あの人の影を追う訳ではないけれど…誰か、知らないか?
花牢 五、牡丹の咲く
静まり返った室内に、違う部屋の喧騒が響く。他に空気を揺らす音といえば、ユンが台の物をつつく音であったり、或いは銚子を置く音であったり。その程度のものだ。
ともすれば酒を注ぐ音すら聞こえてきそうな空間で、先のユンの言葉に返るものは無く、ただ怪訝な視線が褐色の肌を刺すばかり。不躾にならない程度に訝るロゼを多少、面白く思うユンは彼の思うままにさせていた。
遊女としての誇りを語れば、あの言葉は頭に血を昇らせるには十分に足るものだっただろう。初会に床で首尾せぬは客の恥、裏に会わぬは女郎の恥。気位の高い遊女が休憩云々だの、絡まれる方が迷惑だの、言われれば、裏が期待できないだけに自分の名に傷をつけるだけだと憤慨するのは想像に難くない。裏を返させる為に初会から床入りを許す女も少なくないという。しかし、目の前に座する、姿勢の良い遊女はそうではないらしい、とユンは微かに目を細めた。
目線は恰も弓矢か白刃の如く。ユンの言葉を鵜呑みにせず、未だに背筋を伸ばしたまま顎を引いて口を噤む様はいっそ清々しい。これが梅茶の女郎とは。アルレビスの心意気の現れか、それともこの女郎が梅茶に相応しくないのか。――――答えは明らかに後者だ。寧ろ、この女郎が梅茶に甘んじている事こそがこの妓楼の恥だと言える。
見世の格子からしきりに手を伸ばして、冷やかしを捕まえてはきゃらきゃら笑っていた散茶どもを脳裏に思い起こして、不快なそれを直ぐに酒と共に胃に落としたユンを眺めるロゼの青い瞳がまた訝しげに細まる。今度は小さく首が傾いだ。
「…あんたが高い金払ってまで花を愛でるようなヤツには見えないんだが?」
囁きでは無い。響いたのは、互いの距離を掠れる事無く埋められる程度の声音。声を張り上げるでも無く、どちらかといえば、空気に木の葉を軽く放るような感を持って投げられた問いに、話しかけた側である筈のユンですら、僅かに目を丸くした。応えを期待していなかっただけにこれは心臓に悪い。
先の堅苦しい言葉遣いを崩した言葉が乗った、鈴の音よりも鋭利なそれは涼やかな刃の音に似ていると思いながら、疼く胸の燻りを押さえ込む。
「言っただろう?夕飯を食べに来ただけだ。ここまで来て態々、不味い飯屋に入りたいと思う程、物好きではないのでな」
ぽりり、と新香を齧る彼の言う事はもっともだろう。遊郭の飯は余程の事が無い限り、不味くは無い。そんじょそこらの板作りの飯屋に比べれば殿様飯だ。刺身一つも絹の舌触り。米粒一つも玉の艶。アルレビスほどの高級妓楼ともなれば二階で楼閣並みの食事をするようなものである。ロゼ自身は未だにそういった飯にありつけた事は無いが、姉女郎達はその美味な具合を少ない語彙を使って表現するものだから、どういったものが出ているのかくらいは知っていた。欲を言えば、もう少し語彙を増やして、もっと思慮深く、分りやすく説明して欲しいものだと常々思っているが、勿論、口には出さない。床の話以外では総じて臨場感ががた落ちするというのは些かよろしくないんじゃないかとは数少ない友人にそれとなく洩らした事はあったけれど。
それにしても、不味い飯を食らいたくないから、と態々、遊里でも一、二を争う高級妓楼に登楼する奴も珍しい。
「酒の肴に陰間を呼ぶだけでも十分物好きだと思うがな」
ぴん、と張った肩を僅かに崩して、けれど、脚は崩さないのは、まだ警戒しているからだ。
緩んだ緊張の糸を手繰るように、手のひらで猪口を弄んで、男は笑った。
「下品な庭の隅に咲く変わった牡丹を間近で見てみたくなってな」
品定めするような視線に、ロゼの顎がくい、と上がる。
「それで?その牡丹はお気に召したのか?」
「悪くない。それどころか、ますます気に入った」
見下す視線に絡む不敵な笑み。美麗な白い面に刹那、困った表情を覗かせたのは見間違いではないだろう。態々、「下品」とまで言ってみたにも拘わらず、それ自体には興味すら覚えていないようだ。億劫そうな表情に揺らめいた困惑は、寧ろ、気に入られる方が面倒だとでも言っているようだった。――――成る程。それも面白い。
胸の内で膨らんでいく高揚感は仕事をこなしていく時のそれに似て、思わず獰猛な笑みすら浮かんでしまいそうになる。
「気に入られるのは迷惑か?」
問えば、今度は心底、困った顔。
「迷惑、といえば迷惑だな。あんたは知らないようだから教えてやるが、俺はどんな馴染みとも床入りしない。だから、それを期待されても困る」
さらさらといつもの言葉を、いつもより素の口調で言い終えてから、ロゼは視線を外さないまま、胸中で僅かに首を捻った。
常のロゼはどちらかといえばあまり歯に絹を着せない物言いだ。迷惑なら迷惑。鬱陶しいなら鬱陶しい。クロエやウルリカ程ではないが、彼自身も言動には少々遠慮の無い方だ。その彼が、手酷く相手を幻滅させて、床入りを諦めさせなければならない場であえて、困る、という言葉を使ったのは至極、珍しいことだった。何故、それを使ってしまったのかは、自分でも分らなかったが。
褐色の指先で操られる漆の箸が焼き物の腹に刺さる。男は笑ったまま。
「それは興味深い」
馬鹿か。この男。瞬時に頭の辞書から叩き出した言葉が辛うじて喉元で止まってくれたのは姉女郎の教育の賜物だ。
ロゼにしてみれば、ここに来る男など、身体目当ての糞宿六。犬畜生より下等な思考の助平野郎。今のように、気に入られるのが迷惑か、と問われれば一も二も無く是と答える。遊女である以上、最低限のもてなしはするつもりだが、それと床入りするか否かは違う。日毎夜毎に違う男ととっかえひっかえ、布団を上げる間も無く、男の坊主を銜え込んで、腰を振り、どろどろに白く汚れる事の何が嬉しいものか。そんなもの屈辱でしかない。潔癖主義を気取る訳でも、自分の姉女郎のように操を立てる訳でもないが、身体を売るくらいなら舌を噛む。床上手なんて言葉は一生ついて回らなくていい。
無論、ロゼ程の遊女であれば、無理に床入りを迫ってくる男がいなかった訳ではない。そんな奴には不能にしてやれるくらい思い切った蹴りを見舞ってやっていた。しかし、こちらも素足。勿論、「それ」を踏みつけるとか、蹴り上げるとか、お世辞にも気持ちのいいものではない。寧ろ、吐き気がする。稀に悦んでしまう変態もいたため、うっかり思い出してしまったロゼは軽く心的外傷になりそうだ、と溜め息をついた。
「…すまない。何か嫌な事を思い出させたか?」
今更、眉尻を下げて謝られても、もう遅いが、
「いや、過去の汚点だ」
ちゃんと応えるのもおもてなし。そもそも、男のまらを蹴り上げたのを思い出して軽く落ち込みました、なんて客に言える訳が無い。
襲った寒気に、袖に隠れた手で腕を擦るロゼを見ながら、ユンは以前、小耳に挟んだ話を思い出していた。
身体を売らない遊女。その噂を聞いた事が無い訳ではない。星のような銀の髪、藍玉の如く煌く双眸、少女と見紛う儚い面。大輪の牡丹の咲く赤い振袖から覗く細い指は白く、たった一人の禿を連れて歩く背筋の伸びた華奢な姿は恰も真白の芍薬。西のアルレビスの太夫が実は陰間であったというのはその筋では有名な話だった。重ねて、決して身体を売らなかったというのも彼が残した逸話の一つ。一説には操を立てていたとも聞いているが、その真偽は定かではない。もっとも、身請けされてから行方の分からない遊女の事を知る趣味などユンには端から無かったが。
しかし、この遊女も身体を売らないという。牡丹の着物がよく似合う彼ならば言い寄る男は数多だろうに。――――待て。「牡丹の着物」?
「…お前、太夫の妹女郎か」
「っ…え…?」
振り向いた青い瞳に、驚愕の色が宿る。それだけで、答えは、是だ。浮かべてしまった如実な色に気まずそうに視線を逸らすロゼをまた眺めて、ユンは得心いったように独り頷いた。道理で番頭が他の遊女に目を向けさせたくなる訳だ。太夫が引っ込みから大切に育てただろう遊女に振りの客の相手などさせたくないだろう。
空の猪口に酒を注ぎながら、まあ、暇そうにしていたのだから役得か、と結論付けたユンの耳に、またあの涼やかな声音が届く。
「…あんた、あの人を知ってるのか…?」
何か聞きたげなロゼを一瞥して、ユンは銚子を置いて首を横に振った。
「いや、風の噂で少し、という程度だ。こういった事には興味が無くてな。ただ、禿を一人だけしか持たなかったというのと、お前のその牡丹の振袖で、そう思っただけだ。名前も知らん」
間違っていたらとんだ恥さらしだった訳だが。肩を竦めて言う彼には嘘の気配は無い。真実だろう。落とした肩を取り繕う事もせず、ずれた墨の打掛を小さな爪の先で整える。――――彼も知らない。当たり前だ。身請けされた女郎の末路など誰が知りたがるか。余程の物好きか聞屋の仕事。知れたら知れたである事無い事書き立てられて、仕舞いには世間体の苦でお堀に身投げ。…そんな奴らを腐る程知っている。身請けされなくても、男と心中した遊女や水揚げした次の日に首吊り死体で見つかる新造も少なくない。
遊郭を苦界とはよく言ったものだ、とロゼは常々、その言葉を思い出しては袖を握っていた。入れば抜けられず、抜ければ堕とされ、住めば地獄。これを苦界と呼ばずになんと呼ぶのか。
遊里を出た事が無いのだと言っていたあの人はロゼが外の話をする度に目を輝かせて聞き入ってくれていたものだから、皆が寝静まった後にこっそり布団の中で外の話をするのが日課のようなものになっていた。それくらい、外に焦がれていたのに、それでもロゼが遊里を悪く言えば悲しげな顔をして、違うよ、違うよ、と一つ一つ誤解を解こうと、泣きそうな顔で頑張っていた。彼にあんな顔をさせてしまう遊里のどこが良いものなのか、実を言えば、昔も今も、さっぱり理解出来ない。
ロゼにとって遊郭とはまさに苦界そのものであった。――――生きる為に仕方が無いと割り切ってしまえば、それで済んでしまう事なのだろうけれど。
思考に沈んだ彼の耳に、低い声が響いたのはその時だ。
「闇の夜は遊郭ばかり」
響く上の句。下品な喧騒を消して、すぅ、と熱の引く音がする。
本当は喋っちゃいけないのに、喋ってしまう素直なロゼたん(何)斜に構えてみたものの、見事に玉砕。ユンの勝利(だから何)
ロゼの着ている着物は全部姉女郎のお下がりです。買うお金も無かったし、ロゼとしてはそれで構わなかったので、そうなっています。実は髪飾りもありますが、髪が短いので着けられないだけです。それをちょっと悔しいとか残念に思っていたりすると可愛いと思います(ぇ)
2009/02/13 |