それは仮定じゃない。
例えば、その日が来るとして
久しぶりに訪れたヴェーレンドルフ家で出迎えてくれたのは相変わらず宙に浮いたような雰囲気を醸し出すウィムだった。
通された部屋――客間ではないのは、この屋敷で過ごした時間が形式ばった部屋に通すにしては長いからだろう――で、さあさあ掛けて下さい、なんて言われれば、まるであの頃に戻ったかのようなくすぐったさが胸の奥をふるりと震わせる。
年季の入ったテーブルに置かれた、以前は見慣れていたカップに注がれる琥珀色から立ち昇る湯気の向こうを、新たな景色を見るような気でいるのは恐らくこの家を離れていた時間がそれだけ長かったという事だろう。
記憶から薄れさせるにはあまりに充実しすぎた時間を過ごした学園から卒業してのち、ユンの下へ居を移したロゼはリリアからの願い――あれは脅迫ですらあったと思うが――もあり、定期的に手紙くらいは送っていたものの、屋敷を訪れる事は殆ど無かったといっていい。手紙ですら、手紙と呼べるか怪しいもので、コロナには報告書だとまで言われている始末。目を通させたユンは何がおかしいのか、と首を傾げていたが、彼の感覚は人間とは少々、ずれている感が否めない為、参考にはなりそうにも無い。
喉を滑り落ちて行く琥珀の暖かさを感じながら言えば、ウィムは、ユンさんは相変わらずですね、と相槌を打ち、それから、柔らかに微笑んで、こう言って見せた。
「ロゼさん、今日はそういう事を話に来たんじゃないですよね」
紅茶が、おかしな所に入るんじゃないかと思った。痙攣と硬直を連続させた喉は辛うじて水分を食道へ流してくれたが、ロゼはそれに安堵するよりも目の前のメイドのふりをした存在を、感情を露わにした双眸で眺めるのに必死だ。それは彼がどうしても切り出せなかったもので、しかし、彼女が知るはずの無い事。接触が多かったなら話は別だが、ここ数年は接触どころか声すら聞いていない。
刹那、詰めた息を彼はゆっくりと飲み込んだ。
「……なんでわかった?」
「マナの勘、ですかね。もう長い時間を生きていますから」
マナの、勘。通常、人のように振舞う彼女があえて「マナの」と明確な種族の相違を突きつけてきたのは、ロゼの胸中を知っての事だろう。人間と思うには少々整いすぎた彼女の面には常よりもいくらか柔らかな微笑が浮かび、暗褐色に彩られた昔日を思い出すようなそれは彼女が人とは違う時間の中で生きてきた事を如実に表わしていた。
小さな音で時を刻む秒針が漸く半周する頃、視線を彷徨わせていた彼の口から零れた決して軽くは無い溜息が白い湯気を乱す様を一瞥したウィムの青い瞳がそっと目蓋に隠される。
「例えば、」
それは、とても懐かしい問い。そして、それはとても残酷な。
「例えば、お嬢様がいなくなる日が来るとして、お前はどうする?」
誰かがいなくなる日。声音の重さから察するに、どこかへ行くだとか、どこかへ嫁ぐだとか、そういったものではないだろう。無論、言葉の指すところを正確に捉えているウィムがそんな寄り道めいた思考の迷路を気まぐれに彷徨う事はないけれど、それは反対にウィム自身がその問い自体を過去に知っている事の証明でもあった。
あえて付け加えられた、例えば、という前置きが必要無いくらいそれは人間にとって常識的な事だと彼女は認識している。同時に避けられない事である事も。
悠久に近い時間を生き続けるマナには人間の生きる時間など雨粒が大地に落ちるより一瞬の事だと彼女にしては白状な事を思いながら、その思考こそが自分と彼らとの種族の違いなのだと胸中で苦く笑みを零した。
誰かがいなくなる日。人間の死という運命の終点。永い時を生き続けるマナには通過点でしかなく、短い時を生き抜いた人間にはアンコールの無い舞台に幕を降ろす時。
「お嬢様がいなくなる日、ですか…そうですね」
契約者が変わってからこの質問に答えるのは初めてだった。しかも、相手は契約者ではなく、その元従者であり、今は火のマナの恋人。
振り返れば、彼の経歴はなんておかしなものだろう。彼がこの屋敷に初めて来た時もマナが関わっていて、時を経た後もマナに関わり、今、この場で問う事にさえマナが関わっているのに、彼自身は生まれたばかりのマナですらない。それなのに巡り会ってしまった可哀相な人間と可哀相な火のマナ。そう思えど、自分に口を出す権利などある筈も無い。今更どうこう出来る程、彼らの関係も浅いものではなくなってしまった。きっと、火のマナは気付いているのだろうに、こんな所ばかりが器用じゃない。ただ、言い出せないだけかもしれないが、彼を宙に浮いたような不安定な状態に置くよりもいっそ明確に違いを見せてやれば良いのではないかと思う。
こぽり。何時の間にか空になった彼のティーカップに紅茶を注いで、ウィムは今し方思った事を胸の奥に仕舞った。それは「今」から「未来」を見詰めようとする彼らへの侮辱だと気付いたからだ。答えを出すのは彼らで、自分ではない。
少し唸って答えを探すふりをする彼女を、ロゼは遠い目で見つめていた。――――彼らは同じだ。属性が違うだけで、ウィムもユンもマナという存在である事は、同じだ。生きる時間も、この先、生きて行くのだろう時間も同じで、けれど、ユンの中に居る筈のロゼという存在だけが同じものになれない。もしも、「その時」が来るとして、それはユンにすればこれまでと同じ事なのだろう。ユンに関わりがある人間が死に、ユンだけが何も変わらない世界の中を生きて行く。これまでどれだけの人間と会い、どれだけの人間と別れたのかロゼには分らないが、自分もその数多の一人でしかないのだとすれば、今がとても色褪せて見えた。
だから、訊きに来たのだ。同じマナで、同じように長年、契約者を持ってきた彼女に。返る言葉が、望むものである保障はどこにも無かったけれど。
緩く瞬きをして、また遠くを見詰めるように微笑む彼女の唇が紡ぐ言葉に耳を傾けた。
「そうですね、お嬢様がいなくなる日は、きっといつものように笑って見送ります」
「…笑って?」
「はい」
優しく笑む彼女の目には、何が映っているのだろうか。今までの契約者の眠りの時か、或いは、これからの眠りか。
「笑って『おやすみなさい、また明日』って言うんです」
また、明日。無意味な未来への継続の言葉は、ティーカップの縁を指で辿るロゼには空虚なもののように思える。密かに眉を顰めたロゼを一瞥して、ウィムは再度、虚空を見詰めた。
「次の日には、お葬式があって、私はまた違う方…ヴェーレンドルフ家のどなたかと契約をするでしょう。いろんな事を言われて、いろんな事を見て、私たちは生きている時間を紡いでいくでしょう。そしてまた、『また明日』という日が来るんです」
それは史実を語るに近いものだ。手順を追うようなそれは機械的な響きで胸を抉り、俯いた彼の視界で茶褐色の液体が小さな震えに漣を立てて戦慄く。それをまた、ちらりと一瞥する彼女は、自分も相当意地が悪いのかもしれない、と自嘲するが、避けられないものから目を背けても耐えられなくなるだけだ。――――けれど、でも、きっと、彼らは違う方法を探そうとするから。そして、それは「別れ」ではないかもしれない。
ちこちこと途切れない時計の秒針がいつか途切れる心音を奏でるように僅かな沈黙を繋ぐ。
「ですが、どれだけ『また明日』と言っても、明日は来ません。同じ明日なんか、二度と来ないんです。あの人がいた昨日と、いない明日は違うもので、けれど、私の中にだけあの人いる。そんな『明日』。忘れずにいる事で、きっと私は、正気を保とうとしているのかもしれません。空を見て、ゆっくりと思い出にするしかない人に、今日も綺麗な青空ですね、って言い続けている。…自分の為の、『また明日』なんです」
錯覚に似た感覚で故人と明日を迎えるなど、正気の沙汰ではないだろう。わかっていてもそうありたいと願うのは永く永く生きる者程、やがて相手に訪れるそれを恐れているからだ。
いつかいなくなる日が来る。なんて恐ろしい事。それでも時は流れ、自分たちは同じものになりでもしない限り、それに抗う術を持たないのだ。
「だから、私はお嬢様がいなくなる日が来ても、特別な事はしません。ただ笑って、『おやすみなさい、また明日』を言います。私の為に」
さようなら、と言うにはあまりにその言葉の刃が鋭すぎるのだと、今度は視線をあわせて微笑んだ彼女に、ロゼは何時の間にか肩に入っていた力を詰めた息と共に抜いた。温くなった紅茶の温度が、暖められた陶器から指先にじわりと滲む。返す言葉は、生返事に近いものだったかもしれない。
「……そう、か…」
「はい」
何を返すでもなく、そう返したロゼに、ウィムは、ああ、でも、と声を上げた。逸れた視線がまた合うかと思えば、予想に反してそれは逸らされ、窓の外に広がる空を眺めて伏せられた長い睫毛がそっと震える。微笑みは浮かべたまま。
「ユンさんはどうかわかりませんね。契約者を失うのと、恋人を失うのとでは違いますから」
遠くを見詰めた青い瞳はその先に何を見ていたのか、ロゼには知る術が無い。昔日の熱に焦がされた胸の痛みに少しだけ湖面の青を揺らめかせる彼女が見ていたものは何だったのか。聞く事は無粋なような気もしたが、それはとても自分に近い感情のような気がして、押し殺した胸の奥底を侵食していた痛みが共鳴するように途端に全身を重くさせる。――――耐えられない。自分ですらこの様なのに、繰り返す喪失に胸を抉られ続ける彼女の痛みはどれ程だろう。
数瞬の躊躇いを見せて、けれど、結局開いた唇に、冷めた紅茶のポットに手をかけたままのマナは何を思ったのか。
「…お前には、そういう奴がいたのか?」
問いへの答えは、切なく返された微笑だけで十分だった。
偶に、こういった少々鬱なものを書いてみたくなるのは字書きの性でしょうか。巷でよく見る寿命についての云々。
ウィムさんもマナで長い事人間と接しているので、別れについてはそこそこ想い、というか、考えがあるんじゃないかと思います。接している時間が楽しい分、別れはつらいですし、けれど、それを追いかけられない自分がいる訳で。長い時間、変わらないままで生き続けるのは辛いんじゃないかと思う訳です。目の前で相手が老いていくのも見ていなければならないですし。
対するロゼは自分が死んだ後のユンについて色んな意味で不安を覚えていたり。自分も辛いけども、置いていかれた過去があるので、置いていかれる人の気持ちを理解しているんじゃないかと。
この会話を隠れて聞いていたリリアお嬢様の話とかも書いたら楽しそうですね(ぇ)
2009/11/26 |