きっと、思う程、最低ではないだろう。
花牢 一、白米に紅
「遅い」
開口一番。全くもって遠慮という言葉を知らない友人は開いた襖の一寸先で仁王立ちのまま眉間に皺を寄せていた。長い金髪に、抜けるような青空の双眸。盛大に盛り上がった柳眉の間には花札の一枚でも挟めるかもしれない。
それ程、待たせたつもりのないロゼはしゅるる、と裾を引きずって、数歩引いた。
「…急いだつもりだが…」
「遅いわよ!夜見世の時間は決まってるんだから、準備しとかなきゃ駄目じゃない!」
「……ウルリカに言われたら世界が終わるよ」
耳に痛い声に思わず顔を顰める彼を些か微妙な内容で弁護したのは、腰に手まで当てて、部屋に乗り込む勢いで怒鳴り散らした彼女の背後から、ぬぅと…それ以外の擬音で表せないような様子で現れた少女だ。
「ちょっとクロエ!どういう意味よ!」
「どういう意味も…………ねえ?」
暗い茶の髪の陰から黒い微笑みを交えて向けられた視線に思わず目を逸らす。あまり厄介ごとは好きではない自分だ。これ以上、騒ぎ立てるのは得策ではないだろうが、内心だけで言わせて貰えば、クロエの言う事は間違っていない。
簡素とは行かないまでもそれなりに着飾ったウルリカとクロエは、しかし、同じく着飾ったロゼとは職を異にしている。
彼女達は芸妓だ。芸は売れども、身体は売らない。だが、単に引き立て役を押し付けられる芸妓の中で、彼女達はどちらかといえば大道芸人に近かった。書類上では芸妓なものの、口調の通りに少々個性的な面のある彼女達は引き立てるのには甚だ向いていなかったのだ。
無理も無い。考え無しに――彼女に言えば怒髪天を突かれるが――口から清清しい程ぼろが零れ出るウルリカに、口を開けば真っ黒な針しか出てこない――これがばれたらどんなまじないと称した呪いがこの身を襲うか恐ろしい――クロエ。単純に考えて、無理な話だ。無理すぎて、何故、遣り手がこの二人を芸妓として廓に入れたのかが分からない。ロゼにしてみれば、自分の職以上に常に疑問だった。
そんな、少々大雑把過ぎるウルリカが座敷に間に合わない事があったというのは想像に難くない。それも一度では無いのも、態々、言う必要も無いだろう。理由は、使うはずの琴を忘れた、とか、そもそも使う準備をしていなかったから、とか、そんなものだ。ついでにしたためるなら、ウルリカが右往左往している傍らで、クロエだけはちゃっかり座敷で自分の領分をこなしていた、というのも想像に難くないから重い溜息が落ちる。
確かに、彼女に準備云々を言われてしまうのは世界の終わりに等しいかもしれない。
口論――ウルリカが一方的にがなり立てているだけだが――している情景が妙におかしくて、袖で口元を隠して目元を緩めたロゼの耳に、その声は冷えた槍のように飛び込んできた。
「あら、優雅だと。出来損ない遊女は夜見世にも張らずに良いご身分ねぇ」
「っ!な…っ!」
弾かれたように、尻尾のような二股に分かれた金糸を揺らして、殊更、緩やかな声音に振り返ったのはウルリカ。瞬時に頬に上った赤が怒りの度合いを示す。
ロゼは申し訳程度に顔だけ向け、クロエは目にするのも毒だと言わんばかりに目を閉じ、双方とも唇を閉ざした。
着物の肩を怒らせたウルリカの声が、賑わい始めた下階のざわめきを潰して飛ぶ。
「ちょっと、どういう意味よ!」
臆すどころか余裕の笑みを浮かべて煙管をくるりと回した女の召し物は豪奢な唐紅の着物に墨の打掛。伊達兵庫の髪の型。――遊女だ。結った髪に煌く簪飾りのひとつに目を留めたロゼの目が忌々しげに細まる。
女の唇がわざとらしく嘲るように歪んだ。
「どういう意味も…簪を挿す髪すらない遊女なんて聞いた事も無い。おまけに身体を売らないなんて、ただの穀潰しだねぇ。ああ、嫌だ嫌だ」
遊女の髪は長いものだ。それは単に目立つ為もあるが、人気と位の高さを示す豪奢な飾りで己を煌かせる理由の方が主である。とくに櫛と簪は上級の者程、多く挿す。故に、遊女は重要な見てくれの一つである髪を大事にした。――――それが、ロゼには無い。
襟足で綺麗に切られた清水の如く美しい青の髪は風に靡く事はあれど、簪を飾れる長さは無く、白い項を晒して一つの彩りも添えないまま、流されている。
だが、髪をどうのと言われたところで、短いものはどうしようもない。伸びる頃に、見っとも無くない程度に短く切っているのは確かだが、一夜にして伸びるものでも無し。多少、悔しくは思えど、反論する気にはならなかった。そもそもここまで短くなってしまえば、長くする気も起きない。
問題は後半。長い袖の下で密かにきゅう、と拳を握ったロゼの代わりに、青い瞳を燃え上がらせてウルリカが吼えた。
「髪の事なんかあんたには関係ないでしょ!?似合う髪形してりゃそれで良いのよ!!こんのワカメ女!ロゼが床入れするもしないも、それこそあんたには関係ないわ!!」
「……どこぞの豚野郎に突っ込まれるくらいなら、床入れしない方がマシ」
我慢できなかったのか、クロエまでが口を開く。目が依然、閉じたままなのは、やはり視界に入れる価値も無い、と思っているからなのか。どちらにしろ、彼女達がこれだけ怒ってくれれば、見ている方の怒りも冷める。
傍で烈火の如く燃え盛る炎と静かに渦巻く黒雲。つり上がりかけた柳眉を苦笑の形に歪めて、漸く青い双眸が和らいだ。
「おい、それくらいにしとけ。もういい加減、下に下りないと三つ巴だ」
「でも…!」
「あんたもこんな所でお茶挽いてる場合じゃないんじゃないか?」
息巻くウルリカから視線を外して言えば、指摘された事が癪だったのだろう、女の顔に初めて朱が走る。言われなくても!、と金切り声を上げてすれ違う女の足音は怒りの為か、乱雑で重々しい。そんなにどすどす歩かれたら、いくら金をかけた建物でも底が抜けそうだ。
邪魔だと言わんばかりに着物を翻す女の口が再度、口を開く。
「あんたなんかが遊女なんじゃ、この遊郭の格が下がるね!身体が売れないなら芸妓にでもなりゃ良かったんだ。そんでなきゃ茣蓙抱えた夜鷹だね」
口の減らない女だ。この分では客の位も高が知れていよう。冷めた評価を下すロゼの頬を熱風が撫でた。
「なんですってぇえ!?」
「止めとけ」
再度、噴火したウルリカを宥めるロゼがちらりとクロエを見れば、無言のまま黒い渦を混沌に変えているのだから、助けは見込めない。…参った。毎度の事だが、慣れないのも確か。
ロゼはまごう事無き遊女である。あの女の言う通り、遊女は端的に言ってしまえば、身体を売るのが仕事だ。今も他の遊女に比べれば質素なものの、それなりに綺麗な着物を着て佇んでいる。もう片手では足りない年月をこの遊郭で過ごしているロゼが遊女の売り物を理解していない訳がないが、彼はまだ一度も床入れを許した事がなかった。つまり、水揚げすら済ませていないまま、数年を過ごしているのだ。
酌だの芸だのだけで良いならば芸妓で事足りる。何も遊女である必要はない。造作が整っている分、ロゼを指名する男は少なくなかったが、床入れ出来ない、となれば失望する客もいない訳ではなかった。罵られた事もある。無論、客だけでなく、今のように他の遊女にも。
「まっっったく、毎度毎度、よく飽きないわよね!何!?あの足音!象みたい!!」
「ウルリカは相当うざいけど、あの人達は汚物に群がる蝿より、うざい」
名前もうろ覚えの姉女郎を見送っていたロゼの、ぽかりと空いた思考に飛び込む小気味良い罵倒が苦笑を生む。――――悪くない。が、そろそろ本気で下に下りないと遣り手が飛んでくる。
軽く袖を振って道を促すロゼの足取りは慣れたものだ。もう何年もこの現場を繰り返していればそうなるのも道理だが、それがあまり苦にはならない程度には慣れてしまった。ウルリカの沸点の低さは、ここに来る前の知り合いに通じるものがあり、それがまた良かったのかもしれない。
気を取り直したウルリカが足取りも軽く先を行くロゼを覗き込む。
「今日は座敷入ってんの?」
そっと虚空に目をやって、けれど、考える程何かが入ってる訳でもない。すぐに頭を振ったロゼは肩を竦めた。
「入ってると思うか?一晩中、張見世で転がるだけだ」
微かに笑って振り返れば、一緒にさぼりたい、と小さく呟いたクロエに叱責を浴びせるウルリカの姿。
またしても袖で口元を隠したロゼが階下へ通じる階段に足を下ろしたのと、階下から遣り手であるマルータの怒声が聞こえたのは同時だった。
また今夜も夜が始まる。
ロゼの立場を少し。あとはウルリカとクロエを。
ロゼの代わりにぷんすか怒るウルリカは書いてて楽しかった…!この調子で怒ってくれ!!(何)
ウルリカとクロエは住み込みの芸妓です。ロゼは個室を与えられているので、遊びに来たり、愚痴言いに来たり、何故か芸に優れたロゼに習いに来てたりしてます。
ロゼは身体を売らないので他の遊女から煙たがられていますが、最低限は稼いでいるので遠巻きに厭味を言うだけに止まっています。その辺りはそのうち種明かしがされていくと思いますが…多分(オイ)
いつまで続くかわかりませんが、お付き合いいただければ幸いです。……見切り発車ですが(だめだろ)
2009/01/09 |