だぁれも気付かない。――その時になるまで。
死人の詩
「本当に何もなかったんだろうな?」
ボリスが逸れたルシアンと合流出来たのは陽もとうに暮れた頃だった。自力で、しかも無傷でライディアまで戻ってきたのは喜ぶべき事だが、迷ってドッペルゲンガーの森に入ったと聞いた時には血の気が引いた。よりにもよって、何でこの親友はそんな危ない場所に迷い込む才能があるんだろう。
二人で宿の部屋に向かいながら、ボリスは詰めた息をまだ吐き出せずに居た。
「大丈夫だよ。本当〜に何も無かったんだって!」
大袈裟だなぁ。彼がこの問いかけをするのはもう何回目だろう。合流してから既に両手の指の数を超えてしまったかもしれない。しつこい、と一蹴すればそれ以上聞く事は無いだろうが、多少、くどいとは思えども、そんな事をする気は毛頭無かった。
ボリス・ジンネマンという存在がルシアン・カルツという存在を認識しているという事実はルシアンの中で三本指には入るだろう重要事項だ。自身の兄以外のものには無関心である彼がルシアンに対してはそうではない。そう認識することがルシアンが「ルシアン」という自己を確立するにあたって必要な事だったのだ。依存しているといえばそれまでだが、個を客観的に肯定するには他による個の肯定がいる。それは子が親に名を与えられる、その感覚に似ていた。
結局、ボリスを無条件に信じていながら、自身の最底辺では彼を疑っているのだ。
彼は優しくしてくれるけれど、それが本心かどうかは全く別の話。カルツ家の跡継ぎという立場上、ルシアンは人の繋がりというのが硬いように見えて実は酷く脆く、薄いものだと知っていた。事実、自分の周りにいた者達――家族は別だが――は「カルツ家のルシアン・カルツ」に仕え、友好的に接していたのだから。誰も「ルシアン」という存在を見ようともしなかった。それは幼いルシアンにとって世界がルシアン個人を必要としていないのと同意義だ。悔しくて悲しくて祖父の部屋に隠れて嗚咽を噛み殺した事もある。
その中で友人と言う存在にまでなってくれたボリスへの、ある種の不信感は通常のそれよりも度合いの高いものだったのかもしれない。
「だからぁ、何も無かったってば!僕だって強くなったんだよ?」
「お前は肝心なところでいつも無防備だからな。あてにならない」
「うわぁ、酷いよ、それ」
おどけて見せるルシアンの歩が止まる。一人部屋しか取れなかった今日は褥は別々だ。宛がわれた部屋の扉に手を掛けて、ノブを回す。少しだけ開いた扉の先にある部屋の暗さが妙に濃くて、肩が震えた。
首筋を撫でる冷えた風。――窓が開いているらしい。
引きつりそうになる頬を笑みで固めて隣の部屋の鍵を開けるボリスを振り返った。
「おやすみ、ボリス。また明日ね」
「ああ、おやすみ。寝坊するなよ。………ルシアン?」
そのまま部屋に入ろうとしたルシアンをふと呼び止める色に声音を変えたボリスが止める。
「?何?」
きょとり、と瞬いて返す彼を見ながら、ボリスは怪訝な顔で首筋を指した。細い首の、左の一点。赤く鬱血しているようにも見えるそれは、近くで見なければ襟に隠れて見えないような際どい所にあった。
耳の奥で、静かに体温の降りる音を聞いた気がする。
「それ、何だ」
「それ?」
無害な声音。無意味に緊張している自分が酷く滑稽だ。
「首の」
つい、と自分の左の首筋を指して、場所を知らせる。
つられるように自らの、相手が指した場所に手を当てながら逡巡する様は…後で思えば異様だったのかもしれない。
件の箇所を隠したまま、甘く微笑んだルシアンの身体が部屋に滑り込む。
「虫刺され」
ぱたん。返事を待たず、埃を僅かに舞わせて閉まった木の扉の向こうで静かに錠が掛かるのを、ボリスは暫く見つめていた。
昼の十二時を回っている。昨夜は比較的、早くに部屋の前で別れたはずだ。――苛々と時計を見やってボリスは溜息をついた。ここまで寝かせておく自分も相当、彼に甘いと自覚しているが、それに甘えて寝続けるルシアンもルシアンだ。精進が足りない。
叩き起こしたらこっ酷く延々と説教をしてやろうと意気込んで、部屋に向かう。足音にすら怒気が滲んでる気がするのは気のせいではないはずだ。事実、道行く人々が頼んでもいないのに道をあけてくれるのだから…自分はかなり良くない顔をしているんだろう。
扉を叩く手にも力が入る。
「ルシアン!もう昼だぞ!さっさと起きろ!!」
暫し待ってみるが、案の定。返事は無い。周りの迷惑にならない程度の音量まで引き上げたつもりだったが…効果は無かったようだ。まあ、いつもの事。
「…入るぞ」
かちり。ノブを回して………開いている?おかしい。施錠をしないのは何度言っても直らないルシアンの癖だが、昨夜は施錠をしたはずだ。その音を確かに自分は聞いていた。いつもの要領で入ろうとしたは良いが…昨夜の状況を考えればこの状態は明らかに異常だ。深夜に何らかの事情で部屋を出た?まさか。いくらルシアンとはいえ、ここには賭博をするような場所もない。
静かに押し開けた扉の隙間からこちらに背を向ける褥の膨らみと枕に散る金糸を確認する。…自然、安堵に笑みが零れた。考えすぎにも程があるのかもしれない、と冷えた部屋に足を踏み入れる。
寝息の一つも聞こえない、妙に冷え切った静かな部屋。開いたままの窓から差し込む穏やかな風も、柔らかな日差しも、何の意味も成していないようだ。歩くたびに軋む床の音が、氷が割れる破裂音のようにやけに大きく響いた。――こんな寒い部屋で、風邪など引いていなければ良いが。
寒さからか、毛布に包まる肩を掴んで揺する。
「ルシアン、早く起きろ。アクシピターに戻るのが遅れるぞ」
反応は無い。毛布を剥げば起きるだろう、と今度は肩から腰まで毛布を剥いでやった。
「減点されても良いのか?」
反応は、無い。ここまでして無視をするとは良い度胸だ。
「っ、おい!!いい加減に……!」
褥そのものから引きずり出してやるつもりで縮まる手首を掴んで、勢いよく引っ張り――――だらり。痛みと驚きに飛び起きるはずだった身体は人形よりも重い動きで仰向けに転がった。
掴んだ白い手首が――――冷たい。
「……ルシアン?」
「寝息の一つも聞こえない、妙に冷え切った静かな部屋」――――そこにあるのは眠り姫の骸。
さて、大変だ。動かしやすいルシアンがいなくなっちゃったぞ、っと。
通常との異質具合をもう少し書き込めればよかったのですが…如何せん、語彙が少なすぎました(泣)辞書を読め、という感じですね。
次はボリスの焦り具合を書ければ面白いかもしれません。
2007/04/24 |