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 昼間は消えていても、誰も構わないけれど。

花牢 八、行灯

 朝餉が終われば身だしなみを整えて、昼見世だ。野暮な冷やかしから単純な観光…客といえる客はそう多くは無いが、夜見世程ではないにしろ、やはり、いつでも盛る男というのはいるものである。陽の高いうちから、なんてそれこそ野暮な事を言う輩もこの遊里の中にはいる筈が無いのだから、朝帰りをし損ねた男が夜通し味わった蜜壷に昼から熱く滾った肉竿を扱かせているというのも少なくない。
 だが、眩しい陽光に目を細めながら廊下を歩くロゼにとって、そんなものは対岸の話である。身体を売らないロゼには朝帰りの男を後れ髪を整えながら見送る義務は無く、昼から延長の揚げ代を搾り取るべく、一夜を共にした居続けの客を磨きに磨いた腰技で繋ぎ止める必要も無い。夜見世に出て、夜食を食べて眠り、昼に起きて朝餉を食べる。娑婆の町人とほとんど変わらない生活周期で過ごす彼は低血圧に魘される事はあれど、寝不足に喘ぐ事も無く、至って健康体だ。
 ぼんやり自室に向けて素の足を進める彼の傍に大抵はいるはずの金色と茶色の彼女達は昼の座敷に呼ばれていて、ここにはいない。一人分の、ぺたぺたという足音が艶やかな板床に張り付いているだけだ。――――昼見世は既に始まっている。下階から聞こえる楽しげな笑い声が時間を告げているが、ロゼには関係のない事だった。
 何故かと問われれば簡単な事。姉女郎であった太夫もそうだったが、ロゼもまた、遣り手から昼見世には出るなと言われているからだ。陰間だからなのか、単にいびりたいからなのか。逐一、神経質な仕種で眼鏡を直す年増の顔色を伺う程、彼も肝が小さくは無い。寧ろ、この状態を諸手を挙げて喜んでいるのだから、ロゼをいびりたくて仕方の無い姉女郎達などから見れば、袖を噛む思いだろう。
 いくらお茶挽きと言われても、今の方針を変えるつもりは毛頭無い。暇な様子を笑うなら笑えばいい。誰彼構わず褥で踊る輩と同じにされては、こちらが迷惑だ。
 煩い下品な笑い声を早く意識から追い出したくて、漸く辿り着いた自室の戸を開け放ったロゼは、しかし、次の瞬間、綺麗に畳んだ筈の布団の上に、我が物顔で寝転がる桃色に顔を引き攣らせた。
「…なんでお前がここにいるんだ…エト…」
 折角、三つ折に畳んだ布団が二つ折りになっている。どれだけ布団の上で暴れたら三つ折が二つ折りになるのか…部屋の角に吹っ飛んだ枕と脚の折れた書き物机を見てしまえば、知る気も失せてしまう。大方、枕投げと称して、綿の塊である筈の枕を弾丸に変えて遊んだのだろう。
 どうやって机を直そうかと米神に指先をあてて溜息をついたロゼに、布団の上にごろりと仰向けになった彼女の、天真爛漫を形にしたような弁柄色の瞳がくるりと向いた。不満げな色を隠しもしない声音が狭い部屋に響く。
「えー、だって、エナがロゼんとこに遊びに行くって言うんだもん!エナだけずるいよー!!」
「馬鹿!遊びじゃねぇって言ってるだろうが!!修理だ、修理!!行灯の修理!」
 仕事だ!両手で布団を叩いて不平を叫んだエトを注意する前に、即座に訂正を入れたのは壁際に退けてある古びた明かりに向かって工具を握る彼女の弟だ。空色の髪が乱れるくらいに勢いよく姉を振り返り、同じ色の瞳を怒らせて罵声を浴びせる姿は到底、年上に対するそれではないが、それもここ数年で見慣れた姿だと割り切ってしまえば、ウルリカの言動と同じく、気にもならない。寧ろ、そうやって姉の暴走癖を少しでも諫めようと努力――しているかどうかは定かではないが――している姿は事ある毎に彼女の起こす騒動に巻き込まれそうになるロゼにとっては喜ばしい事だった。
 豆ほどは小さくない筈の彼を見過ごしてしまったのは沸いて出たエトと壊れてしまった机が衝撃的すぎた所為だろう。――ロゼは己のささやかな失態を密かに彼の姉と机の所為にした。
 しかし、修理、か。確かに部屋の明かりが不調を訴えていたのをエナに伝えた記憶はある。それも、確か、二日程前に。
 錬金技師である彼の腕が齢十二にして熟練の職人に匹敵する程、優れているのは遊里でちょっとした噂になるくらいには有名な話だ。娑婆で工房を開く父には遠く及ばない、とその技術において謙遜するエナは修行中の身でありながら、アルレビスを煌びやかに照らす明かりから台所器具、設備全般の整備をそつなくこなす裏方の貴重な戦力の一人となっていた。
 そのエナが、こんなに早く自分の所の、しかも、たかが古びた行灯を直しに来てくれるとは。
「忙しいんじゃないのか?確か…昨日、座敷の明かりが壊れたと聞いたが…」
「別に、あんな十数個のうちの一つが切れたって、酔っ払った客は気付きもしねぇよ」
 何でもない事のように吐き捨てるエナの言う事は確かだと納得しながら、後で遣り手にどやされないかと些か心配にもなる。ここは楼主が無能な分、遣り手が幅を利かせて、実質、遊郭全体を仕切っている。だが、再度、控えめに聞いてみても、彼は他がやるだろう、と切り捨てて行灯に向かうばかり。たかが電球一個に腰を上げるつもりは無いらしい、とロゼはそこで思考を切り替えた。
 この遊里の明かりは蝋燭ではない。錬金術によって作られた特殊な明かりである。蝋燭に比べれば勿論、高価ではあるが、燃費は遥かに良い。使っているのはこの遊里に軒を連ねる妓楼か、或いは娑婆の貴族か商家。要は金持ちの類だ。ロゼもここに来るまではもう懐かしい存在となってしまった友人がこっそり持って来てくれた、闇を照らす綺麗な石くらいしか見た事がなかった。それがこの遊里には何千、何万と煌いているのだから、初めて見た時はあまりの美しさに瞬きも忘れて見入ってしまったものだ。値段など数えるだけで眩暈がする。
 布団部屋を少し綺麗にしただけのようなロゼの部屋にある、たった一つの行灯につけられているのも、その高価な明かりだった。もう何年も使っている所為か、直しても直してもすぐに明かりが弱くなってしまうが、いくら弱くなろうと狭い部屋を照らすには十分すぎる程輝いてくれるから、買い換えるつもりなど毛頭無いし、そんな金も無い。しかし、この頃は、本当に、どうにも、調子が悪かった。思い入れのある行灯だ。まだ寿命を迎えて欲しくは無いのだが…。
「前に直したのは一週間前だった筈なんだが…また弱くなってな…。何度も、悪い」
侘びを入れるも、返事は無い。親譲りなのか、根っからの職人気質であるエナは機械に向かえば生返事すら返さない事も多かったから、今更、どうこう思うことも無い。行灯は彼に任せておけば大丈夫だろう。寧ろ、彼の仕事の邪魔をするより、姉の暴走をどうにかするべきだ。
 簡素な紺の着物の背を丸めて行灯を覗き込むまだ小さな未来の一流職人を一瞥して、今度はごろごろと布団を潰す姉の方へ視線を向けた。
「で、お前は何でこんな所にいるんだ?昼の座敷はどうした」
 ごろごろごろー。擬音まで口から零して転がる様は到底、同い年とは思えないが、身体の大きさは紛れも無く同い年。精神年齢だけなら彼女の弟より低いだろうエトは一応、ウルリカ達と同じ、芸妓という役職があるはずだ。芸妓には昼も夜も無い。事実、ウルリカとクロエは今も座敷に出ているし、朝餉の席では昼見世が終わるまで仕事が入っていると言っていた。床入りが無いからといって芸妓が楽な訳でもない。では、何故、楽な訳でもない芸妓のエトがこんな妓楼の隅っこの、あまり日当たりも良くない小部屋に転がっているのか。
 当の彼女から答えを聞く前に何となく予想がついてしまったロゼは肺の空気から何から全て口から吐き出して溜息をついた。ひくり、と微かに動いた米神を押さえると同時に、中身の無い卵の殻よりも軽い声音が飛ぶ。それはもう、天高く。
「えっへへー。もう帰って良いって言われたんだ〜!なんでか分かんないけど」
「その何でか分らない部分が重要なんだろうが…」
 掌を額に押し付けて項垂れるロゼにしてみれば、情け無い事この上ない。大方、持ち前の空気の読めなさで客に失礼な――本人はそう思っていないだろうが――事を言ったか、或いは、舞の扇子を手裏剣に変えたか、そんな所だろう。怒られて追い出された所で、行灯を直しに向かうエナを捕まえ、この場に至る、と。大筋はこれで間違いない筈だ。何度も繰り返された話なのだから十中八九、間違える訳が無い。全く、エナも大概、運が悪いものだ。
 ぶちぶちと脳裏で愚痴を言うものの、ロゼの部屋に彼の友人その他がこうして勝手に集う事は珍しくない。それどころか、日常茶飯事と言っても良い。ウルリカを筆頭に、クロエ、エト、エナ、果ては番頭のフランチェスコから用心棒のグンナルまで。フランチェスコは他ほど入り浸ってはいないが、気がつけばちゃっかり他の面子とここで茶を飲んでいる事もあるから侮れない。彼以外に至ってはロゼの在室云々など関係無く茶菓子を広げている事が多かったから、今更、戸を開けたら人がいたなどという些細な理由で目くじら立てるような事も無かった。それも、常識的か否か、という問題には目を瞑って、という一言がつく訳だが。ついでに言うなら、エトが居る時に部屋の物が壊れている事も、今更、どうこう言うようなものでもない。
 はぁ。また溜息をついて、それ程物の入っていない箪笥に背を預けた所で、今度はエナの面倒そうな声が響いた。
「そういや、夜見世が始まる前に遣り手が女郎を集めるって言ってたぜ」
「女郎を?珍しい事じゃないが…急だな」
 言えば、肩を竦めて、知るか、と表す。女郎を、と括ったと言う事は自分も出席しなければならないのだろう。
「めんどーだよねー。女郎だけじゃなくて妓楼の人の殆どを集めて話すんだって」
 ひっくり返ったままのエトは珍しく苦い顔まで見せている。彼女が弟と同じ表情を浮かべているのは至極珍しいが、内容が内容だ。ロゼとて苦虫を噛み潰したくなる。
「話す事は決まってるだろ」
「わかってるけど、重いよねー」
 エトの言葉に、ロゼは今度こそ渋い顔をした。
「しょうがないだろう。もう三年経つ。これ以上、太夫の座を空けておく訳にもいかない上に、格子に花魁道中をさせ続けるのも妓楼の恥だ」
 目を落とした袖の下で、ぎゅう、と手が血を止めるのを感じる。
「もう、三年経つんだ」
 目を閉じた太夫の妹女郎の、己に言い聞かせるような言葉を聞きながら、姉弟は刹那、目線を交わして――――直後、姉が豪快に書机の脚をもう一本折った。

「!お、まえ!!何すんだ!!」
「だって、ロゼがしょぼくれてるから元気付けてあげようと思って!はい!あげる!」
「いらん!そもそもそれは俺の机の脚だ!」


久しぶりの花牢はダイスラー姉弟とロゼのターンでした。
ダイスラー姉弟は書きやすくて楽しかったですね…とくに姉が!(笑)癒しだよ、書き手の癒しだよ!!(何)
ロゼのお部屋は姉女郎の部屋をそのまま使っていたりします。なので、馴染みの人がよく溜り場に使っていたりするわけです。茶菓子と茶を持参したり、後は勝手にロゼの棚をひっくり返して漁ってみたり。そうやってロゼのお茶菓子が知らない間に減っていたりするわけです(ぇえ)
最後のエトの行為はダイスラー姉弟(主に姉)なりの元気付け表現です(真顔)
次は実は黒そうなあの人のターン…。

2009/06/05