※夫ユン、妻ロゼ、娘コロナのED後家族設定です。
「ゆん、さいてーよ」
それは娘に言われた一言から始まった。
ホワイトデー協奏曲
「さいてーだわ」
はぁ。なんて、如何にも重々しい溜め息を眼前でつかれれば、また何か至らなかったのかとユンの心拍数は鰻上りに跳ね上がった。
お手上げだとでも言うように小さな手のひらを天に向けて肩を竦める娘の姿は到底、幼児に見えないが、事実、大人顔負けの発言をしてくれるものだから、馬鹿にも出来ない。
「はぁー…ほんとうに、さいてーね」
今度はふんぞり返って目まで閉じられた。見てもいられないという事か。
朝、起床してからこの昼の時間帯に至るまでを思い返してみるが、全くもって彼女の気分を損ねる――これは損ねるというよりも呆れさせている――ような事があったとは思えない。朝の挨拶は妻にも娘にもしたし、朝食の後片付けも手伝った。決して妻子をないがしろにしているような事は無かったはずだ。
しかし、今目の前に広がる光景はどうだろう。
久しぶりに仕事を入れていなかった今日はいつもより随分とゆったりとした時が流れていて、柔らかな日差しの差し込む窓辺で少しばかり和んでいた矢先に、コロナからの最低発言。殊、娘と妻の事に関しては寛容さと大人の威厳が激減するユンだ。冷や汗をかかないわけが無かった。
最低。高さ、位置、程度などが一番低いこと。又は、物事の状態などがもっとも望ましくないこと。極めて質の劣ること。また、そのさま。今の状況に当てはめるなら、確実に前者ではあり得ない。
ユンは早鐘どころか銅鑼を鳴らして血液を巡らせる心臓――マナにおいては「そういった感覚」という程度だが――を抑えて今一度、今日という日の数時間を振り返った。
今日は先月の中ごろから色々と立て込んでいた仕事が漸く一段落して、ロゼと共に休もうと決めていた日だ。起床時間こそいつも通りだったが、その後の時間の緩やかさといったら、仕事日の比ではない。久々にゆっくりと朝食をとり、大根を引き抜くのを手伝ってくれと飛び込んできた隣の山田さんを少し手伝った以外はユンにしては珍しく、何も無い時間をすごしていた。引っかかることといえば、ロゼが心持、憂いを帯びた表情をしている事だろうか。気にはかかるが、下手につつくのも無粋な気がして見守るにとどめていた。――コロナが言っているのは、妻であるロゼの心情を汲んでやれていない、という事だろうか?いや、待て。先月中頃?その辺りで何かあった気がする。何だ?…そうだ。ロゼとコロナから、チョコを…。
「そろそろきづいたの?」
核心に近づきつつあるユンの思考を読み取ったのか、愛らしくも鋭い声音が飛ぶ。おそるおそる目を向ければ、仁王立ちの最強天使がとどめを刺した。
「ほわいとでー、終わったわよ」
わすれてたなんて、さいてーね。
直後、無言で悶えたユンに更に追い討ちをかける幼女は鼻息も荒くふんぞり返るだけだ。いじけたい盛りの幼子がここまで大人びた態度が取れるのはそれはそれで問題かもしれないが、自分の犯した過ちに悶える彼には正直、どうでも良い事だった。
まずい。非常にまずい。ほわいとでー。ホワイトデー。ホワイトデーだ!
「まずい!」
「そうね」
悲壮感に満ちた叫びに、あっさり返す高い声。温度差が実にシュールだ。エト辺りがいたなら場違いにも笑い転げたかもしれない。
大人の威厳云々も粉々に砕け散ったユンの正直、見るに耐えない苦悶の姿は日頃の有能さからはほど遠い光景だが、家族ゆえなのか、コロナが動じる様子は全く無かった。
この火のマナであり父親である男は乙女心に全くもって疎いのだ。例え、ロゼが男性だとしてもバレンタインに少しばかり頬を染めながら、まだお世辞にも包丁を扱いきれているとは言いがたい自分と共に甘い香りの満ちた台所に立っていたのを知っている身としては、彼が次の月にやってくるだろうホワイトデーを一ミクロン程も期待していなかったといえば嘘になる事くらいわかっている。だが、それをユンが理解していたかといえば、それはそこはかとなく怪しいもので、事実、目の前で頭を抱えて空を仰ぎ、世界の終わりのような顔で悶絶している父親は今の今まで頭の片隅にもそんな事は無かったに違いない。
ごそごそと小さな手でポケットを漁りながら、溜め息をまた一つ。――嗚呼、何故、この父親はこんなにも…いや、これは娘として言ってはいけない事だ。きっと。多分。おそらく。
うっかり脳裏で零れそうになった暴言を意識の底に沈めて、代わりのように、悶絶する暇があるならロゼのもとへ飛んでいけばいいのに、と思うのに、振り返った悲痛な、否、悲惨な顔の父は小さな小さな娘の肩を掴んで揺すって縋って来るのだ。――嗚呼、情けない。
「ころなぁあああああ!どどどどどうしたらいい!?ロ、ロゼは怒って…」
「さっきおやくしょにいったわよ」
「離婚か!」
待ってくれ、ロゼ!早まるな!娘相手に言われても、本人に言わなければ意味が無いだろうに。寧ろ、お前が早まるな。そう思いながら、半眼になるコロナの肩を掴む手はそれでも離れない。
「はぁ」
溜め息。どうしてこのば…いや、少し間抜けな父は縋る相手が違うと気づかないのだろう。そろそろ助けてやるのを止めようかと考え始めたその時、暫く漁り続けていたポケットの中で小さな指先が漸くそれを捕らえた。
あげようか、やめようか、刹那、逡巡して――――結局、自分もこの父に甘いのだと苦笑が漏れる。
「ほら、これあげるから、なかなおりしてきなさいよ」
ごそり。小さな手に包まれてポケットから現れた宝石のような飴玉に、父が涙ぐんで娘を抱きしめたのは言うまでもない。
ところで、わたしがほわいとでーあげたなんていわないでよね!
………本当ーにすみません。放置しまくった挙句の大遅刻ホワイトデー。家族SSはどうしてこんなに和むんですかね…至極楽しかったですがね!(反省してないよ、コイツ!)
ユンは家族の事となるとぼろぼろに崩壊するけど、大事なことはすっきり忘れて仕事に打ち込んでしまいそうなので、こういう事はあるんじゃないかと思うわけです。でも、そこは家族を大事にしたい妻子。広い心で対応してあげるわけです。…まあ、少しは家の中にブリザードが吹き荒れるでしょうけども…。妻が雪の女王になるたびに夫は娘に打開策を伺いに来るわけですよ。ご家族万歳!(ぇえ)
ちなみに、ロゼがお役所に行ったのはきっと離婚とは違う用事ですよ(笑)
2010/03/25 |