どの花でもなく、あの花を。
花牢 三、陰牡丹
五つ。思いがけず、早く仕事が終わってしまった。全く、どうしたものか。
遅くなるだろうと踏んだ仕事があまりに呆気なく終わってしまった所為で、夕飯はいらないと娘に言い置いて出てきてしまった手前、帰るに帰れない自分を持て余しながら、ユンは色とりどりの明かりが煌々と夜道を彩る花街を歩いていた。
無論、自分の家だ。帰宅する事自体は可能だろう。締め出される事は無い筈だ。しかし、予期せぬ早い帰宅で暖かな食事が都合よく用意されている訳も無い。娘はあれでいてかなり厳しい子だ。夕飯は暮れ六つ。今は五つ。いらないと言ったくせに腹を空かせて帰ってくるくらいなら、外で食べて来い、と敷居を跨いだ瞬間にも外に放り出されてしまうだろう。おまけに、せめて半刻経つまで締め出しだ。
はぁ。重い溜息が零れる。仕事を終えたばかりで、そこそこの膳が食べられるくらいの銭はあるが、花街で夕餉というのも何と無く気が乗らない。飯屋に入る手もあるが、ここまで来て不味い飯も喰らいたくはない。かといって、妓楼で摂ればもれなく小煩い女がついてくる。――さあ、どうしたものか。
表と裏を行き来する家業に慣れたユンがこういうのも彼らに失礼な話だが、彼は花街を好いていなかった。今日の仕事も花街でのそれだと聞いた瞬間、僅かに目元が痙攣を起こしたくらいだ。
妓楼の女は――確かに差はあれど――美しい。華美に着飾った姿で妖艶な微笑みを浮かべた女は天女の如く。玄人仕事のもてなしと学者も舌を巻く教養。非の打ち所の無い遊女は字面の通りの遊び女にしておくには勿体無い。だが、それも一部の遊女、と線を引いてしまえば、艶も色も褪せる。そこらの遊女といえば、教養はおろか、礼儀も節操も無い。馬鹿騒ぎで囃し立て、路面の格子から手を伸ばして男の袖を捕まえる様などは浅ましい以外の何物でもないと思う。
絵に描いたような良く出来た遊女など太夫くらいなものだろう。尤も、ユン自身はそんな遊びをするような男ではなかったが。
つい、と向けた視線の先に、その浅ましい光景を目にしてしまい、また溜息が零れる。――小道にひしめく男達を縫って歩くのも一苦労。格子に群がる彼らもよくもまあ、飽きないものだ。
滑稽さにつられて頭を擡げた好奇心のまま歩止め、腕を組んで、気まぐれに格子から伸びる手の持ち主を眺めてみるが、それ程の美姫でもない。男連中も然り。並の女に並の男。それなら娑婆でやれば良かろうに。
目に痛い赤い着物の袖を肘までずらして手を伸ばす女と、その横で品の良くない愛想で男の袖を引っ張る女辺りがこの張見世で幅を利かせているのだろうか。彼女達の周りから同じく手を伸ばす女達はそれ以上に手を出そうとしない。奥でしなを作る女達も手を出せないから肌を晒す手前の色気で客を取ろう、といった風だ。袂を直すふりをして少し柔肌を見せてやるような下世話な事までしてみせる。
「…呆れるな」
呟いて、こんな所で油を売っているくらいなら叱責覚悟で家に帰った方がましだ、と踵を返そうとしたユンの目がふと見世の隅にひっかかった。
目に入ったのは、青い髪の、遊女。遊女にしては珍しい、肩すら掠らない短い髪。控えめな紅に身を包んでいるのを抜きにしても、遠目でわかる色の白さが目を惹く。瞳は触れればさらりと零れるだろう髪と同じ水の色。華奢な肩は怒りもせず、撫でてもおらず。肘掛に軽く凭れながら、適度に背筋を伸ばした姿は他の遊女のだらしなさを際立たせるくらいに清々しい。
細い顎の、美しい面の遊女が何をするでもなく見世の隅に座っている姿は一枚の絵画か、人形飾りのようだ。そのふっくらとした淡い色の唇に血が通っていない、と言われても大して驚きもしないだろう。――――それくらいに、その薄青の双眸は硝子のようだった。
ぴくりとも動かず、瞬き一つも忘れた頃。浅い呼吸に上下している筈の胸はあまりに動きが小さく、かといって、その衣に包まれた薄い胸に手を置いて確かめられる程、この距離は近くない。
人形かと錯覚した目を僅かに見開いて組んだ腕を解いたユンの前で、引き結ばれていた遊女の唇がゆるりと開く。同時にすぅ、と伏せられる長い睫。
……飽きないな…どいつもこいつも。
そう、言った。多分、風が啼くよりも小さな声で。それこそ、耳を澄まさなければ聞こえない、せせらぎのように。
どのような者だろう。自分の職を疑うような、貶すような事を言う遊女というのは。記憶の限りではそんな遊女はこの遊里にはいなかった。皆、男の身なり、見てくれ、足元が目に入る者ばかり。それが当たり前ですらあるこの場所で、その場に勤める者がそんな事を言う。実に疲れ切った顔で。乾いた唇を吐息で微かに濡らしながら。
伏せられた瞳に吸い寄せられる。こちらを見てすらいない青い瞳。毒を見るのを厭うかの如く視線を隅に寄せ、目蓋を閉じて、開いて、僅かに頤を上げた白い面のその瞳が前を向き――――ユンを捕らえた。
驚いたように見開いた双眸が大人びた雰囲気を崩して愛らしく見せる。硝子が空虚以外の何かを得て色付く瞬間、刹那でもその華に興味を抱いてしまった男にはその呪縛から逃れる術など無い。
ごくりと鳴った喉がどうして鳴ったのかも分からないまま、家へ向けて返そうとした踵を、賑わう土間に向けて返し、暖簾を潜ったユンの影を戸惑う視線が追っていた事など、焦燥に似たものに突き動かされた男は気付きもしなかった。
西のアルレビスの見世は惣籬である。土間の下から天井まで白木の格子で覆われた大見世は遊女の籠と言っても過言ではないが、触れたいけれど触れられず、というじれったさが男を格子にしがみ付かせている理由の一つだった。加えて言えば、アルレビス程の高級妓楼ならばこれくらいしなくては籠に入れた宝石が小石にも見えてしまう。宝石は宝石箱に入れておかなければ、というのがこの店の遣り手であるマルータの持論であった。
冷やかしの客も、格式高さに慄いて近寄りもしない暖簾を潜って、早速、妓夫台に声をかければ、物腰柔らかな銀髪の男がユンの傍らで手際よく、書き物を手に微笑んだ。
「いらっしゃいませ。うちの遊女に興味がおありですか?」
柔らかな口調。長く伸ばした前髪で片目を隠した男は到底、見世番などと言う押し売り同然の役職にいる者とは思えない物腰だ。辛うじて晒された深紅の瞳が柔らかに微笑む様はどちらかといえば、番頭か廻し方が似合うに違いない。どちらにしろ、笑みを浮かべて佇みながら、今も接客をする片手間、裏で諸々に簡単な指示を出しているような手際の良い男は土間にいるような奴ではないだろう。
些か訝しげに眉を顰めるユンに、彼は今度は困ったような笑みを浮かべた。
「すみません。少し人手不足でして…本当なら番頭の僕がここにいる筈は無いのですが…気になるようでしたら他の者に案内させますが、如何致しますか?」
言って、また微笑む男にしばし考えて…特に不都合は無いだろう、と判断する。仕事ではないし、彼が番頭という役職にいるなら、秘密の厳守は徹底しているだろう。不都合どころか好都合だ。
顰めた眉を戻して、微かに笑みを浮かべる。
「いや、勘繰ってすまない。お前で構わない」
「恐れ入ります」
恭しく頭を下げる男を横目に格子の隙間を覗けば、あの遊女はまた見世の隅に視線を投げていた。
足元の裾を手繰って整え、先程の人形具合と変わって、所在無さげにそっと袖をいじる仕草が可愛らしい。
「…あの遊女はいくらだ?」
「あの、といいますと…?」
「見世の最奥の隅に座っている青い髪の遊女だ」
ちらりと籬の中に目をやる番頭に心持、声を潜めて示してやれば、彼は、ああ、と小さく声を上げた。
「ロゼリュクスの事ですか…あれは陰間です。まだ梅茶の若い子ですよ」
柔らかな笑みで、目を細めながら件の遊女を眺める番頭の手が紙束を手繰る。値段など頭に入っているだろうに、こうして時間を稼いで、他の遊女に気移りさせる気なのだろう。流石に食えない男だ。西のアルレビスの番頭を張るだけはある。
しかし、梅茶の陰間、か。意識を番頭から再び、遊女…ロゼリュクスに戻したユンは脳裏でぽつりと呟き、腕を組む。
陰間とはつまり、男娼だ。男が男に身体を売る。聞いた事はあったが、数が少ない為に実際に見たのは彼が初めてだ。成る程、道理で胸が無い。―― 一人、胸の内で頷いたユンの鼓膜の戸を番頭の声が叩いた。
「他の者に変えますか?」
促すようなそれに、否、と首を軽く振り、彼の手に乗った揚げ代帳に目をやる。
「高いのか?」
陰間は女より高いと聞く。食事代から何から含めて、それでも手持ちから足が出るならやめておくが、番頭が言うにはあれは梅茶だという。河岸見世で売る切見世女郎のたかが一つ上。布団一枚が部屋一つに変わっただけのような位の遊女が、たとえ陰間とはいえ、太夫のように目が飛び出る程、高い遊女ではあるまい。
探る視線に、番頭はやはり予想通り、首を横に振った。
「いえ、梅茶ですから、それ程高くは…」
「なら、あれでいい」
台の物は適当に。酒は熱燗で。ユンの半ば適当過ぎる気のある注文にも番頭はそれ以上、聞き返す事もせず、ただ、はい、と頷いて手持ちの紙に書き留めていく。――――優秀な男なのだろう。書き留めながら、後ろに視線をやって若い衆を先回りさせている。この分だと二階の座敷に座る、丁度、その頃に酒が用意されるはずだ。
優秀という点でいえば、遊女の薦め方にも頭を垂れるべきだと思う。
単に客が興味を持った遊女だけを薦めるのではないやり方は中々、面白い。一番に興味の出る遊女はその遊女が優秀だから、華美だから、というのが一般的だ。だが、だからといって、その他の遊女を蔑ろにするわけにはいかない。稼ぎ頭は必要だが、稼ぎが一所に集まるのは万一、それが無くなった時に妓楼もろとも心中する危険がある。他の遊女にも出来るだけ多くの馴染みをつけておくに越した事はないのだ。だからこそ、見世番はどうでもいい客には数多の遊女を薦めたがる。年季明けまで妓楼にしがみついているような、どうでもいい遊女を。幸い、アルレビスの女郎はどれも上玉だ。不満はそうそう出ないだろう。
そこまで考えて、ユンは不敵な笑みを浮かべた。
「番頭。あの遊女、本当は高いだろう?」
ユンを二階の引付座敷へ促しながら、先を歩いていた番頭が振り返る。口元には相変わらずの微笑み。――――流石、高級妓楼。
「さあ、どうでしょうか。あれは日向に咲かない牡丹ですから」
つまりは、そういう事だ。
漸く出たよ、旦那ユン。…という訳で花牢三話はユンパートでした。
ユンは花街があまり好きではない設定です。真面目なユンなら遊びで女郎買いなんてあまり好ましく思っていないだろうなぁ、という妄想からですが、話的にはこの後、がっつり妓楼通いになると思うと生暖かい気持ちになりそうです…。
で。なんというか、名前は出てないですが、早くもあの男が出ております…本当に好きなんだなぁ…自分…(オイ)この話はオールキャラなので出ても可笑しくないですが…教頭より早いって…。
さて。次はついに引付座敷にて初会。
2009/02/06 |