mono   image
 Back

 それは決して言葉にしてはならない最期の贈り物。

例えば、その日が来たのなら

「話は終わったのかしら?」
 結局、それから話らしい話をする事も無いまま、恋人の――あれは最早、家族の域だと思うが――待つ場所へと帰っていくロゼを、その背中が見えなくなるまで見送ったウィムは背後で紡がれた声音に短く、はい、とだけ応える。
 突如として掛けられた声にも関わらず、彼女に驚く素振りが見られないのは彼女の現在の主が会話の最中から今に至るまで黒子のように戸口に身を潜めていたのに気付いていたからだ。飛び出したいのを堪えて耳を澄ませていた主の気配は相変わらず可愛らしいものだった、と思い返しながら、声に振り返る事無く、ロゼの姿が消えた後の景色を映す瞳を細める。
「悩んでおいででした」
「知ってるわよ」
 でなきゃ、貴方にどんな用事があるっていうのよ。少しのいらつきを滲ませるのは嫉妬少しと心配大半、と言ったところか。ウィムはリリアに気付かれないように小さく笑みを零した。
 いつまでも素直になれない主がロゼの溜め込み癖を直し切れなかった事を今でも悔しく思っているのをウィムは知っている。ロゼが屋敷を出る際にしつこく手紙のやりとりを迫ったのもその対策のひとつだ。感情をあまり表に出さない癖に溜め込み過ぎておかしな発想に走る彼を守ってくれるだろう存在が出来たとはいえ、その存在自体が原因になれば話は振り出しどころか最悪の展開になりかねない。自分達にそれを話してくれるかどうかは別にしても、彼を「話がしやすい環境」に置いてやる事は必須条件だった。
「相変わらずなのね」
 ため息をつきながら斜陽に煌く豪奢な金髪をかき上げる。
「覚悟をしてなかった訳じゃないでしょうに。私の従者だった癖にどうしてあんなに後ろ向きなのよ…」
 言いながら、それでも語調を強められないのは似たような立場にいるからだ。彼等のような意味で親密ではないけれど、それでも、自分とウィムの関係は通常の契約者とマナの関係とは少々度合いが違うのではないかとリリアは自負している。物心つく前から一緒にいたという事を差し引いても、二人でかかれば出来ない事など無いと思えるくらいには息は合っていると思うし、そもそもリリアの辞書に不可能という字を探す事自体が不可能な事なのだ。片割れと言って差し支えないウィムもそれを後押ししてくれる。――――それが別たれるという事は無い。そう、信じたい。だが、ウィム自身がロゼとの会話で言い切ったように、リリアもいつかはウィムの「思い出」になる。それも仕方が無いと割り切れるかといえば、リリア個人の答えは世界の理が望むものにはなれないのだ。それとも、それすら受け入れる日が来るのだろうか。
 ふと、背を向けるウィムの存在を遠くに感じた気がしたのは、恐らく、自らの死の瞬間を思い描いたからかもしれない。それくらいに、静かな沈黙だった。
「…変えられないものですからね。悩んで、受け入れるしかないんです」
「そうかしら?」
「そうですよ」
 目に映る空。黄昏も少し過ぎた頃の空が少しずつ橙から紫へと変わるのを人の一生に喩えるならば、自分達は今、どこにいるのだろう。きっと自分が正午前なら、ウィムはまだ朝陽の近くにいるのかもしれない。そして、自分が夜の帳に瞼を下ろす時には、まだ朝霧の中を歩いているのだ。
 頭ではわかっている。彼女の言う通り、悩んで、受け入れるしかない。そういう点では、自分はロゼよりもその事実を受け入れていると思う。けれど、
「違うわね」
「え?」
 違うわ。もう一度、同じ言葉を辿ったリリアに振り向いたウィムの青い瞳が捉えたのは主の強い双眸ではなく、背を向けた彼女の眩しい金色。
 顔を見られる事を拒否したのか、ただ、室内に戻ろうと踵を返しただけなのか。背を向けたまま歩を進ませることの無い主の真意はおそらく前者だろうとマナは理解した。それが、人間のどういう感情なのか理解する事までは、あえてしなかったが、続く主の言葉は何となく理解出来ていた。
 耳に心地いい、強い意思の声音。
「受け入れているから、悩むのよ」
 いつか、この金色を整える朝が来なくなる。それは違える事の無い未来の話で。
 いつか、この水色に起こされる朝が来なくなる。それも違える事の無い未来の話で。
 やがて来るものは受け入れるしかない。わかっているからこそ、悩むのだ。それを変える方法が見つからないから。それを変える方法が見つかるかもしれないと縋るから。受け入れて、理解して、だからこそ、足掻く。そうして、全ての手札が無くなった時、目を閉じ、耳を塞いで泣くのだろう。
 リリアがロゼと違う箇所があるとすれば、それは彼女が長いヴェーレンドルフ家の歴史の中から学んだ知識としての理解を受け入れ、且つ、「受け入れている」という事実を客観的に認識する形で胸に沈めた上で足掻くのを止めている事だ。
 繰り返してきた歴史が無い分、ロゼにはリリアが行っているそれ自体が理解し難いものかもしれない。
「…あの…お嬢様…」
「ウィム」
 ふわりと風に撫でられた金髪を眺めながら開いたマナの口を、主は彼女の名前を鋭く呼ぶ事で閉じさせた。
 例えば、自分が老衰か病で死んで、悲しみに咽び泣く沢山の人に囲まれた、それはそれは立派なお葬式が終わって、魂の抜けた冷たいだけの器が芸術的な墓石の下に埋められ、その次の日には自分の隣にいたはずの彼女が同じ血を継ぐ違う誰かの隣に立つとして――――けれど、それは結局、不確定な未来の話。まだ今日すら終わっていない時に考えるのは無意味だと思いながら、リリアは少しだけ震える身体を夜風の所為にした。
「余計な事を考えるんじゃないわよ。少なくとも今は、私のマナなんだから。でも、そうね…」
 背を向けたまま腕を組み、まだ若い主は虚空を見上げて考える仕草を見せる。背後で立ち尽くしたままのマナを見ないまま、そうね、ともう一度唱えた高い声音が耳朶を撫でたのは、風に囁く木々がふいに口を噤む頃。
「私が死ぬ時には部屋に薄雪草を二輪、飾って頂戴。一輪は私の棺に、もう一輪は貴方にあげるわ」
 いっそ素っ気無い程の硬い口調で言い置いて、屋敷の中へ消えて行く金色の軌跡を遅れて追いかけたウィムは少しだけ滲んだ視界に気付かないふりをした。

 ――――願わくは、その日が少しでも遅く来ますように。


前作の続きです。ロゼとの話を聞いていたリリア様とロゼとの話を終えたウィムさんの話。この二人の話はいつか書いて見たいもののひとつだったのでこの機会に書いてみました。
何だかんだ仲が良いだけにユンロゼとはまた違った別れの辛さがあるんじゃないかと思う訳です。けれども、由緒あるヴェーレンドルフ家の者であるお嬢様は繰り返されてきたものを理解している部分があるような気もする訳で。そこがロゼと違うんじゃないかと。
最後の薄雪草は所謂エーデルワイスの事です。花言葉はいくつかありますが、そのひとつが「大切な思い出」。最後に贈るのに相応しいかといえば、賛否両論でしょうね。

2009/12/17