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 早朝。叩かれたドアを開けた先で、毛布を頭から被り、黒猫を両手で抱えた見知らぬ子供が泣きそうな顔で言った。

「助けて、ロクシしゅ!」

ミニマム!
 1.じこしょーかいをしましょう。


 嵐は突然やってくる。ドアノブに手をかけたまま、ロクシスは脳裏で呟く。
 まどろんでいた所を控えめなノックで叩き起こされ、厭味の一つでも言ってやろうとドアを開ければ、見知らぬ子供が佇んでいた。十七年程の自分の人生の中でこんな自分の膝丈程しかないような子供を持った記憶はない。無いが…どうやら相手は自分を知っているらしい。開口一番、舌足らずな言葉で名を呼んでいる。
 ではこの子供は誰なのか。ロクシスはもう一度じっくり上から下まで彼を眺めた。
 飛び跳ねてあまり纏まっているとは言い難い、柔らかな銀の髪。丸い大きな瞳は藍玉の青。肌は白く、ぷにぷにとした質感のある頬は仄かに桃色に色付いている。唇は桜の花弁のようだ。頭から被った白い毛布を引き摺って、ここまで来たのだろうが…その下はどうやら大きめのワイシャツしか着ていないらしい。冷たい床に立つ裸の足が裾から見える。
 ここまで見て、やはり子供に覚えは無い。だが、自他共に認める排他主義の自分の部屋に尋ねてくる物好きなど数える程だ。――嫌な予感がする。
 またじっくり眺めて…うっかり子供の腕に抱かれたその生き物と目が合ってしまった。眼鏡をかけ忘れた寝起きの一人と上半身だけしっかり抱かれて下半身が床を擦りそうに垂れている一匹。微妙な空気が流れたのは言うまでもない。
 子供の腕に潰さんばかりの勢いで、ぎゅう、と抱かれた黒い猫。――――決定打だ。そんな人物は一人しか知らない。
「…………ヴェイン、か…?」
 半信半疑。出来れば、夢か冗談であってほしい。だが、そんなロクシスの希望を余所に、子供は花のように可愛らしく笑った。
「うんっ!…よかった!しんじてくれないかとおもった…」
 ずるり。ずり落ちたのは肩を落としたロクシスだったのか、力の抜けた腕から床に落ちたサルファだったのか、若しくは両方か。

 眼鏡をかけようとかけまいと、多分、現実は変わらない。そんなものはきっと眼鏡を壊して新調しても変わらないんだろう。
「で、何があった?」
 簡素な褥の縁に腰かけ、小さな体――体温すら子供のそれに似て少し高いようだ――を膝に乗せて…何だかもう、驚くのも馬鹿馬鹿しくなってしまったロクシスの問いにヴェインはただ首を傾げた。
 くり、と丸い瞳が虚空を見る。
「んー。わかんない」
 このクソガキ。出かかった言葉をずれた眼鏡を直す事で飲み込む。
「…っ、わからないなりに何か無いのか?例えば、昨日何か食べたとか飲んだとか飲まされたとか」
 例えの部分が明らかに誰かを指しているが、彼女が常時、そういった雰囲気なのだから仕方ない。寧ろ、彼女ならやりそうだ。アトリエの仲間を疑うのは気が引けるが、原因の一つとして有力である事は確かである。
 今度は俯いて考え込んだヴェインの唸る声が聞こえる。暫く、唸って、彼はやっぱり首を振った。
「わかんない…昨日はふつーだったよ?」
「どんな風に?」
 返された問いに、また虚空に目をやったヴェインは昨日を振り返った。――昨日は本当に普通の日だったと思う。起床時も、探索時も、何の問題も無かった。夕食もアトリエの仲間達と食堂で摂った。ミチヨが何かを入れるとは到底思えない。食事を終えるまで自分が席を立つ事はなかったし、誰も席を立たなかった。その後も普通に入浴、就寝しただけ。…原因になりそうな出来事は全く以って無かったといっていい。
 むぅ。眉を寄せたヴェインの頬がぽってりと膨らむ。
「…ふつー…だよ…?何も無かったよ?ごはんも残さないで食べたよ?好き嫌いしなかったよ?」
 いやいや、そんな事を訊いているのではなくて。というか明らかに最後のは今回の事態に関係無い。まさか、頭まで多少、幼児化しているのではあるまいな?――項垂れそうになるのを必死に堪えて、ロクシスは質問を変えた。彼から自発的に原因を聞き出す事は不可能なようだ。では、こちらからそれらしい節を探し当てるしかない。
 ぱちくりと瞬きをする子供を真剣な目が捉える。
「探索時に毒を受けたとか」
 首が横に二回振られた。
「誰か知らない大人についていったとか」
 また横に二回。
「誰かから物を貰ったとか」
 また横に。
「落ちている物を拾って食べたとか」
「…ロクシしゅ…ぼくの事…なんだと思ってりゅの…?」
 青い瞳からこっそり目を逸らして一言。
「……すまん…」
 半眼で見つめてくる幼児の視線が痛い。口を滑らせて、幼児です、なんて言った日には小さいながら威力だけはありそうなフィニッシュバーストを食らいそうだ。だが、そもそも、その舌足らずな話し方がいけない。今はヴェインの身体が退化しているという深刻な状態の筈で、自分達は真面目な話をしている筈で…その悉くをぶち壊している全ての原因はヴェインの口調にある。とりあえず、それを矯正する事が先決だろう。そうでなければ、いつか本当にフィニッシュバーストを喰らいそうだ。――――ロクシスは身の安全の為に理不尽な責任転嫁をする事にした。
 軽くなってしまったヴェインの身体を抱えなおして、一息。ゆっくり言葉を紡ぐ。
「…ヴェイン、私の名を呼んでみろ」
 言えば、また瞬く瞳。小さくなってから瞬きが矢鱈多い気もするが…それも話は後だ。
「ふぇ?なんで…」
「いいから呼んでみろ」
 訳もわからず突然、話題を変えられたヴェインは、しかし首を傾げながらも持ち前の流されやすさで順応した。
 小さな口が開いて、指示通りにロクシスを呼ぶ。
「えっと……ロクシしゅっ」
 ロクシ、までは合っている。懸命に口を開けて呼んでいるのが些か不安だが、問題は最後の一文字。
「…もう一度、呼んでみろ」
 これで同じ結果なら、原因はそれだ。――不思議そうに見つめてくる子供に指を一本立てて彼はもう一度指示をした。程なく、また同じ要領で名を呼ばれる。
「…ぅん?…ロクシしゅっ?」
 決定打。これだ。脱力の原因はここにある。眼鏡を光らせて、彼は確信した。
 子供の舌があまり良く回らないのは仕方の無い事だが、これは訓練でどうにかなるものだと思う。何事も小さな頃から取り組まなければ身にならない。そうでなくとも、可愛い彼がこんな可愛い状態でこんな可愛い口調で外に出てみろ。…それは色々な意味で危ないと、思う。これは早めに矯正しなければならない。
 取り得の一つである良く回る頭で結論を弾き出したロクシスは小さな肩を掴んで顔を寄せた。
「いいか、ヴェイン」
「ふぇ?」
 気の抜けた返事に、もうこのままで良いか、と萎えそうになるのを堪える。深呼吸。
「…ヴェイン。私の名はロクシス、だ。決してロクシしゅ、ではない。しかも最後の一文字に必要以上に力を入れる必要はない」
 そう。「ロクシ」までは合っている。問題は最後の「しゅ」だ。幼子の舌は、ら行とさ行を言い辛い傾向にあるらしい。ロクシスの名を呼ぶ際、懸命に口を開けているのはその所為だろうが…悲しいかな、努力も虚しく最後の「ス」だけは全く言えていない。しかも無理に発音しようとして力が入りすぎている。この分では他の人名を呼ぶのも危ういだろう。
 良く呼ぶ名の中で自分の名は幼児には言いにくい方だとロクシスは思う。中でも、さ行が連続する後半二文字は中々、難関だ。
「もう一度、言ってみろ。ロクシス、だ」
 気分は教師。実に早すぎる。しかも幼稚園児並の指導内容。だが、なんとかしなければヴェインが危ない。
 あくまで真剣なロクシスの唇の動きをよくよく観察したヴェインの唇が続いて動いた。
「んっ、ロクシしゅっ」
 不合格。
「違う。ロクシス、だ」
 間髪入れずに訂正して、繰り返しを促す。小さな口がまた動いた。
「んーっ、…ロクしゅしゅっ!」
 合格から離れた。もう一度。
「違う。ロクシスだ」
「…ぅう…りょクシしゅっ」
 更に離れた。
「だから、ロクシス」
「ううーっ…ロク…ロ、りょきしゅしゅっ」
 もう誰だかわからない。何度も繰り返されるうちに、ヴェインの顔が悔しさで歪んでいく。そして、ついに…
「…んーっ!ロクシ、ちゅっ!!」
 がちん。――――噛んだ。
 咄嗟に口元を覆った小さな両手がぶるぶる震え、青い瞳がみるみる洪水を起こす。仄かに赤かった頬は痛みを堪えて、もう真っ赤だ。大粒の涙が辛うじて零れていないのは彼のちょっとしたプライドとその為の尋常ならざる努力の賜物だろう。
 それでもやがて限界は訪れる。いくら戦闘で前線に立っているとはいえ、今は子供。痛みには弱い。――嗚咽が漏れ始めた。
「う、んむ…ふっ、ひくっ…うぇ…」
「いや、うん、わかった。私が悪かった。そのままで良いから、泣くな。な?後でケーキを作ってやる。飴もやる」
 だから泣かないでくれ。しゃくりあげながら膝の上で全身を震わせるヴェインにロクシスは慌てた。怯える子猫のようにぶるぶる震えるものだから、自分が何か、とんでもない悪い事をしたような気がして…良心が滅多刺しにされている気分だ。
 だらだらと内心、冷や汗を垂らすロクシスにヴェインは必死に涙が零れるのを堪えて言った。
「…っうくっ…ふ……な、泣いてないもん」
 嘘付け。涙が零れていないだけでばっちり泣いているじゃないか。思いはすれど、口に出すなどと言う愚行は犯さない。そんな事をすればそれこそ身が危ない。子供の癇癪程、怖いものはないのだから。触らぬ神になんとやら。藪を棒でつつく趣味は無い。
 言葉を飲み込み、頤を指で捉えて上を向かせてやる。
「ああ、それも分かった。とにかく、口をあけてみろ。診てやる」
 言われて開いた小さな口を覗き込み、柔らかそうな粘膜の奥で丸まった舌を見つける。――可愛い。が、良く見えない。
「…舌を出せ」
 我ながらなんて要求だ。それでも傷が見えないのだから仕方が無い。綺麗に並んだ歯の小ささに驚嘆しながら思う。決して、やましい事をしている訳ではないのだから気負う必要など無いのだが…何だろうか。この非常に背徳的な気持ちは。
 思う内に、おずおずと目の前に差し出される小さな赤い舌。奥の、横の辺りが不自然に赤くなっているのは先程、噛んでしまったからだろう。血は滲んでいないものの、少し痛々しい色になってしまっている。これくらいならば薬は必要無い。暫く、食事が沁みるだろうが、自然治癒に任せる方が良いだろう。
 軽く診断を下して心中で安堵の息をついたロクシスは改めてヴェインを見つめた。
 小さくなってしまったものの、基本的な造作は全く変わらない。澄んだ青い双眸。差し込む月光よりも聡明な銀の髪。白い肌。淡く染まる頬は柔らかく、滑らかだ。薄紅を刷いたかのような瑞々しい唇から差し出された舌は空気に触れるのが痛いのか、ちろちろと蠢き、唾液に濡れてぬらりと光ってロクシスを誘う。
 この暖かそうな粘膜を犯す瞬間とはどんなに甘いものなのだろう。この膝にちょこんと乗った、ワイシャツ一枚の細い身体が縋って震える姿はどんなに可愛いものなのだろう。――――考えて、高速で首を振った。光の速さで否定をした。何を考えているんだ。相手は子供で、とても小さくて、いくらヴェインだからと言って、そんな事をして良い相手ではない!確かにこれが十六歳のヴェインならば、うっかり口付けもそれ以上もしたかもしれないが、今は幼児だ。道徳に反する!
 一通り胸中で騒いだ後、ロクシスは、こほん、と咳払いを一つして思考を締め括った。――――自重しよう、と。
 ヴェインの柔らかい頬に手を当てて何事も無かったかのように振舞う彼は珍しく役者だったかもしれない。
「…大した怪我ではないようだ。食事は多少、沁みるかもしれないが…」
 我慢しろ。そう言おうとした時だった。

「ロクシス!!時間を過ぎてもアトリエに来ないとは貴様、どういうつもりだ!」

 お世辞にも立付けが良いとは言えないドアが外れそうになる勢いで荒々しく開けられる。勿論、ノックなどというものがあるはずが無い。そんなものをこの永遠の自由人、グンナル・ダムに期待する方が間違っている。
 突然の乱入者に、褥に座った二人は固まった。乱入した彼も固まった。
 アトリエのリーダーを自負する彼にしてみれば、今日の事態は由々しきものだった。なにせ、時間に遅れた事の無い二人が全く来る気配がないのだから。仲が良いのは良い事だが、それとこれとは全く別事項だ。故にこうして呼びに来てやった訳だが…それがどうした事だろう。この事態は何なのだろう。さしものグンナルもこれは理解し難かった。
 ロクシスが居るのは良い。何故なら此処は彼の部屋だからだ。だが、その膝に座る銀髪の幼子は誰だろうか。確かに自分のアトリエには銀髪の者が居るには居る。しかし、間違ってもこんな幼児ではない。学園も証明する十六歳だ。ならば、この幼児は誰だ。白いワイシャツに包まれた身体でロクシスの膝に座り、彼に向かって涙目になりながら口を開け、あまつさえ無防備に雛の様な舌まで出している。ロクシスの手がその頬に添えられ、二人の間には花も咲かんばかりの暖かな雰囲気が漂っていた。…ように見える。
 そこまで観察して、目を見開いた正義の味方は声を上げた。

「稚児趣味か!」

「違います!!」
 
 手近の目覚まし時計が宙を飛ばなかったのは一重に相手が腐っても先輩だったからに他ならない。



ついにヤッてしまった幼児化。もう全部趣味の賜物(笑)果てしなく別人注意報。
何が楽しかったって、ヴェインの口調を矯正しようとするロクシスが楽しかったです。ええ。ヤツは無意味に超真剣です。そんで後でケーキだのなんだのをヴェインの前に並べてるとイイです。
1、とありますが…気が向いたら続きを書きます。というか書きます(おい)見切り発車なので結末は誰にもわかりません(ええ)
だって、二人がデキてる設定で書いたらなんだか犯罪になりそうなんだもの…(一応自重してる)

2007/10/09