悲しいんじゃない。無くなってしまったものを、無くなってしまったと認めるだけだ。
死人の詩
――大人しく部屋の外で待っていて下さい。くれぐれも無理矢理入ってこようとして抜剣などしないように!
温厚なアレンがまるで仁王のような顔でボリスを部屋から放り出したのは当時の状況からすれば当然のことだったかもしれない。
冷たい身体を抱えてアクシピターに戻った時の周囲の反応は様々だった。呆然とこちらを見る者があれば、苦々しげに目を逸らす者、目線だけは外さずにひそひそと話し合う者。ルシアンを少しでも知る者は大抵、二番目の反応をとっていた気がする。あまり人目に晒されるのが好きではない自分にしてみれば、鬱陶しい事この上なかったが、常よりも鬱陶しさを感じなかったのは腕の中の、真っ白なシーツに包まれた不自然なほどに冷たく軽い存在の所為だったんだろう。――久しく聞かなかった一人分の靴音に感じていたのはらしくもない動揺、というよりも、それを通り越した強烈な喪失感による絶望に似ていたと思う。
凍りついた時間の中でいち早く我に戻ったアレンが別室に案内してくれなければ、夜が更け、朝を迎えても自分はそこに佇んだままでいただろう。彼のその行動自体は感謝すべき事だが…案内された部屋の褥にルシアンの亡骸を横たえた後に、検死をするから、と席をはずすよう言われた事には、その感謝を忘れるくらいには腹が立った…の、だと思う。
「…はあ…」
思い返して、後悔と嫌悪が溜息と共に零れ出た。どんな物音も聞き逃さない為に閉ざされた扉の傍に陣取り、壁に背を預けて座り込んでいる自分が酷く滑稽だ。大人しくしていれば、冷静に話をしていれば、或いはその場に居られたかもしれない。思い返す程、馬鹿で幼稚な自分の行動に、また重い溜息が漏れる。
こんな所で座り込んでいる訳。部屋を追い出された理由。そんなのは簡単だ。自分がみっともない程、暴れたからに他ならない。検死に来た男を殴った気もする。良く覚えていない。その一瞬は実に鮮やかな赤に染まっていて、思い返すという行為でようやく自分が逆上していたという事を知る程度だった。何を叫んだのかも覚えていない。何か、酷く自己中心的で傲慢な事を口走った気もする。内容は…やはり何も覚えていない。
シュワルター支部長に横面を殴り飛ばされて我に返った自分が判る事は、ただ、自分以外の誰にもルシアンに触れて欲しくなかったという事だけだ。この静かに横たわる美しい抜け殻を汚して欲しくなかった。それだけは、覚えている。
だが、だからと言って職務を妨害して良い訳が無い。つまりは、全面的にボリスが悪い。――自覚しているだけに、それがまた気分を降下させる。
息を飲み込んで一層、うな垂れる、その横で耳障りな軋みが上がった。
「反省しましたか?したなら、どうぞ入ってください」
その言葉に少しでも気分が浮上したのは言うまでも無い。
「端的に言えば、魂を抜かれた状態です」
逆行に光るひび割れた眼鏡――それがボリスの所為であるのは言うまでも無い――がやけにイラつくのは第一印象の悪さ故だ。理不尽に決め付けて、ボリスは押し黙った。そもそも、死というのは魂が無い状態の事であり、わざわざをそれを「端的に」などと強調して言う必要も無い。
放つ視線が些か小馬鹿にしたようになってしまったのは致し方のない事だと思う。
ボリスのじりじりと射抜くような視線に居心地の悪さを覚えたのか、男はカルテと思しきクリップボードを抱え直した。手にしたペンがかちかちと鳴る。
「物理的に言って『魂の無い状態』は死と同意義ですが、カルツさんの状態は少々特殊なようです」
「特殊、とは?」
低いシュワルターの声はまるで熊のようだと思うが…それを笑っていたのはいつも、今は動かない彼だった。――ふと考えて、離れた思考を慌てて戻す。今はそんな事を思い出している場合じゃない。
鬱陶しい仕種で眼鏡をずり上げる男を見ながら、また殴り飛ばさないようにボリスは腕を組んで耳を傾けた。
「所謂、『魂を抜かれた』という状態異常だと言って良いでしょう。加えて、魔法によって死を持続させられています。要約すれば、カルツさんには現在、『魂が無い状態』と『死亡している』という二つの状態異常が起こっている訳です」
ううむ。唸って気難しげな顔で俯いたシュワルターに変わり、やはり眉間に皺を寄せたアレンが口を開く。
「つまり、ルシアンさんは厳密には『死んでいない』、と?」
僅かな望みに、しかし男は首を横に振った。――男が動くたびに薬品の匂いがする気がするのは気のせいなんだろうか。それは先入観による錯覚。
ボリスの双眸は室内の風景を映して、そのまま。時計の音がやけに大きい。
「『死んでいない』と断言する事は出来ません。『魔法によって死という状態異常が引き起こされている』のであって、今現在は間違いなく死亡しているのですから」
「腐敗は?」
「起こらないと思います。死後の硬直も起こっていないので…そうですね。現実的な表現ではないですが…その魔法によって死体の時間が止まっている、としか…。ですが…」
「それもいつまで続くか判らない、か」
言葉尻を受け持ったシュワルターに男が頷く。
いつまで続くか、判らない。毒がいつかは抜けるように、痺れがいつかは取れるように、病がいつかは治るように、眠りがいつかは…覚めるように。術で死の枷を嵌められたルシアンの身体にもいつかは本当の死が訪れる。永遠が存在しない、その証のように。
ボリスの中での天秤は既に諦めに片寄っていた。また誰かを失うのだという事に何の抵抗も感じないのはボリス自身がそれに慣れ過ぎてしまっているからだろう。自分の疫病神具合に酷く吐き気さえしてくる。――ルシアンには何の非も無かったのに。ただ、共に居たいと言ってくれただけなのに。友達なんだと、そう言ってくれただけなのに。
何故、こんな事になったのだと自問すれば、それは自分の所為に他ならないという自答しか返ってこなかった。
凍りついたボリスを放ったまま、話は進んでいく。
「魂を取り戻せば、術が解けても死に至る事は無いのでは?」
アレンの至極当然な疑問はするりと口から滑り出る軽さと裏腹に内容は重かった。また男が眼鏡をずり上げる。
「それが出来れば、の話ですね。確かに理論的には術が解ける前に魂を連れ戻せば死に至ることは無いでしょうが、魂自体、明確に眼に見えるモノではない事に加え、その在り処すら分からないようでは手の打ちようが無いですよ。目星も何もないようでは探している間に術が解けて結局、カルツさんが亡くなってしまうのがオチです」
非の打ち所が無い。魂の重さを唱える学者もいるが、どちらにしろ魂というものは目視出来ない、実体の無いものだ。仮に、目視出来るか否かを問わず、見つけることが出来たとして、物質世界に生きている以上、実体の無いものに触れることは出来ない。
「……結局、ルシアンは元には戻らないんだろう…」
天使の亡骸を見つめたまま、心の底で傾き切った天秤ががつんと音を立てると同時にぽつりと零れた小さな呟きが鉛よりも重く落ちた。
「ボリスさん…何を…」
「だって、そうだろう。魂を抜かれて、それで死んでいないはずが無い」
自ら肯定する事実が胸に刺さる。氷のように冷たい今の世界が、ルシアンのいた世界とは全く別物のように感じていて、恰も異世界に迷い込んだようだ。…そんなわけが、無いのは、分かっている。ただの現実逃避。
奇妙な横隔膜の痙攣が気味の悪い笑いになって口から零れる。泣いているのか、嘲笑しているのか分からないその声を遮ったのは――アレンだった。
けたたましい音を立ててボリスの長身が壁に飛ばされ、掴まれた胸倉が苦しいと思うより早く、耳鳴りがするほどの罵声が鼓膜を叩いた。
「彼方がそれでどうするんですか!!」
温和な相を怒りに歪めて叫ぶアレンを、検死官も、シュワルターでさえ止めはしなかった。
「ルシアンさんは彼方のペアなんですよ!?それ以前に、彼方方は親友なんでしょう!!ルシアンさんを連れ戻すのは彼方にしか出来ないかもしれないのに…どうしてそんなに簡単に諦めるんですか!彼は彼方を待っているかもしれないのに!!」
分かっている。自分がどんなに簡単に諦めているかなんて。他人に言われなくても分かりきった事だ。これは諦めていい事じゃない。分かっている。そもそも自分にルシアンを諦める事など出来ない!それでも…それでも!
「それでも覆らないものだってあるだろう!」
毟り取るように胸倉を掴んだままのアレンの拳を弾き飛ばす。衝撃に彼がよろめいた事も、どうでも良かった。頭の中はすでに漂白されていて、全身を冷えた怒りが満たしていた。
「死んだら戻ってこないんだ!どんなに呼んでも、どんなに暖めようとしても、どんなに綺麗なものを見せても!!どんな手を使っても死者を生き返らせる事なんか出来ない!!」
ルシアンがいない。それが事実。
「死んだら、戻ってこないんだ!!」
吐き捨てられた言葉があまりに血で滑っていて…逃げるように部屋を後にするボリスを誰も止める事は出来なかった。
「……死に慣れすぎると、ああも寂しくなるものなのだな」
沈黙の薄氷を割ったシュワルターが少しだけ開いたままの扉からゆっくりと眼をそらす。
彼の諦めは死そのものに対しての諦めだ。死という形態を理解し、無理に生に戻そうとする事はせず、受け入れている。そういうものだと思っているのだ。…しかし、死している筈のその者自体は諦めていない。そう感じたのは彼らの仲睦まじい様子を見続けてきたからだろうか。錯覚なら、自分もまたここに横たわる彼の死を受け入れがたく悼んでいるのだろう。
緩慢な動作できちんと扉を閉めるアレンの溜息が聞こえる。
「…しかし、珍しいな、お前が激昂するとは」
言えば、彼は僅かに頬を染めた。
「す、すみません…望みがあるかもしれないのに、あんなに割り切ってしまうのが…どうしても腹が立って」
「それについては私も否定はしないがね」
アレンがやらなければまた自分がボリスを殴り飛ばしていたかもしれない。苦笑がもれて、少し部屋の空気が軽くなった。
「ボリスについては…本人が執着心を再燃させてくれなければどうしようもないが…」
向けた視線の先で眠る華奢な身体を見ながら、重い焦燥が胸を焼くのを感じる。
「ルシアンについては、どれくらい持ちそうだろうか?」
単純にでも目安があれば…焦燥を煽る事になれども、あるに越したことは無い。望みがなくとも、それがゼロではないなら、足掻く価値はあるだろう。そのためにも、ルシアンがあとどれ程持つのかが重要だ。あと数時間なら打つ手も無いだろうが、数日あるならボリスに発破をかけることも出来る。
シュワルターは諦めていなかった。
望みに応えるようにクリップボードを抱え直した男の割れた眼鏡が光る。
「その事なのですが…」
言葉を切り、彼はボリスが散々、ルシアンに触れる事に嫌悪した無骨な指で横たわる天使の首元を晒す。
示された箇所を覗き込んだ2人に戦慄が走ったのは数瞬後、ボリスを連れ戻すために急ぎの使いが出されたのはその数刻後の夜の事だった。
とことんやさぐれボリス。
しっかりしろよ!と言いたいが、何せ書いているのがクロなもんで(致命的)
ちなみにこの回のお気に入りは殴り飛ばされた検死官。モブも良い所。
もうちょっと内容的に補足すると、ボリスは死の大切さと重大さを理解していながら、神経質になっている部分があるんじゃないかと。
次辺りでルシが再登場してくれれば…。
2007/08/18 |