御姫様は言いました。
――――ああ、どうしたことでしょう!あの方の言う事が私を狂わせてしまったの!
御姫様の御存知無い事
好きだと言われた。思いも掛けない人に。
彼は頭が良くて、そして、とても綺麗だ。長い金の髪は闇夜を照らし、星々を隠す金色の月に似て柔らかく、しかし、空を照らし、温もりを降らせる太陽の光とも思わせる程、美しい。鋭く切れた双眸は紅を帯びた、血色に届かぬ琥珀色。聡明さと怜悧さを備えた面立ちは見る者に息をつかせる。耳朶を撫でる落ち着いた声音が知識を並べ立てれば、最早、彼に敵う者など、いないかもしれない。
天は人に二物を与えないと言うが、それは嘘だとヴェインは思う。
彼は頭がとても良く、容姿も端整だ。けれど、とても優しい。古人の言うことが正しいなら、彼は燈る炎を忘れた暖炉のように心を失っていなければならない。周知の事実として、最初こそ嫌われていたが、それでも渋い顔をしながらレシピを考えてくれたり、文句を言いながらも採取にも一緒に来てくれた。学園に内緒で子猫の世話をしているのも知っている。今では真っ先に手を貸してくれる存在だ。だから、古人のそれは嘘だとヴェインは思う。彼はとても優しい。
好きだと言われた。――――ロクシス・ローゼンクライツに。
思い出して、また頬が熱くなる。恥ずかしい。誰も見ていないのに。逃げるように身を潜めながら、校舎裏の花壇の縁に座ったヴェインは熱の昇った頬を両手で包んで俯いた。
好きだと、言われた。…あのロクシスに!――事実だけを告げる、無意味な叫びが脳裏を支配している。湯気すら噴出しそうな頭はしゅうしゅうと沸いた薬缶のような蒸気の幻聴すら連れてきそうだ。もしも髪の一筋まで血管が通っていたなら、頭髪が真っ赤になっていたかもしれない。全身真っ赤で…ああ、想像するだけで恥ずかしい!
ぷるぷると振った頭が眩暈を起こして、今度は世界が回る。ヴェインの動揺は相当なものだった。何せ、生まれてこのかた、告白などされた事が無い。学園に来る前は猫と山奥で引きこもり生活。考える事と言えば、その日の気候と明日の気候と食事の事。そして申し訳程度の一般常識と、たまに錬金術――ゼップルが来る前はそれが錬金術であるという事すら知らなかったが――。しかも、告白してきたのがよりによって、ロクシスというのも良くない。ヴェインにとってのロクシスの位置は非常に微妙な所にあったからだ。
嫌い、ではないと思う。当然の事だ。彼を嫌いだと思った事など一度も無い。同じようにアトリエの仲間達も嫌った事は無い。好き、といわれれば、そうなんだろう。大変、信頼の置ける人達。嫌いだと思える筈も無い。だが、ロクシス個人を思う時、それは些か奇妙なずれを見せる。――――友人であるのは、間違いない、と思う。思うけれど、それに完璧に当てはめるには、何かが違うような気がしている。傍にいると、嬉しくて。離れると、少しだけ寂しくて。その奇妙なずれはロクシスに関連して何かがある度にヴェインの胸を焼いて焦がす。…それは、他と同じものなのだろうか?わからない。彼は自分にとって、どんな存在なのだろう?気が付けば、彼の事ばかりが脳裏に過ぎる。
「…どうしたら、いいんだろう…」
眉間を寄せ、所在無さげに膝をすり合わせたヴェインの意識の戸を知った声が叩いたのは、花壇に座ってから丁度、十度目の溜息が大気に溶けた時だった。
「ヴェイン君っ!こんな所で日向ぼっこ?」
弾むような声音。今はそれが切に羨ましい。歩く、というには弾みすぎる歩調で桃色の髪を揺らながらヴェインの傍らに添った彼女にゆっくりと目を向ければ、今度は驚いたように若葉の双眸が丸くなる。
「うわわっ!ヴェイン君、泣きそうなの!?どうしたの!?」
酷い顔!潤んだ藍玉に慌ててハンカチを取り出した彼女を、ヴェインは縋って止めた。
「フィロ…どうしよう。僕、どうしたらいいのか…わかんないよ…」
泣きたい訳ではないけれど、収まらない混乱が涙腺を狂わせる。身体の中を巡る何かを恐れて、身が竦む。これは怖い事だ。恐ろしい事だ。目を開けても、目を閉じても、眩い金色しか思い浮かばない。自分が自分でなくなってしまう。これはきっと、自分が壊れてしまう重い病なのだ。
「助けて…お願い」
手を止めて、呆然と、震える銀の髪を見つめたフィロはその柔らかい髪を撫でた。
「…よくわかんないけど…」
まずはここから。
「何があったか、話してみて?力になれるかも!」
ぽつり、ぽつり。真っ赤な顔で事の顛末を語るヴェインの横顔を見ながら、フィロは首を傾げていた。
聞けば、ついにあのロクシスが根性絞ってヴェインに想いの丈を伝えたのだという。内心だけで白状してしまえば、渦中の二人以外のアトリエメンバー全員がロクシスのヴェインに対する恋情に気づいていた訳で…この事態は非常に喜ばしい。しかも遠まわしにせず、直球で行ったというのだから、赤飯を炊かねば度胸の神様に申し訳ない。しかし、問題はそこではなかった。寧ろ、そんな事は終わった事だと、食後の食器よろしく片付けてしまって構わない。
問題は、ヴェインにあった。正しくは、ヴェインのあまりの無垢さに。
一通り、状況を話し終え、火照った溜息をつく彼に彼女は恐る恐る問いかけた。
「えーっと…ヴェイン君、まずはね、確認したいんだけど…」
「?なぁに?」
行け。フィロメール。可愛い、真っ白な瞳に負けてはならない。ここで頑張らねば、アトリエに花が咲かないぞ。――彼女は自分を勇気付ける。
「ロクシス君の事、どう思ってる?」
極自然な質問。頬を染めたまま、束の間、その熱を忘れて瞳を瞬かせた彼は刃が風を裂くかの如く、答えを返した。
「…え?友達、じゃないの?」
…良かった。この場にロクシスが居なくて本当に良かった。この言葉を聞いていたなら、凹むどころか、自主退学すらしていたかもしれない。意外と打たれ弱い仲間を思って、彼女は胸中で息をつく。これは少々、手強い。
「それ以外では?」
「それ以外に、あるの?」
訂正しよう。かなり手強い。この調子では想いが実ったとしても先が大変だろう。だが、こんな人気の無い場所で一人、考え込んでいる事からも、ロクシスの「好き」がヴェインのそれとは違うと言う事くらいは理解しているようだ。それを汲んでまで、友達だ、と言い切る――というには若干疑問系だったが――とは、ロクシスも中々報われないが…彼のロクシスに対する感情を聞けば、決して玉砕、という訳ではないらしい。あとは彼が身の内の「それ」に気づけば良いだけ。それにも、少し力添えをするだけで気づけるだろう。今は感じた事の無い感覚を友人のそれと混同して戸惑っているに過ぎない。
自らの役目を見つけた彼女は微苦笑を浮かべてヴェインを見た。
「そっか。ヴェイン君は恋を知らないんだね」
そう。彼は恋を知らない。猫と二人で山暮らし。恋情などとは無縁だったと言える。それが如何なるものなのかを教えてくれる人も居なかった。――彼はその身を焼く狂おしい熱を知らない。勉学の優劣で抱くようなものとは違う、張り裂けそうな嫉妬を知らない。子が親を思うようなものとは違う、窒息するような寂しさを知らない。いくら欲しても足りない、際限の無い欲望を知らない。
その点で、彼はとても幼いと言えた。この歳なって、恋の一つも知らない。それが何なのかも知らない。
「ヴェイン君は、恋を知らないんだね」
繰り返す言葉にただ瞬きをする彼の瞳には戸惑いが浮かんでいる。きっと、この双眸は「それ」に気づいた瞬間に宝石の様に煌いて愛しい人を探すのだろう。その姿を視界に捉えて、頬を染めながら、嬉しそうに微笑むのだろう。――見てみたい。彼の、どこか空虚な彼の、幸せに輝く姿を!
「…フィロ?」
瞑目してしまった彼女を覗き込むヴェインに、瞼を開いた彼女は問いかけた。
「あのね、ヴェイン君。ロクシス君の事、好き?ロクシス君が言った意味で、好き?」
沈黙。その質問は鬼門だ。だが、唯一の突破口でもある。逡巡して、彼は俯いた。
「…わかんない…ロクシスの事は好きだけど…でも…」
そういう意味かは、分からない。頬を薔薇の色に染めて、艶やかな唇で語るその甘さ。その時点で答えが出ている事に何故、彼は気づかないのだろう。この様を、今は自室で悶々とへこたれているだろう彼が見たら狂喜乱舞するだろうに。
ヴェインの愛らしさを間近で見ながら、フィロは「それ」に気づかせるべく指を振って注意を促した。
「じゃあ、実験してみよっか」
「実験?」
脈絡の無い展開にくり、と目を見開く可愛い双眸。彼には些か荒療治だが、まあ、時間も無い。フィロにしてもこれから行う実験は興味をそそられるものだった。
「目を閉じて!」
「…こう?」
疑いの欠片もないまま瞑目する彼に、これじゃあ襲われるかもしれない、とは口には出さずに呟いて、彼女は実験と証したそれを始める。
「しっかり想像してね!」
「うん」
「まずは、ロクシス君!」
言われて、多少、怪訝な顔をしながらヴェインは闇に閉ざされた視界に金色を思い描いた。長い髪。鋭い瞳。出来るだけ冷静に思い描きながら、フィロの言葉に耳を傾ける。
風に乗って聞こえる、楽しそうな声。次の要求はこれ。
「ヴェイン君は今、ロクシス君に抱きしめられてるよ〜」
「え…ええっ!?」
思い出すだけでも不自然な胸の高鳴りを覚えるのに、そんな事まで!思わず声を上げた彼に構わず、フィロは引き続き想像を促す。
「ほらほら、想像して〜!」
「うう…」
仕方なしに想像する、自分が彼に抱きしめられている姿。自分よりも少し高い背。お世辞にも逞しいとは言えない自分の肩を彼の腕が包んで、優しい温もりが身を満たしていく。頬が熱い。
指示を出す彼女は、折角、引きかけた熱が前にも増して肌を赤く染めるのを見ながら、訊ねた。
「どんな感じ?」
逡巡の後に小さく掠れた声が穏やかな風を縫う。
「…ど、どきどき、する…」
いい傾向だ。目を閉じた彼の隣で腕を組んで、一人頷く彼女は更に指示を出した。――さあ、もうちょっと。
「うんうん。でね、ロクシス君は君をもっと、ぎゅ〜っと抱きしめちゃうよ!」
「ふぇええっ」
さあ、想像して!妙に力を込めて言われた言葉に従い、思わずすんなり想像してしまった、ヴェインの口から腑抜けた悲鳴が上がる。
「あ、あ、あ、ちょ、ま、待ってっ」
ヴェインの身体を包んで、放さない彼の幻影。強い力で身を寄せられて、息が詰まる。耳元を擽る浅い吐息と、首筋を撫でる金の髪。止まらない胸の早鐘。――もう止めて。おかしくなっちゃう!
「それから、君を見つめたロクシス君は唇を寄せて、キスを…!」
「うわぁぁぁああっ!!!」
がばり。俯いていた身体が弾かれた様に起きると同時に青い瞳が光を見る。息は荒く、頬はこれ以上無い程上気し、最早、首筋まで染めるほどに赤かった。
そんなヴェインをにこやかに見ながらフィロが楽しげに手を振って正気に戻す。
「お帰り〜ヴェイン君」
お疲れ様。言い振りは小旅行でも行って来たかのようだが、ヴェインにしてみれば小旅行の方が数倍マシだ。寧ろ、ムーぺと宇宙旅行の方が良かったかもしれない。
なんて非現実的で甘美な幻想!馬鹿馬鹿しいと思うよりも、そうあったら良い、と少しでも思ってしまった自分が理解出来ない。そもそも彼と自分の関係は友人で、仲間で…?
思考を反芻して動きを止めたヴェインの耳に彼女が囁く。
「どうだった?嫌だった?」
嫌だったか、どうか。良かったかといえば、多分、違うかもしれないと思うけれど、嫌だったかと言われれば、それは。
「…嫌じゃ、なかった…」
身を包む温もりが欲しい。手だけでもいいから、握って欲しい。消えてしまった幸せな幻想が…惜しい。これは何だろう?サルファを思うのとは、違うもの。仲間を思うのとは、違うもの。じゃあ、彼は、何?
先程の思考の続きを辿れば、そもそも彼と自分の関係は友人で、仲間で…それ以外は無い。無いけれど、大切な人。喧嘩は多いが、傍にいて、嬉しい人。――彼は自分を好きだと言った。それはこの想いと同じだろうか?友人を思うものだと当て嵌めるには少し違和感のある、この想いと。
きゅう、と息の詰まる感覚。言葉にし難い不安。
「…なんだろう…どうしよう…嫌じゃなかった…」
フィロに仕掛けられて仮想したロクシスとのやり取りが鮮明に脳裏に蘇る。
嫌では、無かった。感じる温もりに心が踊った。近づく唇に胸が高鳴った。嫌ではない。寧ろ…ああ、こんな事は言ってはいけないけれど、でも…もっと、して欲しかった、なんて。そんなのは、まるで、まるで、自分が彼を、彼を――!
「…好き、みたい…」
ぽつり。言った言葉が恥ずかしくて、顔が林檎よりも赤くなる。途端に膨らむ不安と、それ以上の愛しさが涙腺を弄って青い瞳を潤ませていく。
「僕、ロクシスが好き…なんだ」
やっと気づくなんて、告白されても気づかないなんて、きっと課題なら最低評価を貰っている所だ。
咄嗟に両手で顔を覆って羞恥から逃れようとするヴェインの、それこそ覆う手までも赤く見えるような凄まじい恥じらいぶりがフィロを微笑ませる。押し寄せる数多の感情に翻弄されながら次の行動を見つけようとか細い呻きを漏らすのも可愛いだなんて、これは皆に報告するしかない。
明らかに一波乱起こしそうな事を考えながら満足げに頷く彼女の目に、ふと背後の花壇が映った。正確にはそこに咲く、それに。――――これは使えそうだ。休みかけたお節介心が再び頭を擡げる。
「フィ、フィロっ、どうしよう!どうやって返事しよう!どうしたら…」
「はい、コレ持って」
頭に豆電球を点灯させた彼女に気づく事無く半ば混乱したまま振り返ったヴェインの鼻先に、それは差し出された。
ちょん、と唇に触れたそれ。桃色の花弁は厚く、数枚しかないそれらがドレスの膨らみを逆さにしたような様子で天を向いている。内側に山吹色の花粉を付けて伸びる蕊が蜂の触覚のようだ。真っ直ぐに伸びた太い茎には少しよれた葉が付き、作り物めいたそれに植物らしさを与えていた。
「え…花?」
花壇を振り返って、一輪手折られた跡を見つける。間違いない。この花壇に規則正しく列を成して植えられている花だ。
勝手に手折っていいものか、と妙な心配をし始めたヴェインの思考を遮って、フィロは手にしたそれを彼の手に握らせた。
「コレ持ってロクシス君の所に行けば、わかってくれるよ!」
だから、ほら、早く早く!急かして追い立てる彼女に押されて立ち上がった彼がよろめきながら躊躇う。
「で、でも…」
「もう!早く行かないと私のマナでロクシス君のお部屋まで飛ばしちゃうよ!?」
勿論、冗談だが、これには彼も血相を変えて踵を返した。一輪のそれを持ったまま寮への道を走り去る彼の背を見つめながら、彼女はまた満足げに頷いた。
何も急かす必要は無かったが、楽しい事と嬉しい事は早いに越したことは無い。だって、言うでしょう?――――命短し、恋せよ…人類?何か違う気がするけども…まあ、いいか。彼が「それ」を知ったなら。
御姫様は言いました。
――――ああ、どうしたことでしょう!彼を愛してしまっていたなんて!
スランプ脱出の為にリハビリをしよう&折角だから初心に返ろう第二弾(笑)
実は「女神の花冠」と同時期に書いたものだったんですが、UPするタイミングを逃してしまっていて、こんな時期になりました(オイ)
テーマは「乙女なヴェイン、初恋を知る」…だったような気がします。とにかくヴェインを乙女にするのが第一目標。フィロが実験をするシーンは中々書いてて楽しかったです!ヴェインの隠された願望(ぇえ)
ヴェインは育った環境上、そういった感情に疎いのではないかと思っております。全部一般的な好き嫌いで分類していそうです。
さて、最後にフィロが何を持たせたのかについては…短くつけたしたいので伏せます(そればっかり)間違ってもいきなりおおっぴらに出せないようなものは書きませんからねっ?本当なんだからっ!!(必死に自己弁護)
2008/01/29 |