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 世の中、金が物を言う。

花牢 七、黄色の沢庵で簪は買えるか

「で?あんた、何て言ったんだって?」
 もう一回、言ってみて。右手に箸を、左手に白飯が山になった碗を持ったウルリカは、食事時でなければ耳かきで耳掃除をし直してから、目の前に座る彼に、もう一度初めから語れと言ったかも知れない。
 一度、失態を見た筈の客が再度、指名してくれるくらいには整った顔に呆れたような渋い表情を貼り付けて、昨夜と同じく眉間に皺を寄せた彼女のそこには、今度は花札が二枚くらい挟めそうだった。
「…だから、名前を教えろ、って…言った」
「くあーっ!!ばっかじゃないの!?あんたっ!!」
 久々にこちらがたじろぐ気迫で迫る彼女にもう何度目かになる、同じ言葉を返せば、もう何度目かになる同じ罵倒。
 箸の先を軽く噛みながら少し憮然とした表情で静かに答えるロゼと、答えられた途端に箸を逆手に持ち替えて握り、頭を抱えて叫び出すウルリカと、そんな二人を他人事のように観察しながら、ウルリカの皿の沢庵をくすねているクロエと。三者三様の様子で朝餉をつつく光景は珍しいものでは無かったが、常と違うのはウルリカが頭を抱えている理由だ。無論、ロゼに向けて叫び散らしているのだから、もそもそと味噌汁をすする彼が原因である事は特筆すべき事でも無い。
 朝餉の一品代わりにする話題は大体が前日のウルリカの失敗談かロゼの客が如何に浅学で下品であったのか。そんなものだ。この面子で色事話をする程、彼らは飢えていなかったし、そんな事にはさらさら興味が無かった。更に言うなら、そんな話など聞きたくなくとも耳が腐る程、聞けるこの街でわざわざ卓の上に引っ張り出そうとも思わない。…今朝も同じような話題が出るものだと思っていたが、どうやら少々違ったらしい。――――ウルリカの皿からくすねた二枚目の沢庵をぽりり、と齧ってクロエはそんな事を思っていた。
 隣でひとしきり、がなり立てたウルリカの箸先がびしりとロゼの鼻先に突きつけられる。
「『侘びに一つ言う事を聞いてやる』って言われて、なんで、名前を聞くのよ!そこは四の五の言わず『花をくれ』でしょ!?名前なんて腹の足しにもならないじゃない!!」
 勿体無い!!ああ、勿体無い勿体無い!!当事者でもないのに頭を抱えて惜しむ彼女は、それを鬱陶しく思うクロエが腹いせ代わりに味噌汁に七味を大量投入している事にも気付かない。
 一方、怒鳴られている方は、といえば、箸を噛んだまま、手付かずの白米を眺める始末。返す言葉も無いらしい。
 朝っぱらから騒ぎ立てている話の種は昨夜の客の事だったが、ロゼとて、自分が件の男相手に僅かにでも胸を高鳴らせた、などと馬鹿正直に語ったりはしなかった。言ったが最後、廓中に響く声音で見当違いな祝辞を述べられただろう。そんな小っ恥ずかしい体験を自ら進んでしたいとは思わない。彼は常の同じように朝餉の席についた彼女らに座敷に呼ばれた事、客の男に太夫の妹女郎だと知れた事、遊女を馬鹿にするような言葉に自分が怒りを覚えた事、その侘びに一つ言う事を聞いてやると言われた事、そして、自分が何を望んだのかを語った。その結果が、冒頭から続くウルリカの台詞である。
 ロゼにしてみれば何もおかしな事を望んだつもりは無かったが、後で考えれば、成る程、確かに遊女としては些かおかしかったかもしれない。あの場で望むなら、確かに名前より花…祝儀だろう。侘びついでにそこそこふんだくれたかもしれないと思いながら、けれど、それより名を所望した事に後悔は無い。寧ろ、花より良い物を貰ったと思う自分すらいる。
 一夜明けても忘れられない掌の温かさと耳障りの良い低い声音を思い出しながら、ロゼは味噌汁の湯気でそっと頬を温めた。視界の端で、クロエの箸がついにウルリカの最後の沢庵に伸びる。空になった皿に、侘び代わりのように盛り付けられた魚の骨はその実、嫌がらせに他ならないだろう。クロエにしてみれば可愛らしいものだが。
 はぁ、と大袈裟に吐き出された溜息に、ロゼの意識が沢庵を全てくすねられた可哀相なウルリカに向く。彼女はまだ気付いていないらしい。
「…終わった事をとやかく言うつもりはないわ…」
 それは沢庵の事だろうか。それとも味噌汁か。ちらりと青い瞳を傍らの焦げ茶に移せば、静かに目を閉じる彼女。応じて緩く瞬きをしたロゼは特にその事に触れる事無く、再びウルリカに目を向けた。――つまりは、黙っていろ、と。そういう事だ。卓に突っ伏しそうなウルリカが気付けば、それはそれは面白い事になるだろう。
 滲みそうな笑いを上手い具合にひっこめて、彼は朝から疲れ切ってしまった眩しい金色を視界に入れた。響きの良い声音が寝ぼけた頭を起こしてくれるのはありがたいが、あまり騒がしいのも如何なものか。毎日、そう思う頃に丁度、彼女の怒髪天もなりを潜めるから不思議だ。
「…それで?そいつ、何て名乗ったのよ?権兵衛とか助六とかじゃないんでしょ?」
 白米を一口頬張りながら如何にも鈍臭い名前を引っ張り出してくる彼女に思わず非難の視線を送ってしまいそうになったが、それも彼を知らないからこその彼女らしい表現だと思えば気にもならない。強引な客の股を毎度、蹴り上げて大騒ぎを起こす自分の所に、どんな座敷も放り出して、とどめの一撃を食らわせるべく飛んできてくれる友人の姿を思い起こしながら、ロゼは密かに笑った。騒ぎの後に何だかんだと愚痴を言いながら、それでも毎回、馬鹿丸出しの客に鮮やかな飛び蹴りを食らわせに来てくれる。結局は人が良いのだ。傍若無人な言動も愛嬌だと思えば付き合い方も覚えてくると思えるのは自分も少しは丸くなったからだろうか。
 ロゼは他の遊女であれば目くじら立てるような言葉も、少々頭の弱い彼女の精一杯の友好的な表現なのだと思う事にしていた。
 温くなった味噌汁を一口啜って、口を開く。
「ユン、と名乗っていたな。本名かは分らないが…悪い奴ではないと、思う」
 茜の色彩が印象的な男だった。軟派には見えないが、堅気でも無いだろう。どちらにしろ、この辺りで遊ぶような男には見えなかった。そうでなければ、初会の座敷で態々、遊女の気を殺ぐような真似はするまい。身体目当てとも違う。身体を売らない、と宣言した時、興味深い目をしたものの、侮蔑や落胆の色は微塵も無かった。――――ただの冷やかしついでの食事客。そう思うにもどこか割り切れなくて、一つ望みを聞いてくれるなら、と名前を聞き出した。たった一つの願い事をそんな些細な事に使ってしまった事に後悔は無いが、あの時のユンの顔を思い出すと、もう少し欲張ったものを希望して欲しかったのかもしれない、などと思ってしまう。
 愛想をつかされただろうか。ぽかんと肩透かしを食らったように口を開けていた男の顔を脳裏に呼び起こして、ロゼは小さく溜息をついた。
 仄かな色香すら漂うそれに再び渇を入れるのは、歩く活火山。
「っかー!馬鹿ねー!そういう男が狼なのよ!」
 あんたはうっかりしてるんだから、騙されちゃだめよ!そういう彼女も相当にうっかりだと思うのだが、以前、それを言った際、クロエに、頭が弱いのに先走っているだけだよ、と訂正されている。ウルリカが憤慨している陰で、密かに納得していた事は流石に、今になっても言えていなかった。
「ロゼは、また来てほしいと思ってるの?」
「え?俺か?…そうだな…」
 一粒残らず碗の中身を平らげて茶を啜るクロエがふいに投げた問いに、彼はまた箸先を噛んで俯く。
 嫌いでは、ないだろう。多分。好きかと問われれば、微妙な所。遊女という職に関しての認識の相違は否めない。交わした言葉は少ないが、彼はあまりこういった職を好いていないようだ。無論、万人が好色かといえば、そうではないのだから、ロゼとて人の価値観にどうこう言うつもりはない。言った所で所詮、自分も遊女。汚い仕事を肯定しようとしているだけだとしか見られないだろう。そこまでみっともない様を晒す程、安い誇りではないと自負している。だからこそ、あの歌が侮辱だと憤りに拳を握り、すかした面をお岩にしてやるとまで意気込んだ。
 その点で、自分とユンは相容れない、とロゼは踏んでいた。
 だが、単純に、彼にもう一度会いたいか、と問われれば、答えはまた微妙なものになる。…会いたくない訳ではないが、会いたいと思うには理由が足りないと、思う。勿論、理由が無ければ会ってはいけない、などという規則は無いのだから、会いたいと言っても別段、問題は無い。しかし、端的に会いたいと素直に言えるかといえば、それはまた別問題で。けれど、ふと気がつけば、何故か、明言を避けるように理由を探す自分がいて。それはつまり、理由があれば素直に会いたいと言えるという事で。仕舞いには、そんなのも悪くない、と思う始末で。
「……会いたい…のか?あいつに…?」
 行儀悪く箸を噛んだまま、奇妙な自答を呟いて小首を傾げたロゼが、そんな馬鹿な、と続けた言葉は、漸く自分の朝餉に起きた事件に気付いたウルリカの絶叫に掻き消されて誰の耳にも届かなかった。


クロウル再び。遊郭メンバーを書くのは楽しいです。
今回はロゼからみたユンですね。まだ曖昧な感情しか持てていないので首を傾げるばかりのロゼですが、動揺を誤魔化してみたり、ユンのことを悪く言うウルリカに少しだけ非難の情を持ってみたり…着実にラブラブメーター(死語)を上昇させているようです。
この後は暫く遊郭メンバーが続きます…。
ちなみに、今回の見所はウルリカの皿に魚の骨を盛り付けるクロエです(ぇ)

2009/03/12