硝子を嵌め込んだ造花を愛でる趣味など無い。
花牢 四、硝子を砕く手管
「ロゼリュクスと申します」
座敷に上げられて直ぐに運ばれてきた酒を猪口に注いで少し。ふいに開いた襖から、しゅるると裾を引き摺って三つ指をついた遊女の小さな唇から放たれた言葉は冷え切っていた。
籬から眺めた姿そのままの細身の陰間。墨流しの打掛に朱の振袖。裾に薄桃の牡丹を咲かせて広がるそれが良く似合っている。切れ長の青い双眸は鋭く、煌く様は曇りひとつ無い氷が光を弾くようだ。指を通せばさらりと流れて柔らかく皮膚を刺激してくれるだろう絹の髪を目立たせるのはその肌の白さ。白雪の如く静かな白が短く整えられた流水のような青い髪を尚、美しく見せる。
ロゼリュクスは申し分なく美しい遊女であった。遠目にも近目にもその色は褪せる事が無い。ぴん、と張った背筋に軽く引いた細い顎。病的ではない白にちょこんと彩りを添える花弁のような薄桃の唇は瑞々しく引き結ばれたままだが、それすら清々しいと感じる程に彼は美しい。――――短い言葉の後に上げられた視線に射抜かれながら、ユンはそっと息を呑んだ。
しかし、気迫、というにはやや足りない気がするのはその瞳の所為だろう。先程まで人間味を帯びていた筈のそれが、今は人形の眼窩に嵌め込まれた硝子玉の如く色を失っていた。
「それでは、間も無く台の物も参りますので僕はこれで」
「ああ、待て」
気を取られている間に、視界の端で軽く頭を下げて座敷を辞そうとした若い番頭を軽い声音で引き止める。短い返事で動きを止める彼は真に忙しい身の上なのだろう。閉じた襖の向こうに動揺した人の気配がする。彼自身も勘付いているだろうに、表に出さないのは矜持か礼儀か。思いはすれども、相手の仕事の邪魔をしようとは微塵も思わない。
懐からいくらかの金を包んで差し出すユンも仕事人だ。領分くらいは心得ている。
「名は?」
低い物腰のまま差し出されたそれを受け取る彼の紅の瞳が細まった。
「フランチェスコ、と」
人のいい笑みの奥に見え隠れするのは客を品定めする冷えた影だ。今、彼の中で凄まじい勢いで利益率の計算が行われている、と予測がついてしまうのは自分も同じ類の人間だからだろうか。そう脳裏で呟くユンの中でも、フランチェスコと名乗った彼を利用する事による利益、不利益の具合が計算されているのだから、笑えてしまう。
フランチェスコを常の案内としておくのは有益だろう。妓楼に通う予定は無いが、もしもこの遊女が予想以上に興味をそそるものなら、守秘義務に優れた者が仲介の方が具合がいい。
礼の為に再度、頭を下げて畳から板張りの廊下に下がるフランチェスコが音も無く襖を閉じようとする瞬間、浮かべていた物腰柔らかな笑みを違う種類の冷えたそれに変えたのを見ながら、自分の口元にも同じ類のものが浮かんでいるのだろうと心中で笑うユンは改めて胡坐をかき直した。
入れ替わるように食事が運ばれてきたのは、沈黙を潰すためか、或いは振りの客を早く帰したかったからなのか。手際よく並べられていくそれらは粗末でも質素でもなく。しかし、豪華すぎもしない。あえて言葉を宛てるなら、妥当、というべきか。仲居が去った後にさらりと台に並べられたものを一通り眺めたユンは番頭の手腕、観察眼に改めて関心する。――やはり、人選は間違っていなかったようだ。
箸に手をかけて、未だ、眉ひとつ動かさない流麗な遊女を一瞥。
「もう少しくつろいでも構わんぞ」
別にどうしようとなど考えていない。軽い口調で首の凝りをほぐしながら言えば、あちらもまたこちらを一瞥。
「オレは食事をしにきただけだからな。寧ろ、絡まれる方が迷惑だ」
酢の物をつつきながら言うユンを、今度は僅かに丸くなった青い瞳が眺める。思わず少しだけ開いてしまった唇はその驚きを如実に語っているかのようだ。事実、ロゼは目の前の男の言葉に驚いていた。
宿主の意思を無視して暴れ続ける心の臓を必死に宥めようと袖だの裾だのを弄っている最中にフランチェスコが呼びに来た時には驚いたものだ。今夜も誰にも見立てられる筈が無い、と高を括っていただけに、尚、驚いた。ぽかんと口を開けて赤い瞳を見返したロゼを急かした彼が、痺れを切らせて肩を叩くまで気付かなかったのだから、その衝撃の度合いは計り知れない。心配から、思わず熱を測ろうと手を伸ばしかけたフランチェスコを誰が責める事が出来るだろうか。
それだけでも平坦な日常を揺るがすちょっとした事件だというのに、どこの物好きが自分を指名したのか、と氷河期の心をもって望んだ座敷に胡坐をかいていたのは件の茜の男。不敵な笑みを浮かべて杯を傾ける姿が絵になる彼を目にした瞬間、静まりかけた鼓動が、またしても暴れ出そうとしたのを鉄の理性でもって堪えた自分はとても偉かったと褒め称えたい。
初会でその気を見せるなど言語道断だ。遊女として失格とも言える失態を晒すわけには行かない。―――叩き込まれた礼儀、礼節の知識を総動員して、ロゼは再度、背筋を伸ばした。
女郎買いには段階がある。下級女郎には当て嵌まらないが、通常は三段階。所謂、初会、裏、馴染みというやつである。客と遊女が初めて会う初会は今のような次の間の無い引付座敷で行うが、この際、遊女は客と言葉を一つも交わさない。笑う事も、杯を受ける事も、酌をする事も無い。文字通り、単に、顔合わせである。辛うじて少し言葉を交わすようになるのは裏を返した二会目。ただし、酌を受け、話はしても床には入らない。三会目になって漸く箸袋に名前が付き、遊女が身体を開くようになるのだ。
尤も、床入りなど端からするつもりのないロゼには三度目など無いに等しいのだが。
くつろげ、と言った言葉に対して、反対の行動をしたロゼに、今度は低い含み笑いが宛てられる。
「何も取って喰おうなどとは思っていない。もう少し楽にしてくれ。遊郭のしきたりを知らないわけではないが、そうでなければ、オレも食べ辛いからな。それに…」
部屋に咲く華を眺めながら箸を進めるのは悪く無いが、華が華のままなのは少々惜しい。生きた華を見たいと思うのは我儘ではないはずだ。
思わせぶりに言葉を切ったユンの、焼き物に落としていた視線が、真っ直ぐに向けられていたそれと絡んだ。
「お前も退屈していただろう?」
冷めた目で。まるで人形のように。籠の鳥よりも無機質な瞳で通りを眺めて。あの豪奢な籬の中から。
「オレもあまり気乗りのしない仕事を片付けてきた所でな。…お互いに休憩というわけだ」
不敵な笑みを浮かべて、杯を片手に目を細める男に、息が詰まりそうになる。…どこから見ていたのか。どこまで見ているのか。あの時、彼が立っていた場所からでは、そよ風にもかき消される呟きなど聞こえていないはずなのに、どうして繰り返されるものに億劫になっていたのを知っているのか。
今度こそ目を見開いて、美しい面に驚愕の色をありありと浮かべたロゼにはユンが読唇をしたなどという発想はこれっぽっちも浮かばない。混乱している。同時に何故か抑えきれなくなった動悸が頬に熱を上らせた。
直ぐに柳眉を顰めて、怜悧な視線を更に磨けども、耳まで熱を持ちそうな頬の赤味が迫力を削いでしまう。
一気に人間味を帯び始めたロゼの瞳に満足しながら、ユンは閉ざした唇よりも雄弁に語る視線に、もう一度、言葉を投げた。
休憩をしないか、と。
ロゼが一言も喋っていない上に、約半分がユンvsフランチェスコだった、という罠(ぇ)
ココできったのは勿論、この後が長いからに他ならないわけで…それにしてもフランチェスコ色の強いパートですね…(自滅)
本来なら、登楼する際は茶屋を通さなければならないわけですが、話の都合上、ここではその手順を無くしています。更に、初会では遣り手も同席するのですが…それも省略。
次はロゼが喋ってくれる…と、いいなぁ…(ぇえ)
2009/02/10 |