嫌いじゃないけれど、思い出したくない。
花牢 十一、手折られた牡丹を思う
ヴェイン、という太夫を思い出す時、初めに思い描くのはその穏やかな微笑みだと思う。ふわりと花が綻ぶように微笑む姿は纏う牡丹の衣に良く合って、行きずりの一見客も大層、喜んだものだ。星が煌く如くに昼夜の灯りを弾く銀髪や藍玉を嵌め込んだかのような深い青の瞳の輝きも美しかったが、床入りをしない事が広く知れていた彼についていた常連といえば、その印象的な微笑と、口を開けばころころと零れて鳴る鈴か甘い綿菓子のような声音で紡がれる言葉が目当ての者達ばかりだった。
無論、それだけ麗しい太夫を前に据え膳喰わねばの男がいない訳も無いが、そんな騒動が起こる度、一体、どこから嗅ぎ付けて来るのか、矢鱈と英雄めいた台詞で現れる用心棒と飛んでやってきた芸者数人が不埒な輩を容赦無く妓楼から叩き出し、続いて丁度良く現れた番頭が実に良い微笑で出入り禁止を伝えてぴしゃりと戸を閉める。そんな寸劇じみたやり取りが遊里の見物の一つだったのは最早、懐かしい出来事だ。
太夫の禿として付き従っていたロゼも勿論、その場に居たが、おろおろする――この辺りは中々気の弱い太夫だったと思う――ヴェインの前にさり気なく移動して傍観するに留めていた。面倒くさかったから、というのが涼しい顔をしながら座していた当時の彼の言葉である。
さて、男でありながら太夫であったヴェインを妓楼が良く思っていたかといえば答えは否だ。先のマルータの話の通り、妓楼の恥だとすら言われていた彼は散茶ですら持っているようなまともな部屋すら与えられなかった。与えられたものといえば、狭い布団部屋を多少、綺麗にしただけの、個室というよりも小室と揶揄した方がしっくり来るような部屋だけだ。
ヴェインに引き取られたばかりの頃のロゼは、これが太夫の扱いか、と憤慨したものだが、露骨に渋い顔をする新入り禿に太夫はゆったりと微笑んで部屋に一枚しかない座布団を譲り、手ずから茶まで入れて微笑んで見せたのだから、肝が据わっているのか、そうでないのか。あの時わかったのは、これが彼の独特の雰囲気で、他の遊女には無いものだという事だけだったと思う。柔らかな、暖かい空間。稽古のぴりりとした空気でさえ苦にならない穏やかさ。単に男に向かって手を伸ばしている女とは比べ物にならない上品な優雅さ。――――ヴェイン以上に太夫に相応しい者などこの妓楼にはいない。それを、あの女共は恥だと言う。それこそが恥なのに。
三年前、太夫の身請けが決まった際、彼の目の前で祝杯まで挙げて頂点の空席を喜んだ奴らがいた事を、ロゼは昨日の事のように覚えている。騒がしかった。鬱陶しかった。憤りに震えた肩にそっと白い手が置かれて、振り返った先で弱く微苦笑を洩らしたあの人に、訳も無く泣きたくもなった。…悔しかった。
あんなに花魁らしい花魁が、どうしてあんな仕打ちをされなければならなかったのか。どうせなら、あの場で祝杯を挙げていた馬鹿共が身請けされていけば良かったのに。その馬鹿共は今もこの妓楼で下品を晒している。あいつらこそ妓楼の恥だ。
思い起こすだけで吐き気がするのに、そんな日に、普通、呼ぶか?
「何であんたが此処にいるんだ?」
露骨に顔を憮然とさせた遊女に、当然のように座敷に胡坐をかく男は杯を持ったまま笑って見せた。目を細めて、不敵な顔。
「オレが言うのもなんだが、客相手にその顔はどうかと思うぞ」
死んだふぐのようだ。言って、酒を煽った男の燃えるような赤い髪の色が脳裏に焼け付く。しなやかな筋肉がついていると、衣の上からでもわかる褐色の肌。黄昏よりも暖かな茜の双眸。――ユン、と名乗ったあの男だ。よりにもよって何でこいつが。
「昨日来たばかりだろう」
「飯に今日も昨日も無いと思うが?」
返る言葉に音は返さず、溜息一つだけを返したロゼはしゅるしゅると衣を擦りながら料理の並ぶ台の前に静かに腰を落ち着けた。腐っても二会目。しきたり通りなら、ここで酌くらいはするのが遊女の礼儀。
しかし、伸ばした白い指先は徳利の首に触れる事無く空を掴んだ。寸での所で陶器を逃がした褐色の指を目で追って、また遊女は顔を顰める。
「酌は?」
鋭く細めた青い瞳が見詰める先に、悪戯に微笑む男の茜色。
「世話を焼いて貰う程、不自由でも無くてな」
女に、なのか、身体が、なのか。この男の場合は後者だろう。以前来た折、遊女遊びを快く思っていない素振りをしていた彼が前者の意味でこの言葉を紡ぐとは思えない。それならば、素直な方面で捉える方が正解だ。どちらにしろ、からかう目的で言われた事には変わりない。
ああ、畜生。今日は一段と癪に障る。
「じゃあ、来るな」
不貞腐れたようになった声音が失態を感じさせたが、それに構う程今の自分は余裕がある訳じゃない。この際、不躾具合に不快感でも覚えて早々に帰ってくれれば諸手を挙げて喜んでやる。
密かな暗い感情がとぐろを巻いて重みを増していくのを感じながら、細めた目をそのままに顔を逸らしたロゼに、手にした徳利から酒を注いだユンは僅かに茜色を見開いた。――これは、どうやら前回とは勝手が違うようだ。
遊女としての品格を体現するべく平静を保ち続けている彼は相手が危害を加える者でない限り、このような不躾な態度を取るような遊女ではない、とユンは思っていた。現に、前回の逢瀬はユンが彼の感情を波立たせるまでは人形のような良い見本の遊女だった。だが、彼の本質を考えるならば、大人しくある事こそ不自然なのではないかと思う。遊女の枷を外した彼はどちらかといえば、感情の起伏が激しい方だろう。そうでなければ、昨日のように衣の下で客を殴ろうと拳に力を込める事も、今のようにあからさまに不機嫌面して見せる事もない。
年齢を聞くつもりは無いが、恐らく、今の顔が歳相応だろう遊女に密かに笑みを零したユンは手近な煮物にぷすりと箸を刺した。そのまま、すい、と前に差し出したのは、暖かな里芋。
「何があったのかは知らないが、少しやるから機嫌を直せ」
刹那、不機嫌にしていただけの白い面に血が上り、
「っ!あんたっ、馬鹿にしてんの…」
ぐぅ。
腹が鳴いた。一間置いて、詰まった悲鳴。
「な…ぁ…あっ…!!」
「ほう。良い音だったな。ほら、遠慮せずに食べろ」
昨日も見た顔だ。顔を一瞬前とは違う色で染め抜いて口を金魚のように開閉させるロゼを眺めて口元にまで箸先を持って行ってやるユンの顔は笑いを抑えきれずに口元がにやりと歪んでいる。それがまたロゼを羞恥で殺しそうになっている事に、彼が気付いていないはずも無い。
ああ、くそ、なんでこんな事になっているんだ?頭の中で巡る疑問に、しかし、沸騰した頭は全く答えを出してはくれない。何でこんな時に腹が鳴るんだ、とか、何でよりにもよってこいつ相手に、とか、もうそもそも良い香りをさせて鎮座する料理がいけない、とか。そんな理不尽な事まで考えてしまう辺り、頭が相当参っている。わかっているのに同じ言葉が頭を巡り続けるのは多分、全部、目の前で箸先の里芋を差し出す男が悪い。もう、全部全部こいつが悪い。涙まで滲んできた気がする。
「……っ!!揚げ代下げろとか言うなよ…っ」
「そこまでけちに見られるのも心外だな」
もう滅茶苦茶だ。台無しだ。遊女の品格とか何だとか、太夫に教えてもらった事全てが台無しだ!
自棄とばかりに箸先に食いついた刹那、ちろりと箸を舐めた舌先の赤さに指先を振るわせた男に、煮物の甘さを味わう遊女は気付かなかった。
データ紛失にも負けずに再構築した花牢十一話。太夫ヴェインについて語ってみたよ、の回。
不遇なのがヴェインの萌え要素でもあるので廓での待遇はいつまでたっても梅茶よりちょっと良い程度。給金は揚げ代高いのに梅茶よりちょっと下くらい、だと思います。
ロゼが禿として座敷の隅にいられるようになる頃には廓のメンバーとも仲が良くなってきてるので、ヴェインかロゼに何かあると用心棒達が飛んできます。アレですよ、桃太郎侍的な(ぇ)
久々に登場の旦那はロゼを弄りながら餌付けするのに楽しみを覚えていればいい!ユンに食べさせてもらうロゼは可愛いと思うんだ!(ぇえ)
2009/09/22 |