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 もしも、その瞬間に気づいていたなら、多少、未来は変わったのかもしれない。――その事態に気づくには、あまりに遅すぎた。

死人の詩

 任務で相方と逸れるなんて、それが、まさかペナイン森で、だなんて。流石にちょっと笑えない。しかも、珍しく迷った挙句にうっかりトラウマになりつつある場所に迷い込んでしまったなんて――それこそ、最悪だった。
 光が届かないから。そんな表現が矢鱈、陳腐に思える程に鬱蒼としたそこは森、というよりも薄暗い洞窟のようだと思う。腐葉土から立ち上る湿っぽさがあるはずの無い空気の滑りを感じさせた。纏わりつき、引きずり込もうとする死者の腕のような暗澹とした暗さ。隣接するペナイン森とは明らかに違う…ドッペルゲンガーの森。
 何故、こんな所に迷い込んでしまったのか。後悔よりも不安に滲んだ視界を、頭を振って無理矢理、鮮明にさせる。――祖父ならこんな時に挫けて泣いたりしない筈だ。剣を握りなおして、ルシアンはまた歩を進めた。
 つい最近嫌いな場所の3本指に割り込んできたこの場所。あの時、ボリスのドッペルゲンガーに言われた言葉が、まだ心に爪痕を残している。必要なのはお前ではないのだと、お前は必要無いのだと、そう言われた事がまるで本物のボリスの言葉をドッペルゲンガーが代弁したかのような気がして…そんな訳は無いと口では言いながら、冷たい憎悪の言葉に怯えている自分がいる。本人に確認を取れないのは、臆病さ故だ。
 かさ。靴の下で枯葉が悲鳴を上げる。――もしも、ボリスにとってルシアン・カルツという存在がこの枯葉のようなものだったなら、「その時」が訪れた時、片手で払われて、何の感慨も無く置いていかれてしまうのだろうか。誰も気に留める事の無い、ただ踏まれて土に還って行くだけの、この枯葉のように。
 そこまで考えて、あまりの後ろ向きさに口元に苦笑が上った。いくら湿っぽい枯葉だってこんな風にじめじめした奴と一緒になんかされたくも無いだろう。彼らには土に還り、また他の糧になる道がある。自己犠牲といえばそれまでだが、人間には出来ない役目を与えられているのだからそれは誇るべき事だ。
「あーあ。僕らしくないよね」
 前向き。それが取り得だったはずなのに、憂鬱を溜息でやり過ごすのが日常になってきているのが酷く居心地が悪かった。
「兎に角、この森から早く出ないと…」
 そう大きな森でも無い筈だが歩けど歩けど端は見えてこない。似た光景ばかりの所為か、同じ場所を繰り返し通っている気もする。いつもなら襲ってくるはずのドッペルゲンガー達に一度も会わない事も、奇妙な静けさも伴って、更に気味が悪い。これで霧でも出てこようものなら本気で泣けてしまう。
 また手が震えて、鍔が叱咤の声を上げた。
「……ボリス、探してくれてるよね。きっと」
 合流すれば眉間に皺を寄せて、それでも最後は呆れたように笑ってくれるだろう大切な人。日が暮れる前に帰らなければ!
 少しだけ浮上した機嫌に押し出されるように歩き出そうとして…その背筋を冷ややかな気配が刺した。
「っ!!」
 咄嗟に後に向けて抜き身の一閃を放つ。近すぎる気配に距離を取っている間など無い。距離を取るより攻撃を選んだルシアンの細身の片手剣が今にも振るわれんとした重厚な刃に合わされ、更に弾こうと重さを増す。
 刹那、響いた涼やかな音は陰鬱とした森に凍てつく氷のように響き渡り、続く鈍い音は大地に墓標が突き刺さったかのように地に落ちた。――弾かれたのは、ルシアンの剣。
「早計だったな」
 後ろに飛び退こうとした動きを止めたのは左の首筋に当てられた見覚えのある両手剣だ。思い出すのもおぞましい。あの人の形をしているのが憎らしい。罵倒を必死で飲み込みながらルシアンは自らの顔が歪んでいくのを止められなかった。
 この森の闇よりも濃く深い、けれど優しい夜色の長い髪に同じ色の瞳。剣を握り、いつも優しく触れてくれる筈のその手。それが今は躊躇いも無く刃を構えて捕らえた羊をいたぶるのを楽しむ如くに笑みを浮かべている。
 きりりと悔しさに奥歯をかみ締めた。――自分はこの存在を知っている。忘れもしない、あの時の。
「…ドッペルゲンガー…」
 彷徨える魂の亡者。ボリス・ジンネマンの形を盗んだドッペルゲンガー。二度も会うなんて。しかも先の立ち回りで剣を飛ばされてしまっている。相手の刃は首筋。柄が予想以上に近い。手を伸ばさなくても届く距離で、睨む以外に出来る事は無かった。
「…そう睨まれても困るが…その感情は面白いな」
「五月蝿い。今度は何だ」
 まるで件の男のような喋り方なのはどちらなのか。じわじわと甦る恐れが噴き出さないように耐えるしかない。
 微々たる震えにすら気付いているだろう彼――「彼」と表現して良いのかは判らないが――は、ただ笑う。
「怖いか」
「別に」
 簡潔な答え。頷く訳が無い。認めれば、崩れてしまう。無論、命の行方を握られている状況で、回答しない、という放棄的な選択肢は与えられていない。相手はドッペルゲンガーとはいえ、ボリスだ。接近戦でも体格の差がある。魔法を使おうにもその隙を相手が与えてくれるとは思えない。逃げようにもまた然り。距離が近すぎる。八方塞だ。
 頬にゆっくりと触れてきた死者の指先は咄嗟に肩が跳ねる程、冷たかった。
「哀れだな。必要とされない事に怯えているのか」
 爪を立てた言葉に見えない傷が痛んだ。知らず声が荒くなる。
「違う!」
 自分が返した否定の言葉が妙な軽さを持った嘘くさいものだと思った。からからに乾いたスポンジみたいだ。軽くて、脆くて、ゴミのような嘘。
 相手が笑みを深めたのに気づかないまま、視線を外す。この状況こそが嘘なら良い。
「違わないだろう。今の関係は営利的なものでしかない」
「違う!!」
「いつでも優しくしているのは雇い主だからだ。そうでなければ道端の石ころと同じだな」
「違う!!!」
 ボリスはそんな事、言ったりしない。反論しながら自分の中の汚い坩堝の蓋が開くのを感じる。溢れ出すのは恐怖と憎悪。まるで壊れた噴水のように噴き出してくるそれが身体を駆け巡る。
 耳を塞いで、それでも入り込んでくる音の無い声だけが世界を支配して、視界が酷く暗い。
「現に、お前は必要とされていないじゃないか」
「違う…っ!」
 そんな事、言わないで。あの人の顔で言わないで。あの人の声で言わないで!
「何をするにもお前は足手纏いだ」
「…やだ…」
 経験も無い。知識も無い。力も無い。そんな事分ってる。
「一人で出来る事に無理矢理付いて来て、結局邪魔」
「…違う…」
 邪魔。本当に?違うなんて、言える?
「余計な気持ちを押し付けて自分勝手にも程がある」
「…ぁ…ごめ…」
 ごめんね。ごめんね。ごめんね。嫌わないで。嫌いにならないで。置いていかないで。お願いだから、一緒に連れて行って…。
 首から下ろされた切っ先に気付かないルシアンの無防備な耳元で楽しげな声が囁く。

「お前は要らない」

 要らないよ。固形物のように硬く、飲み込めない何かが無理矢理、喉を通る。蛇が卵を丸呑みすればこんな気分なんだろう。可笑しな事を考えながら、自分の中でゆっくりと飲み込まれたそれが昇華されていくのを感じる。――要らないという事。必要が無い。意味が無い。価値が無い。関係が無い。意識を割く必要が無い。その程度。程度ですら無い。
 緞帳が下りたように色の失せた双眸が見つめる空虚な世界の中で、また囁きが聞こえる。

「でも、『俺』は必要としてやれる」

「…え…」
 呟きを飲み込んだのは冷えた唇。吐息を喰らい尽くすような深い口付け。歯列を割る舌先は熱情を煽り、崩れる腰を支える腕に縋って、意識だけは彼方の闇の中。
 水音を響かせながら口内を蹂躙する舌先が上顎をくすぐり、力無く横たわる小さな舌を持ち上げて絡め取るのをルシアンは他人事のように見ていた。感じるものも無い。目の前の男がヒトでは無いという事実すらどうでも良い事だった。…また視界が暗くなる。いっそ盲目にでもなってしまえたら良い。
 ちゅるりと滑る唇を吸い上げた冷たいそれが口端から零れた唾液の跡を辿って、刃を当てた首筋に一つ、華を散らす。
「待っているから、早くおいで」

 離れる気配に意識を戻せば、探し歩いたはずの出口はすぐ後ろ。



連載、始めました(笑)……更新が亀なのに、しかもスランプ中(年中)なのにやってしまいました。
結構前から構想していた話なのでラストはもう決まっていたりします。そこに辿り着くまでが問題ですが。
マイナーも良い所なボリスvsドッペル×ルシアン…すげぇ構図…。
いつ終わるかわかりませんが、気長にお付き合い戴ければ幸いです。

2007/04/24