そんな事、許しません!
怪傑!皇女様!
ユーリ・ローウェルの特徴の一つといえばその美しい黒髪だろう。背中の中ほど辺りにまで伸ばされたそれは粗野に見られがちな彼に品を添えるように艶やかに翻る。高潔にすら見える美しさを、持ち主である彼だけが全く気付いていないのが不思議なくらいだ。
するすると指の間を清流のように滑っていくのであろうその髪に触れた事は無いが、彼の気質を表わしたかのような癖の無い真っ直ぐな漆黒はきっと貴族の女性も関心するような努力の賜物なのだろう、と、エステリーゼ・シデス・ヒュラッセインは御伽噺の姫を想うような心地で今日も風に靡くユーリの黒髪を眺めていた。その彼女の髪といえば、印象的な桃色である。ハルルに降り注ぐ花のような愛らしい色合いは優しげな面立ちの彼女に良く合っていたけれど、それでもエステリーゼはユーリの黒髪を羨ましく思うのだ。
この旅でユーリの性格は少しくらいは分ったつもりだが、実はそれを考える程に彼の髪がどうしてこんなにも艶やかで麗しく、美しいのかが分らない。エステリーゼにしてみれば、これは自分が直面した世界の不思議の中でも一番の謎にしても良い位だと思っている。ユーリの半ば明け透けな――心内については秘密主義ですらあると思うが、私生活については大分無防備なのではないかと思う――生活を見る限り、巷の上流階級のように洗髪料を選ぶだとか、香油を用意するだとか、そんな事に縁があるようにも思えない上に、容姿に全く頓着しない彼自身、面倒な事は嫌いそうだ。貴族の道楽とも言える贅沢なお洒落に興味を持つような性格もしていないだろう。
フレンなら知っているだろう事も肝心の彼がいなければ訊くに訊けない。こんなくだらない事で態々手紙を出すのも迷惑がかかると筆を取る気にもならず、けれど、一人で答えに辿り着くには無理がある。思い悩んだ彼女は勿論、一番の親友と自負するリタにも聞いてみた。知らない事は知恵を借りるに限る。しかし、返って来た言葉は思わず眉尻を下げしまうようなもので、良い案だと思ったものは振り出しに戻ってしまった。
たかが黒髪、されど黒髪。女として男の黒髪がどうしてあんなにも綺麗なのかが激しく気になる。
ユーリの黒髪について悩む人口は一人増え、更に二人は気の利く女の代名詞に助けを求めたが、ここでも答えは思うようなものではなく、今度は三人で眉尻を下げた。
わからない。全くわからない。風呂に入る時間も密かに測ってみたが、標準、或いは少し短いくらい。湯上りの手入れも特に何かしている風ではなく、タオルで些か乱暴に頭を拭いているだけだ。わからない。本当にわからない。それでもユーリの黒髪は今日も今日とて美しく輝いているのだ。
数日間、ユーリの黒髪とユーリ自身の生活態度について観察を続けた彼女達は我慢の限界だった。
「……これは、もう…」
「ええ…仕方がありません…!」
「最終手段ね……ユーリ!」
宿部屋の片隅。小さな円陣を組んで話し合っていた――この時点でカロルとレイヴンが被害を避けるべく壁際に寄っているのは誰も気付いていない――女性陣に名前を呼ばれた黒髪が、剣の手入れもそこそこにゆるりと振り向く。
その軽い動作にすら華を添える美髪の秘密がこれから解かれるのだ。興奮しない訳が無い。
仄かに頬を上気させて迫ってくる三人に腰を据えた椅子の狭い面積をずりりと後ずさったユーリの顔が嫌な予感に多少、引き攣ったのはご愛嬌だろう。こっそりと静かにその場を離脱して部屋の隅に寝床を移したラピードは賢いとしか言いようが無いが。
「ちょっと訊きたい事があるんです」
やけに真剣な面持ちのエステリーゼは今一度、ユーリの黒髪を頭の天辺から毛先まで具に観察した。――綺麗だ。文句の付けようも無い。枝毛なんて言葉が古代語に聞こえるような美しさ。この秘密は何なのか。
対するユーリといえば、心中穏やかではない。女三人が射殺さんばかりの眼差しで自分を見詰めているのだ。彼女達の実力を知っているだけに早々に離脱の方法を模索してしまうのは致し方の無い事だろうと思う。そもそも、自分が何をしたというのか。あれか。実は余ってた菓子を食べたとか、その辺りがバレたのか。いやいや、隠しているつもりはない。無いが、しかし、本当に何が悪いんだ。珍しく心拍数まで上がってきた。
「ユーリ」
エステリーゼの唇が音を紡ぐ瞬間、息をつめる。
「どこのシャンプーを使ってるんです?」
「は?シャンプー?」
あまりに鬼気迫った形相で来るものだから、どんな事かと思えば。頭の中で数度ばかり言葉を辿りなおした彼は浅く息を吸い込んで、漸く内容を把握したようだった。
小首を傾げて肩の力を抜く仕草に、また黒髪がさらりと優雅に肌を滑る。
「別に大層なもん使ってないぞ?」
そもそも何故そんな事を知りたがるのか、観察されている側のユーリとしては全く理解出来ないどころか不審にすら思う。洗髪料を気にするという事は髪質についての何かが本筋なのだろうが…女が女の髪を気にするのは分る。しかし、女が男の髪を気にするのはどう考えてもおかしいだろう。――無論、そう思っているのは己の容姿に頓着が無い彼だけなのだが。
「気になるんですっ!教えて下さい!」
知りたい気持ちに火が着いてしまっているらしい本の虫は軽く手を振って答えてやっても満足してはくれないようだ。その後ろで今にも術技を発動しそうな力の入れようを見せる二人も奇妙な迫力で見詰めてくる。逃げ場は無い。だが、ユーリとてそう言われても困るのだ。嘘でも冗談でもなく、自分は特別なものなど全く使っていない。期待されても本当に困る。
「何を使ってるんですっ!?」
「あー…だから…何って…」
刹那、紫紺の双眸を彷徨わせた末、彼は――彼の言葉を使うなら――腹を括った。
「石鹸」
その時の皇女様の顔といったら凄かったとのちに凛々の明星の若き首領は語る。どんな顔だったかと一言で表わせと言われたなら、彼は間違いなくこの言葉を使っただろう。――――続いた絶叫も併せて、それはまさに絶望そのものだった、と。
「い、いやぁあぁあぁあああああ!!!」
「馬鹿じゃないのあんたぁぁああ!!」
「うぉっ!?」
それぞれ自分の頭髪を押さえて仰け反った彼女達のオーバーリミッツに吹き飛ばされたユーリの尻がついに椅子から落ちる。受身を取ったのだか、取らなかったのだか、取れなかったのだか良くわからない体勢で落ちた彼の尻が至極痛そうに見えたのは多分、とんでもなく引き攣った顔の所為だろう。
「お、おい、落ちつ…」
「ユーリっ!止めて下さい、止めて下さいー!!」
尻餅をついた彼の肩を掴んで揺さぶるエステル――何で皇女様がこんなにも馬鹿力なのか――の悲鳴がくわんくわんと脳内で銅鑼を鳴らし、拍車をかけるように最早、何を言っているのかも理解できなくなりつつあるリタの叫びが重なる。残るジュディスは笑顔のまま。揺れる視界で漸く捉えたような気がした彼女は珍しく硬直しているらしかった。
「ばっかじゃないの!?ねえ、馬鹿でしょ!?石鹸とか…!」
「いやぁあああ!!リタっ、言わないで下さいー!!石鹸なんてっ石鹸なんてぇええ!!ユーリの髪がダメになってしまいますー!」
ダメになってしまうも何も、生まれてこの方、女のように髪の手入れをした事など全く無い。いつものように天辺から爪先までぱーっと洗っていただけだ。――なんていう言葉も勿論、届く筈は無い。ちらりと再び静かに笑顔を浮かべたままのジュディスを見れば、今度は長い指先を細い頤に当て、変わらぬ表情のまま、何かを考えているように見えた。
胸を過ぎるのは、悪い予感。そしてそれは静かな声音に実現される。
「ねえ、ユーリに手入れの方法を教えてあげてはどうかしら?」
そもそも手入れの方法を知らないから石鹸なんていう愚行に及ぶのでしょうし。
にこにこにっこり。素晴しい笑顔だ。そして、とても凶悪な。その背後に混沌たる闇が見える気がするのはユーリの気のせいではないだろう。事実、壁際に寄っていた子供と中年がついに壁に張り付いている。ちびらないか心配だ。カロルはともかく、おっさんは情けなさ過ぎる。そんな事を思える辺り、自分もまだまだ余裕があるのかもしれないと思うユーリは、実のところ、ジュディスの言葉に目の色を変えた彼女達から逃げたくて堪らないのだけれど。
「…そうよね。そうするべきよね、エステル?」
「…ですよね。ユーリの為ですよね、リタ?」
据わっている。彼女達の双眸が、暗闇に光る程に据わっている。米神を伝う汗と口元が痙攣するのを抑えられない。
「や、オレ、これで十分…」
情け無い格好を自覚しつつ、ずりずりと尻を擦って下がろうとした身体が、後ろの何かにぶつかった。柔らかな衝撃の、暖かい何か。咄嗟に見上げれば、艶やかな微笑。
「ちゃんと、お手入れしてあげるわ」
かくして、断末魔の悲鳴と共に賽は投げられた。
「あれ?ユーリ…髪…」
「フレンっ、な、何も言っちゃダメだよ!」
「え、でも…」
後日、雲の切れ間から差し込んだ光が親友の髪に神々しく降り注ぐ瞬間に偶然、居合わせた金髪の幼馴染は、その眩しい程の美しさに、幼い首領の忠告も虚しく、ぽかんと開いた口からここ最近の彼らの禁句を零した。
「あ、天使のツヤリング」
甘い声音を捉えた麗しの黒髪が振り向きざまに秘奥義を発動したのは言うまでも無い。
ユーリといえば美髪。美髪といえばユーリ。という訳でTOV量産品でした。
実は本気で「ユーリは某DグレのK氏のように石鹸で髪を洗ってるんじゃないか」と思っていたりします(笑)確か、あの人、石鹸で頭洗ってましたよね?ユーリの男前さとおおざっぱさなら天辺から爪先まで全部石鹸で洗っててもおかしくないような気がします。或いは、ユーリ第一なフレンの尽力でちゃんと髪の手入れしているか、どっちかじゃないかと。
まあ、要はフレンにユーリの髪を「天使のツヤリング」と表わして貰いたかっただけですが(ぇえ)
2009/11/09 |