ遣り手にも他の遊女にも目をつけられているロゼだ。あまり甘い処罰を下せば嫉妬を煽る原因になる。それはあくまで「妓楼の人間として」どうにか避けたい所。商品に傷がつくのは好ましくない。あくまで、「妓楼の人間として」。
 ふわり。柔らかな風に煽られたロゼの清水の髪がその白い頬を擽る様をどこか眩しく思いながら、フランチェスコはまた穏やかな笑みを浮かべた。
「ごめんね。あんまり楽しい事が無いから、遊びたくなってさ」
「余所でやれ、余所で」
 言いながら、本気で追い返そうとしていない辺りが聡い彼の優しい所だ。ふわふわと、今度は自分の頬を長い前髪が擽るのを感じて、軽く手櫛で整える。
 縁側に投げ出した素足を退屈そうにふらふらさせて、気だるそうに景色を眺める姿は艶すらあるのに、これが梅茶に甘んじているなど、馬鹿馬鹿しくて散茶の相手などしていられないと思うのは長い付き合いゆえの贔屓ではないだろう。常々感じる理不尽さに改めて溜息をついたフランチェスコの耳に、小鳥の囀りが小さく舞い込んだ。
「…機嫌、悪いだろ」
 問いではなく、断定。少しだけ不貞腐れた顔はそのままに、けれど、声音には気遣わしげ色を少しだけ滲ませて……ああ、なんて彼は優しいんだろう。器量が悪い、だなんて陰口を叩く奴らを片っ端から庭木に吊るしてやりたいくらいだ。
「どうしてそう思うの?」
 切り返せば、ちらり。こちらを見上げる青い双眸。
「…そんな顔して八つ当たり紛いの事をしてくる時はあんたの機嫌が最悪の時以外、無いだろ」
 いつからこの遊郭にいるのかも知らない彼の穏やかな外見とその腹の内が実は正反対だという事に気付いたのは案外、早かったように思う。
 周りの遊女や客が見目のいい彼に色目を使うのを、どこか冷めた目で観察していたから気付いたのか、或いは、気配に聡いロゼだからこそ、その不穏な気配に気付いたのか定かではないが、このにこやかな番頭は温和な表情を崩さない時程、腹の内を煮え繰り返させているのだ。勿論、あからさまに嫌な顔をする事も、相手を恫喝する事もないから、彼を不快にさせている本人は全く気付かない。それどころか、調子に乗って更に彼の機嫌を降下させてくれるものだから、フランチェスコの本性を知っている一部の者達は冷や汗を飛び越えて、失神やら失禁までする奴が出てくる程だ。一瞬で胃に大穴を開けた者もいたらしいが、そんなやわな者はその辺りの床に打ち捨てられていた事だろう。あまつさえ、密かに怒り心頭の番頭に足蹴にされていたかもしれない。
 そういう訳で、客相手でも彼が変ににこやかな時には、他の若い衆は文句も鸚鵡返しもせずにきりきり仕事をこなす。それでも機嫌が直らない時にはエナ辺りがそっとロゼの袖を引いて、なんとかしろ、と助けを求め、漸く修羅に朗らかな笑みを浮かべさせるのが常だった。
 巻き込まれるロゼにしてみれば迷惑な事この上ないが、以前、妓楼の平和の為に、とエナに珍しく本気で泣きつかれた時にはクロエにも勝るとも劣らない黒い空気が充満する部屋に、今日がアルレビスの最期の日か、と思わず遠い目をしたものだ。
 だが、まだその程度なら良い。ちくちく、ちくちくと毒を吐きながら八つ当たりまでしてくるくらいになると、その空気すら払拭してしまうから怖い。大抵、その矛先は比較的、馴染みの深いロゼに向かってくるが、前述した通り、ロゼのフランチェスコに対する認識は恐怖の対象ではない為、ロゼの中での彼の八つ当たりは愚痴程度の認識になっている。勿論、これがロゼ以外になると妓楼の廊下に屍が累々と積もっていく訳だが。
 青い瞳の遊女に見かけばかりの穏やかな笑みを向けながら、肩を竦めて言葉を返す番頭の姿は他から見れば空恐ろしい光景である。
「八つ当たりしているつもりはないんだけど…これから聞かなきゃいけない話を思うと、ね」
 それで屍の山が築かれるのは、それこそ理不尽というものだとロゼは思うが、口に出すような馬鹿な真似はしない。代わりに、身振りだけを真似て、こちらも肩を竦める。
「話の内容は大方、想像がつくがな」
 先程、ダイスラー姉弟と話して検討付けた内容は間違いではないのだろう。現に自分だけでなく、フランチェスコまでがこんなにも腸を煮えくり返らせている。この分では昼見世を終えたウルリカとクロエも盛大に怒り狂っている事だろう。あの二人の噴火をどう静めるかに多少、頭を痛めつつ、今は隣の魔王が最優先だ。このままでは心臓発作で死ぬ輩が出ないとも限らない。
 朗らかな陽気とは裏腹の、冬の闇夜に似た冷気を頬に感じながら、彼は眉間に寄った皺を細い指先でほぐした。
「あんたの機嫌が悪くなるのは分る。…あの話なんだろう?」
「僕としては君がさっさと昇級してくれれば何の問題も無いと思っているけど?」
「…否定はしないんだな…」
 今日の見世は雪見の園だ。裏方もこれ以上無いくらい必死に駆けずり回って仕事をしてくれるに違いない。
 溜息をついて再び松に目を遣ったロゼは少しだけ肩からずれた打ち掛けを直し、またふらふらと白い脚をゆらして、薄い紅すら引いていない口を開く。
「あの人の代わりを勤められる遊女が今のアルレビスに居るとは思えないな」
 贔屓目でも何でもなく、姉女郎は最高の花魁であったと思う。ありがちな高飛車さは無く、けれど、弱い訳でもなかった。どれだけ端に追いやられようと――これが花魁の扱いか、と幼いながら、ロゼは憤慨した――下々の者にも優しく、そして、厳しい。特に礼儀、しきたり、芸事には厳しかったのをよく覚えている。儚い面立ちの所為か、厳しさを補って余りありすぎる程の優しさが目立っていたが、やはり、花魁として人前に出る時のあの人といったら、胸を張って誇りだと言えるくらい素晴しい花魁だった。
 目の前のフランチェスコを含むウルリカやクロエ、ダイスラー姉弟…現在、ロゼが友人と呼べる者達も姉女郎によく世話になったくちだ。芸妓三人に至っては、きちんと師がいるにも関わらず、逐一、姉女郎に琴だの舞だのを教えて貰っていた。ロゼだけでも手一杯だっただろうに、苦笑を浮かべて二つ返事で狭い部屋に招き入れていた姉女郎には頭が下がるばかりである。
 さて、今のアルレビスにそのような遊女がいるか、といえば、答えは否だ。どの遊女も名前ばかりのふしだら女。フランチェスコはロゼが昇級すれば良い、つまりは、花魁を張れば良いと思っているようだが、お職の花魁は甘くない。自分如きが姉女郎のように出来るか、といえば、それも答えは否だ。
「まあ、アルレビスの格が落ちない程度の遊女がお職になればいいんじゃないか?」
「士気が下がるような事を言わないで欲しいな…」
 途端に変わる声色が切実な心情を物語る。眉間を寄せて項垂れられては、こちらが悪いように見えてしまうだけに、流石のロゼも表情を変えざるを得なかったが、これも彼の描く筋書き通りの反応なのだろう。思いながら、それでも付き合ってやるのはこちらもささやかな気晴らしが欲しいからなのかもしれない。
 さめざめと泣くふりをする――あくまで、ふりだ――フランチェスコの煌く銀糸が風に遊ばれるのを見つつ、微かに聞こえてきた足音に耳を済ませる。
「…本気で落ち込むな…余所でやれ、余所で…ほら、下男があんたを探してるんじゃないか?」
 天の助けとばかりに慌てた風体の若い衆を目敏く見つけたロゼの白い指先が廊下の先を指すのと、フランチェスコが葉ずれの音にかき消されそうなくらいの声音で、ああ、やっぱりね、と長い銀糸の隙間から呟いたのは同時だった。その後に、使えないな、と続いた気がするのはきっと気のせいだ。
 僅かに顔を引き攣らせたロゼを尻目に、即座にいつもの笑みを浮かべて踵を返した彼の手がひらりと遊女に別れを告げる。
「じゃあ、また夜見世で」
 胸糞悪いのはお互い様。八つ当たりも愚痴だと思えば可愛いものだ。
 とりあえず、ロゼはフランチェスコが振り向いた瞬間に廊下のど真ん中で凍りついた男に心中だけで合掌してやった。――彼の次の職場が早く決まればいい、と密かな情けをかけてやりながら。



楽しかった…!生暖かい目で見られても…すっごく楽しかった…!!これくらいのやりとりは中々楽しくて好きですね。
番頭フランチェスコは下男だった時に禿だったロゼがお仕置きを受けた時の後始末係でした。文中にもあるように、松の木に吊るされたロゼを下ろしに来たり、布団部屋にす巻きにされて転がされたロゼを解放しに来たり。
番外とかでその辺りを書けたら面白そうですね…。

2009/07/09