「これ以上、アルレビスの名を汚す訳にはいきません」
そんなの、あんたじゃなくてもよく知ってる。
花牢 十、鋏を首筋に
「ご存知の通り、当妓楼には現在、太夫がいません」
夜見世の前。集められた広間の上座で厳しく目尻を吊り上げて集まった者達を見渡すマルータの言葉はこの台詞から始まった。
浅黄の髪を整えて、その形ですら神経質な眼鏡を磨いた爪が輝く二本指でつい、と上げたマルータ・シェベスティは元々この遊郭の人間ではない。観光でこの店を訪れた貴族だ。商家上がりの貴族には貴族らしい鼻の高さと商家らしい勘定観があり、マルータはその典型だった。
閉めるところは閉め、緩めるところは緩める。金の元栓を調節しながら、女だてらに妓楼を華々しく飾り立てていく手腕は里の老舗も舌を巻いたものだ。枯れ庭に野花を植えるよりも瑞々しい苔球に植える方が美しいと言った彼女が、籬を惣籬に作り変え、絹の布を張り、灯りを倍に増やせば、それだけで十分、人目を惹いた。そうなればこちらのものだ。遊女にちらりと花をちらつかせれば付けられた値以上に働いてくれ、それにつられて客は増える。――彼女が手をかけて数ヶ月も経たないうちにアルレビスは遊郭で一、二を争う高級妓楼へと姿を変えたのである。
それまでどうだったのかといえば、彼女の後ろで所在無さげに縮こまる忘八、ゼップル・クライバーを見れば分るというもの。同名の妓楼が迷惑だ、と苦情を言うくらいには妓楼と名を掲げるのも憚られるような廓だったとロゼは聞いていた。寧ろ、ゼップルが形だけとはいえ、未だに楼主の座にいる事自体がおかしいのだと言っていた者もいたように思うが、ロゼにしてみれば、敏腕の遣手であるマルータと番頭のフランチェスコに囲まれては貶すどころか哀れにすら思えた。
「前太夫であるヴェインが身請けされて以来、当妓楼に太夫がいないのは一重にそれに見合う者がいないからです」
これから始まる胸糞悪い話に、せめて視界だけは閉ざしてやろうと目を閉じたロゼの耳に袖を噛みたくなるような声音が舞い込んでくる。久しぶりに聞いた姉女郎の名も彼女の口から吐かれているかと思うとあの人が汚されたようで酷く不快だ。
早く終われ、と念じる脳に耳障りな声が突き刺さっていく。
「しかし、これ以上、散茶に花魁道中をさせるわけにもいきません。妓楼の恥です。そもそも、前太夫が陰間であった事自体、体裁が良くありません。他の妓楼が遊女であるのに対し、当妓楼だけが陰間を太夫にしているなんて、恥以外の何物でもありません!彼がいなくなった今、このアルレビスの太夫は遊女でなければならないのです!」
つまり、自分は論外、という事だ。実に喜ばしい。――――広間の最後列で背筋を伸ばして座った椿の衣が袖で口元を隠す。皮肉な形に歪んだ唇を見られたら厄介だ。いくら、自分が豆粒ほどにしか見えないだろうと分っていても、他の姉女郎に見つかれば、驚くほど早い伝言遊びの始まりになってしまう。薄目を開けて、少し気分が悪いようにでも見えれば好都合。
ちらりと上座を一瞥して、襖の傍に控えたフランチェスコと目が合う。少し恨めしそうな目で見られてから、また視線が外されて。明らかに不機嫌そうな彼の様子に、今夜の裏方は大変そうだと心中で合掌する。その横で胡坐をかく赤い髪の用心棒はこの話自体が面倒だとばかりに首を回していた。欠片も聞いてすらいないだろう。…自分もああ出来ればどんなに楽か。出そうになる欠伸を噛み殺すのも面倒なのに。
ああ、このマルータのくだらない話が終わるのはいつだろう。
「そこで、私達も考えました。太夫に必要なのは何か、と。今のアルレビスには何が足りないのかと」
全部足りないだろう。なんて、言えるはずも無い。そもそも今し方、マルータが否定した太夫こそが太夫足りえる知識と教養、礼儀作法を身につけていたのだから、格子から手を伸ばして男漁りをするばかりの遊女達には足りているものを探す方が難しい。
「太夫らしい振る舞いとは何か。礼儀作法は勿論、知識も芸も必要です。これから厳しくそれらを見ていくつもりですから、その気でいなさい。手を抜く者は河岸に送りますよ!いいですね!手を抜く者を見つけたら直ぐに言いなさい。次の日と言わず、その日から切見世です!」
茫洋とした頭に飛び込んできた金切り声に――――刹那、広間が凍りついた。
「河岸!?」
誰の口からか、金物を引っ掻いたような声が上がる。無理も無い。関係無いと高を括っていたはずのロゼですら、話は終わったとばかりに瞬時に喧騒で満たされたその場を去っていく姿を見送りながら、その青い瞳を丸く見開いていた。
河岸。河岸見世。姉女郎と歩いた、あの、地獄のような場所。思い出すだけで耳が冷たくなる。真っ白な肌が青く染まりそうだ。今日も紅を履かなかった唇が色を失う。ぱちぱちと明滅する光のように脳裏に映るのはあの混沌とした裏路地。建てつけ所か、扉すら付いていない、衝立が立っているだけのあばら家。乱れ髪をそのままに、厭らしい顔で男の袖を引く女。煤けた板の間に投げ出された白い手足。病に冒された醜い姿。――河岸に、送られる?冗談じゃない。…冗談じゃない!
「ロゼ!」
「…っ…ウル、リカ…?」
冷や汗で冷えた肩を掴む温もりに視線を上げれば、暗い焦げ茶と並んで眩しい金色が覗き込んでいた。
「大丈夫?あんた、真っ青よ?」
話、終わったから行こう?そう告げてくる声もどこか遠い。耳鳴りがしているのかもしれない。感覚の消えた指先は浮いたように軽くて、脳だけが持ち上げられているような錯覚すら覚える。これは良く無い。これから夜見世なのに。かといって、休むなどと言う選択肢がある筈も無い。
唇を噛んでふらりと立ち上がろうとしたロゼの身体を、もう一つの手が押し留めた。
「もうちょっと座ってろよ。ひでぇ顔だぜ?わかってねぇだろうけど、そんな顔で夜見世に出る方がやばいって」
「エナ…」
「聞いてただろ?あのおばさん、本気だぜ?」
何が、とは言わない。何時の間にかロゼの周りに集まったいつもの面子が俯く話は先のあの話しかないだろう。
マルータが河岸見世の話まで出してくる等、有り得ない話だ。マルータが河岸見世を見る目といえば、軽蔑と侮蔑のそれで、そこにアルレビスの遊女を送るなど、恥以外の何物でもないと声高に言っていたのをこの妓楼の誰もが知っている。その彼女があそこまで言うのだ。本気でない筈がない。
そこまでの覚悟をもってアルレビスの太夫を選び出そうというのだから、いくらロゼが対象外でも気を抜くわけにはいかなかった。体調不良など訴えようものなら何を言われるか。寧ろ、それを理由に河岸に放り出される恐れすらある。ただでさえ目を付けられているだけに不利だ。とても。
「警戒してた方がいいかも。おばさん相手に癪だけど」
ぽつりと落ちたクロエの言葉がどこか重い。この中で河岸云々が関係してくるのはロゼ一人だが、姉女郎に世話になった者同士、誰かが生き地獄送りになる危険に晒されるのは気分が良いものではないのだろう。いつもは明るい筈のエトですら少し表情を暗くしているのが妙に現実を感じさせて、それがまた空気に湿り気を加える。
「あーあ…こんな時、ヴェインさんがいたらなぁ…」
「やめろよ」
ぽつりとウルリカの口から零れた言葉を、乾いた言葉が遮った。他が言葉を続けないのは、ロゼの中を蝕むそれに気付いているからだ。
気まずそうに顔を逸らしたウルリカの青が泳ぎ、クロエが静かに目を閉じて張り詰めた声を聞く。
「やめろ。あの人はもう、いないんだ」
もういない人を呼んでも仕方が無い。その人が既にいないのだと再確認して何になる。その喪失感に繰り返し悶えるだけだ。くだらない。縋れない。意味が無い。刺さった棘を押し込んで何が楽しいのか。忘れられない事自体に腹が立つ。それくらい、あの人は綺麗で、太夫といえばあの人以外にはいないと言えるくらいなのに。それを、あの遣り手を始めとした女達は恥だと言う。それこそが恥だというのに!ああ、胸糞悪くて仕方が無い。もう何に憤りを感じているのかも曖昧になってきた。…今日の夜見世は一人も客が来なければいい。
唇をきつく噛んで脚に力を入れる。行かなくてはいけない。造花ばかりが咲き誇っているようなあの場所へ。
立ち上がる事すら危うかった筈の遊女の絹が微風を纏い、しゅるりと畳を滑って足早に広間を出て行くのを見送りながら、その姿が廊下の向こうに消える刹那、誰かが口を開いた。
「ヴェインさん、どこ行っちゃったのかな…」
寂しいよ。
萌えな10話。とりあえず、ロゼがマルータの話をくだらないと思いつつ、不真面目な態度で聞いていた辺りを書くのが楽しかった です。
ここで漸くロゼの姉女郎のヴェインが名前を出すわけですが…本編に出る予定は一切なかったりします(ぇ)うん。今のキャスト人数で一杯一杯だ!(ヘタレ!)
大方の皆さんの予想通り、ヴェインは既に身請けされているわけですが、代わりを勤められる太夫がいない為、アルレビスでは太夫が不在の状態になっています。…まあ、本来は無い話な訳ですが、そこはご都合主義万歳。ロゼはヴェイン以外の女郎が太夫を勤められるとは思っていないので、ヴェインを馬鹿にするマルータその他が大嫌いです。でも、そんな胸糞悪い状況を緩和させてくれる筈のヴェインもこの場にいないので、ヴェインにも八つ当たりして、「いないんだから話に出すな!」みたいな駄々を捏ねているわけです。ゲーム本編でいう所のおじいちゃんのマナみたいなポジションがヴェインになっている、と。そんな所です。
次は出番の少ないあの人のターン。
2009/07/24 |