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 逃がしません!

怪傑!皇女様!〜桜貝の秘密〜

 ほぅ。エステリーゼ・シデス・ヒュラッセインは今日もそれを眺めて惚けた様に溜息をついた。
 夕食に出されたムニエルを突くのも忘れて、ナイフとフォークを構えたままぼんやりしている様は正直、皇女ともあろう者がするようなマナー違反ではないが、それを指摘するような口煩い輩は勿論、この一般庶民が大半を占めるパーティには存在しない。いるとすれば、気の無いふりをしながら実は小言の多いリタか、仲間内で唯一と言っていい常識人のカロルくらいだろうか。どちらにしろ、エステリーゼが今犯しているこの程度の違反を注意するような心の狭さは二人とも持ち合わせてはいなかった。それどころか、リタに至ってはエステリーゼを共に食事の手を止めて、彼女と同じものを見詰めている始末。注意云々など話にならない。
 隣り合って食卓を囲む彼女達が涎を垂らしそうな口の開け方で何を見詰めているのかといえば――ユーリ・ローウェルの爪である。
 先達て、ユーリの黒髪の秘密を暴いた彼女達はその美しさが損なわれないよう、対策を打った。現在進行形で施されているその対策の経過は良好。元より美しかった黒髪は更に美しく、麗しくなった。ユーリ自身にも己の髪を大事にする傾向が見えてきたのは多大な進歩である。無論、これが毎度、般若も逃げ出す形相で髪の手入れにかかる彼女達の気迫を和らげる為の彼の譲歩である事は明らかだが、髪の美しさを保とうとする姿勢さえ崩さなければエステリーゼ達とて言う事は無い。そもそも、石鹸で髪を洗おうと言う方が間違っている、というのが彼女達の言い分だ。
 その彼女達が次に目をつけたのが、ユーリの整った指先を淡い薄桃で彩る爪。体質なのか、旅を続けてもそれ程焼けない肌にも興味があるが、エステリーゼはそれ以上に彼の、彼にしては随分と綺麗で可愛らしく美しい指先に目が行った。
 重量のある剣や斧すらも軽々と操る手は腕に嵌めた魔導器が少々重そうに見えるくらいには細い。その手首から先、器用にくるりと武器を回す指先を何度、眺めても、その爪の愛らしさに溜息が零れるのだ。――――整っている、と思う。勝利の合図をする時もちらりと盗み見るが、本当に綺麗だ。長い指の、指先に合った、桜貝のような楕円形の爪。薄桃色に見えるのは肌が白いからだろう。定期的にきちんと切っているのか、長くも無く、短くも無い、丁度良い長さで揃えられたそれはエステリーゼには理想の指先だった。
 しかし。しかし、だ。黒髪についてもそうだったように、ユーリの性格を踏まえて、彼が己の爪を美しく見せるための細やかな努力をしているとは、失礼だが考え難い。髪を石鹸で洗っていた、などという前科もある。爪にもそんな暴挙を働いているとなれば、それはユーリの美しさを天然記念物の如く守ろうとする彼女達にとっては一大事だ。
 じりじりと眺めるを通り越して前屈みになりつつある皇女の視線に耐え切れなくなったカロルがフォークを持つ手を止めて隣のユーリを突いたのはまさに絶妙の頃合だった。
「ねえ、ユーリ…エステルが何か訊きたそうだよ…?」
 ばっかやろう。言うんじゃねぇよ。思わずそう返したくなったユーリを誰も責めはしないだろう。それくらい今の皇女様の視線といったら、後世に残せないくらいに言葉にし難いものになっている。それに耐えるユーリも勿論、カロルに言われずともエステルの異変に気付いていたが、髪の一件から妙に容姿の事について敏感な彼女達の理解し難いおかしな藪を下手に突きたくはない。
 じりり。口内を潤わせる香りを放つ皿を手に、椅子ごと離脱しようとしたレイヴンを、ユーリは彼の皿に横たわる肉に素早くフォークを突き立てる事で引き止めた。同時に、カロルの一言に水を得たエステルの双眸が眩しい程に輝く。――ほれみろ。煌いちまったじゃねえか!カロルの馬鹿野郎!
「ユーリ。ちょっと訊きたい事があるんです」
 今度は何だ。素直に口からその言葉が出ないのは前回の教訓からだが、彼のその行動が報われる事は勿論、無い。そもそも相手は、ちょっと待ってくれ、などという制止を聞くような耳は持っていないのだ。

「爪のお手入れって、どうしてるんです?」

 何かを期待しているような、そんな笑顔だと思う。それが純粋か否かは別にして、エステルのこういった疑問は素直に好感が持てるのだが、この後の展開を思えば気が重くなるのを止められない。彼女の隣で何かを伺う猫のようにじりじりしているリタも、その隣でいつもの微笑を浮かべて食事を続けながらもしっかり会話を聞いているジュディスも、今は自分の敵だ。
 どう切り抜けるか。選択肢はそう多くない。店で大暴れするような面子ではないが、気を抜いた隙にエンジェルリングでも使われたら大変だ。逃げるどころか引き寄せられる。こうして逡巡する間さえ観察されているのだから、時間はそう残されていない。――――ユーリは二十一歳にして新しく学習していた。曰く、正直に答えてはいけない、と。しかし、彼は忘れていた。彼が学習しているように、彼女達もまた、新しく得ているものがある事に。
 思い空気をものともしない艶めいた声音がテーブルの上を転がったのは、苦し紛れの嘘で誤魔化そうとしたユーリの唇が開く寸前だった。
「嘘はついちゃダメよ?一応、カロルから情報は入ってるから」
「なっ!?」
 反射的に目を向けた先で死んだ目をしたカロルが緩やかに哀愁を背負う。
「…僕には無理だったよ」
 それはキャラクターが違う!そんな言葉を喉に詰まらせるユーリを余所に、女性陣の猛攻は止まらない。きらりきらきらと輝きを増すエステルの視線とその隣で今にも飛び掛りそうな張り詰めた空気を纏うリタ。挙句にカロルを手駒に情報を得たらしいジュディス。だが、勿論、彼女達が欲しい答えなど今回もユーリは持ち合わせていない。それを承知でジュディスは微笑んでいるのだろうが、その微笑が実に恐ろしいのは果たして確信犯なのか。
「つ」
「つ?」
 これ以上は無理だ。
「つ、爪やすり…」
 言えば、桃色と茶色は少々拍子抜けしたように、或いは安堵したように息を吐いた。
 無難な答え。間違ってはいない。彼は無視できない爪の手入れにやすりを使用していたし、それが女性のように念入りなものであったかは話は別だが、人並み程度には気を使っていた。間違ってはいない。そう、間違ってはいないのだ。これで引き下がってくれれば今回はこちらの勝ち。よく眠れるだろう。夜通し爪の手入れをされ、次の日には太陽に輝く指先になっているなど、女じゃあるまいし、嬉しくもなんともない。
 密かに冷や汗を伝わせるユーリを、しかし、百戦錬磨のクリティア族は見逃さなかった。
 鮮やかな微笑みをそのままに、艶かしい唇をぺろりと潤わせて開く。

「何用?」

「は?」
 見返すユーリの顔が、白くなる。珍しく開いたままの口がなんとも珍妙だ。
「だから、何用?」
「な、なによう…って…」
 知っているのだ。彼女は。そういえば、カロルの前で手入れをした事があったかもしれない。間違いなく情報源はそこだ。カロルめ、いつから陥落していた?――視線を彷徨わせる事も忘れた彼の、元より白い面は引いてしまった血の気の所為で最早、青ざめている。傍らのカロルは既に意識だけ異世界に旅立ち、中途半端な姿勢のままで引き止められたレイヴンは何かの芸のようにかくかくと膝を笑わせて、ラピードに至ってはそ知らぬ顔で大あくび。この場を離脱する戦力には全くもってならない。
 にっこり。素晴しい笑顔だ。――――その、始祖の隷長をも押し潰す如き圧力が無ければ。
「何用?」
 ああ、もう、さようなら。オレの安らかな夜。
「…犬用……です…」
 直後、真っ先に桃色がマナーをかなぐり捨ててテーブルを飛び越えた。





「あれ?…ユーリ?爪、どうしたの?」
 随分、綺麗だね。つやつやと煌く薄桃色の指先を捉えて言うフレンは全く前回に学ぶ物がなかったのか、平然と再び地雷を踏んで見せた。その光景を眺めていたカロルが思わず、ひぃ、と声を上げたのにも、勿論、素敵な無視を決め込んでみせる。ここまで来ると、ただ鈍感なのか、図々しいだけなのか、確信犯なのか判断に困るところだが、どれにしろ、呆れるより他ない。
 手甲に包まれた指先を冷たいと思いながら、ユーリは顔を顰めて腕を引いた。
「なんだってイイだろ。文句なら御姫様達に言ってくれよ。つか、じろじろ見んな」
「ふーん…エステリーゼ様達が、ね…へぇ…ツヤツヤで美味しそうだね」
「馬鹿言ってんなよ」
 ユーリの細長い指を捕らえたまま、まじまじとその愛らしい艶を眺めるフレンの興味深げな視線は正直、居心地が悪い事この上ないと思う。羞恥まで沸きあがりそうなそれに、笑うなら笑ってくれとすら言いそうになるが、笑われてもそれはそれで胸糞が悪い。
 長く、白く、細い指先。その先端を守るように行儀良く乗った形の良い爪達はエステル達の尽力のおかげで目を見張る程美しく磨かれていた。それこそ、深窓の令嬢の指先よりも愛らしく、可憐に、美しく。朝露に濡れるさくらんぼの如く美味しそうに艶めくそれらはつい今朝方、彼女達にマニキュアを塗られたばかりだ。
 薬剤が乾くまで動けないあの苦痛は思い出すだけで気が滅入る。吐いた溜息すら艶を帯びている事に気付かない黒髪が、いい加減、放せ、と言い掛けたところで、それは起こった。
「おい、フレ…」

 ぱくっ。ちゅぅっ。

 カロルは飛んだ。意識だけで雲を越えられた気がするが、そんな事は目の前でユーリに起こった事と比べればどうでも良い事だった。
「な、ふ、ふ、ふれ、ん…!?」
「んー?何?」
「な、何って…おまっ…!!」
 ちゅるり、ちゅうちゅう。ぺろ。見間違い出なければ、白い指先に食いついているのは頭の固い幼馴染だ。否、頭が固かったはずの、幼馴染。その彼が、何をとち狂ったのか、細い指の艶やかな爪を唇で食み、舌で包み、唾液を絡ませている。喰われているユーリにしてみれば、とんでもない現実だった。
 馬鹿か。馬鹿なのか。或いは、こんな昼間から公には言えない熱が燃え上がってしまったのか。そんなのは夜だけにしてくれ。――思いながら、この状態では今夜もまた寝られそうにないだろうと薄れ始める意識の中で諦めの言葉を呟く。

 ちゅ。爪の間を擽った感触に震えた華奢な肩が熱い溜息と共に甲冑の胸に崩れるまで、あと少し。



ユーリの指先は美味しそうだ、というくだらない発想によるSSでした。楽しかったのは言うまでもありませんがね!!(…)
剣士なので爪等の手入れは人並み程度にはやっていると思いますが、道具が問題だよね、という話。犬用なのはラピード用です。多分。大雑把なユーリは「とりあえず磨ければイイや」と思っていそうなので目的が達成できれば手段は問わないと思うわけです(えぇ)
最後にはフレンさんにちょっととち狂ってもらいましたが…おまけ程度ですよ、ええ。フレンさんはきっと「ユーリの指、美味しそうだなぁ。甘いもの好きだから舐めたら甘いかな。甘いよね。そもそも僕以外の誰かがユーリの手に触れただなんて許せないし。消毒も兼ねて…いただきます」なんて自己完結してぱっくりイってしまったんだと思いますよ(そんな馬鹿な)
ちなみに今回の見所(?)はマナーをかなぐり捨ててテーブルを飛び越えるエステリーゼ様です。

2009/12/10