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 お前に言われる筋合いなんか無い。絶対に。

花牢 六、闇の夜は遊郭ばかり月夜かな

「闇の夜は遊郭ばかり」
「…ぁ…?」
 喧騒を裂いて響いた声音に、意識が弾かれる。この部屋で声という種類の音を奏でる存在は少なく、それは自分でなければ目の前の男以外には存在しない。
 伏せていた目を僅かに丸めて視線を送ってきたロゼに、猪口を口元に運ぶユンが笑った。
「続きを知っている筈だろう。…闇の夜は遊郭ばかり」
 同じ調子で続きを促すユンの歌う歌は彼の推測通り、ロゼも知っているものだ。あの人に教えてもらったもので忘れたものなど一つも無い。しかし、あえてこの文句をここで切るのは何かの悪戯か?――――視線が刹那、彷徨う。乾きかけた薄桃の唇が開いて、閉じて。結局、開いた。
「月夜かな」
 恥にならない程度に気を張った声音が大気を伝い、心地よくユンの耳を撫でる。綺麗に平らげた食器を整えながら満足げに目を閉じ、猪口を煽って、最後の一注ぎ。

「まさに、今のお前だな」

 瞬間、かあ、とロゼの頬に血が昇った。馬鹿にされた、と。そう思ったのだ。
 あの人から習ったもののうち、あの歌はあまり好きにはなれなかった。闇の夜は、で切った歌ならば単純に遊郭の素晴らしさ、煌びやかさを歌ったものになるが、今のように切った場合は違う。正反対だ。つまりは、月明かりが照らしていても遊郭の遊女の身の上は闇である、と。勿論、そういった背景を持つ者もいる。しかし、誇りを持って遊女を張っている者には甚だ失礼な話だ!その手練手管を磨き、教養を磨き、表通りで高下駄履いて花魁道中を歩く花魁が、そんな惨めな誇りで張ってるわけじゃない。
 あの人もそうだった。あの人はそうだった。一度だけ歩いた花魁道中。きりりと前を見て、紅を塗った唇を引き結び、鈴の音に合わせ、砂利を鳴らして外八文字で歩く。後ろに引っ付いて歩いていた自分も見とれるくらい立派で、あまりに惚けていたから長柄傘を持ったフランチェスコが、転ばないかとひやひやした、と後で苦笑いをしていたのを覚えている。全てが終わった後に頬を染めて、緊張したね、と笑ったあの人の、たった一人の禿だったのが誇らしかった。たとえ、それが恥の上塗りなのだとしても、たった一人だけ。自分だけが彼の禿だったのがこの上なく誇らしかったのだ。――最後まで遊女の誇りを捨てずに花魁道中まで勤めきったあの人にそんな言葉を当て嵌める事なんて出来ない。無論、身体を売らないとはいえ、そこまで同情される程、自分も落ちぶれてはいない!
 ああ、畜生!自分はこの、悠々と酒を煽る男に馬鹿にされたのだ!!
 憤怒で紅潮した顔のまま勢いに任せて立ち上がったロゼは同時に腰を上げた男の瞳が刹那、見開いたのにも気付かない。
 悔しい事に、自分より背の高い男を睨みつけて、ロゼはしゅるる、と裾を擦った。構えも無く近づいてくる男の顔に一発食らわせてやろう、と袖に隠した拳を握り、射程距離に入った所でそのいけ好かない笑みを浮かべる顎を捉えるべく繰り出そうとして――――ぽん。

「は?」

 ぽんぽん。なでなで。何故だか頭に乗った暖かな重みに、力が抜けた。見上げれば、違う意味で頬に血が上る微笑みが見つめてくる。人を食ったようなそれでも、探るようなそれでもない、暖かな視線。哀れみですら無いそれはごうごう燃える火山をふっと吐息で消すようにロゼの中で燃え盛るものを吹き消した。
 急激に沸騰した頭を、呆気なく冷やされてしまったロゼは男の手に青い髪を乱されながら、繰り出し損ねた拳を握ったまま、罵り損ねた薄桃の唇を金魚のようにぱくぱくさせるばかり。――こんな事をされたのはあの人がしてくれた時以来だ!
「あ…ぅあ…あ、あ…っ」
 言葉の「こ」の字も碌に出てこない喉を叱咤しようにも頭の辞書が閉じてしまっていては気の利いた台詞の一つも出てこない。その間にも柔らかな体温が髪を撫で、梳いていく。
「そんな顔も出来るんだな。危うく惚れそうになった」
 それくらいに、先程までの烈火の炎を宿した彼の瞳は美しかったのだ。雰囲気を変えた気配に目を見張る先で、冷えた光が燃え盛る怒りに煌き、色を宿す瞬間。鋭利な弓矢の如き視線で射抜かれた刹那。あまりの気迫に肌があわだった。生きた彼の瞳はこれ程までに美しい。自分ですら、平然とした様子を装うので精一杯だ。これが他の者であれば、怖気付くか、或いはその鮮やかさに溺れてしまうかもしれない。
 高鳴る鼓動に上がりそうになる息を密かに整えて、するり、と髪を梳いていた手を頬に滑らせれば、大きな手に叩かれるとでも思っているのか、微かに震える華奢な身体。…恐ろしい顔をしている気は無いだけに、それ程までに恐がられると些か胸が痛むが、遊女が初会の客に手を上げようとした、という無礼を思えば、それも致し方が無いのだろう。しかし、無礼なのは彼の思いを取り違えていたらしいこちらの方だ。
 優しく言葉を紡ぐユンの瞳に殊更、暖かな色が宿る。
「…怒ってはいない。寧ろ、怒らせたのはオレの方だ。あんな顔をしていたから、てっきり己の身の上を暗く見ているのだと思っていたが、そうではなかったようだな。オレの見当違いだった」
 すまない。柔らかく頬を撫でて、吹き込むように囁く彼の声音が近い。名前を呼ぼうとして開いた唇が、知らない名前を呼べなくて閉じてしまうのがもどかしい。客に謝らなくてはならないのはこちらの方なのに、何故、彼が謝っているのか。それこそ惨めになってくる。何の為に怒っていたのか、有耶無耶になってしまいそうで、ロゼは気まずい思いで俯いた。
「……別に、あんたの所為じゃ、ない…」
 目を逸らしながら、言いたかった事と違う事が口から零れてくる。首を傾げた相手の指がそっと、流れてもいない涙を拭うように頬を辿るのはきっと、彼の気まぐれだ。くすぐったい。
 心持、安堵したような声音が耳を撫でるのですら、肩を竦めそうになって、ロゼは逃れるように首を捻った。聞こえるのは、微かな含み笑いと低い声。
「…そうか?なら、侘び代わりにでも別れ際にお前の言う事を一つ聞いてやろう」
「……なんだそれ」
 返せば、何が面白いのか、頬を撫でる褐色の指が苦笑で震えた。どうやらこの男は自分の些細な仕種が面白くて堪らないらしい。
「そう言うな。不満か?」
「別に」
 少し唇を尖らせて短く応える見目麗しい遊女は気の無い返事とは裏腹に、その白い細顎に指を掛けて唸り始める。つい、今し方、自分を怒らせた相手が頬に触れて、その滑らかな肌を楽しんでいる事など構いもしない。或いは、何の脈絡も無く訪れた奇妙な雰囲気に戸惑っているだけなのかもしれないが――――どうやら、彼は一つ集中すると周りが見えなくなる性質らしい。集中できるのは悪い事ではないが、その間の、この無防備さは如何なものか。これで良く貞操を守ってこれたものだとユンはまた苦笑を浮かべた。
 中々、興味深い遊女だと、思う。人形のような目から、気だるげな目に変わり、些細な言葉で烈火の炎を宿す。素の言葉は遊女にしてはぞんざいで無愛想。近づく気配に刃のような鋭利な気配を向け、けれど、こうして大人しく触れさせる事もある。…出会った事の無い種類の人種。それだけでも興味深いが、それ以上に彼が誇りを持ってこの職についているらしいというのがユンの興味をそそった。そうでなければあそこまで怒りに戦慄く事も無いだろう。それが、特定の誰かを基準にしているのか、遊郭全体を基準にしているのか、それはユンの知るところではないが。
 格子の中から遊里に胡乱な目を向けていながら、誇りを傷つける者には己の拳が腫れ上がる事も厭わない。この上ない矛盾に揺れる青い双眸が宿す危うい光は色香すら漂わせているのだと、当の本人は微塵も気付いていないに違いない。
 確認するように、うん、と小さく呟いたロゼが仄かに染めた頬を上げたのは、思考に耽るユンの手の熱がその滑らかな肌を温め終えた頃だった。
 切れ長に思えて、よくよく見れば、丸みのある双眸がユンの茜色の瞳を映す。覚悟を決めた風の唇が放った言葉に――――今度はユンが頭の辞書を閉じた。

「あんたの名前を教えてくれ」

 それでちゃらにしてやる。



ユンにロゼを怒らせて貰いたかったので言わせてみました。
ロゼは一応、遊女としてのプライドがあるので職を馬鹿にされると怒るわけです。特に、あんな思考でも姉女郎の事は信頼しているので、馬鹿にされたと思うと腹が立って仕方が無かったわけです。…結局はユンに絆されてしまいますがね。だって一応、この話はユンロゼ!(笑)
「闇の夜は遊郭ばかり月夜かな」は本当は「闇の夜は吉原ばかり月夜かな」です。都合により字数が同じ語に代えました。捉え方は同じですよー。

補足をさせて頂きますと、ロゼが「禿が一人なのが恥の上塗り」といったのは、禿は本来、二人一組だからです。片方が片方を監視する、という役目もあり、逃亡防止の為に必ず組にされていました。禿が多い、という事も花魁の凄さの一つで、財力その他をアピールする役割もありました。
つまり、姉女郎の、しかも太夫の禿が掟破りの一人だけ、というのは花魁道中で貧相さを見せびらかしているのと同じ事だったわけです。
ちなみに、長柄傘は若い衆が持つ事になっているので、フランチェスコが太夫とロゼと一緒に花魁道中を歩きました。

座敷の次はさあ、なんだ。あの人のお説教だ!(何)

2009/02/13