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 言うなれば、世界はマジックミラーの箱庭のようなものだったのかもしれない。

死人の詩

 ルシアンがそれを知ったのは本当に、まだ小さな頃だったと思う。いつものように勉強から抜け出して、庭に潜り込んで隠れていた時の話だ。
 その頃は無条件に屋敷の中の者たちを信用していた。誰もが自分を愛してくれているのだと信じて疑わなかった。だから隠れていても探してくれるのだと思っていたし、だから怪我をしても心配してくれているのだと、我が侭も聞いてくれるのだと思っていた。全てが愛情ゆえなのだと、求めて、注がれるものが全てなのだと思っていた。
 それが嘘なのだと、知らなかった。
 立派に枝葉を伸ばす庭木の上は格好の隠れ場所だった事もあり、その日もルシアンは誰にも見つからなかった。これで今日も勉強から逃れられる、と高を括って幹に身体を預けた時にその会話は耳に入ってきたのだ。今でも根底に根付くあの会話が。
 ――――また逃げ出したそうよ。まったく、困ったものだわ。本当に旦那様のお子様なのかしら。
 ――――似ているのは綺麗な金髪だけね。旦那様はあんなにご立派なのにその子供ときたら、ろくに勉強もしないで走り回って遊びほうけるだけの放蕩息子。あれは将来、カルツ商団を潰してしまうかもしれないわ。
 ――――あの性格は変わらないだろうな。給金が上がっても上がらなくても俺はあんな馬鹿に仕えるのは嫌だね。
 ――――あら。ここを辞めるの?
 ――――時と場合さ。幸い、他のところからも誘いを貰ってるんだ。行く当てはあるさ。
 ――――羨ましいわ。あんな手の掛かる面倒な子供、誰も相手にしたくないわよ。カルツ家の子だから仕方なく構ってあげているだけ。
 話していたのは、比較的古参の使用人だったように思う。ことある毎にルシアンにものを教えてくれたり、遊びに付き合ってくれたりする…一つ屋根の下の良い家族、の筈だった。
 そもそも、物心つく頃の子供に壮年の大人のように振舞えというのが無理な話なのだが周りはそうではなかったようだ。父や母はルシアンの素行自体――悪戯や逃亡等々――には殊更目くじらを立てる様な事は無かったが、それとは反対に周囲は素行ばかりを叱咤した。勿論、学について言われる事もあったが、いずれ、商団を背負う立場であるのだから、それなりの頭を鍛えなければならないのだとルシアンも理解している。やる気があるか否かは別にして、それは至極当然の事だ。
 それだけのことを理解出来る、ある意味において聡い子供が、先の会話の中で彼らが「個人を見ていない」のだと判断するのに時間も労力も掛からなかった。
 足元から音も無く形の無い何かが崩れていく感覚を感じながら、何よりも鮮烈な最後の言葉が胸を貫いたのを、忘れる事無く覚えている。
 溜息をついた女の使用人が苛立たしげに吐き捨てた、とても冷たいあの…

「…シアン……ルシアン…起きろ」
「ん?」
 呼びかける声が泥濘のようなまどろみから意識を引き上げる。重い身体を優しく揺する冷たい手を感じて、ルシアンはようやく自分が眠りに落ちていたのだと知った。
 数度の瞬きにも覚め切らない瞼に口付けを落とす影が微笑む。
「ようやく起きたか…」
 緩やかに締め上げるように首筋を擽る闇色の長い髪。彼が動いて、抱き直すたびに触れるそれのくすぐったさに肩を竦め、そのまま腕に縋って音のしない胸に擦り寄る。
「…夢を、見てたんだ」
「夢?」
「そう。夢」
 言葉を切って、その言葉から逃げるようにまた擦り寄る。強引にも見えるその様は擦り寄るというよりも潜り込む、と言った方がいいかもしれない。或いは、絡まり合うような。
 妖艶な雰囲気さえ感じさせる怠惰な空気の中で咲き誇る赤が揺れる。
 夢を、見ていた。昔の夢。
「怖い夢か?」
 すぐさま首を振って答える。――怖くは無かった。
「なら、悲しい夢?」
 また首を振る。――悲しくも無かった。
 顔を埋めて、頭を振るだけのルシアンに影は、ふむ、と思案する。答えを出すつもりは彼には無かった。答えてやる義務も無かったし、何より、ルシアンにその言葉を言わせる事が重要だったからだ。
 折角、ここまで連れて来た彼を逃がすわけには行かない。手に入れたいからこそ、あそこまで出向いたのであるし、その気が無ければあの場で殺していただろう。本当に欲しいと思ったから、態々、布石を置いて奴の目の前で奪ってやった。最も、事態に気付いたのは翌朝の事だっただろうが、見せ付けてやった事には変わり無い。
 いずれ、残した器の期限も切れる。そうなれば腐敗し、土に返る姿を見る事になる。生きる者に永遠なものなど有り得ないのだと、そう思い知ればいい。お前は彼を護れないのだと、傍にはいられないのだと思い知ればいい。
 これは時間稼ぎだ。手に入れるまでにはまだ少し時間が掛かる。――細い身体を包み込んで、愛しさに口元を歪めた。
「どんな夢だ?」
 沈黙。周囲で揺れる彼岸花を青い目が追う。
 口に出したら、何かが零れてなくなってしまいそうだ。それでも、甘美な麻薬がその先を促すのに逆らえない。
「……寂しい、夢」
 ぽつり。ああ、何が零れたんだろう。
「寂しい夢、だった」
「寂しい?どんな?」
 確かめるように言い直したルシアンに更にその先を促す。――なんて酷い人。それでも逆らえないのは、この身を低温で焦がす愛しさの所為だろうか。
 髪を梳く指先の冷たさが、熱を持ちそうな身体に心地良い。目を閉じて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「昔の夢。…嘘が、あるんだと知った日の夢。意味が無いのかもしれないって、思った日の夢」
 それで?耳元で囁く声音は睦言を贈るそれに似て、微かな熱を持って身体を煽る。
「あの頃、僕は皆、信じてたんだ。周りにある人や物や、世界の全部。嘘なんて無いんだって…思ってた。…み、んな…ぁっ……好き、だったん…だよ…?…ぁ、はぅっ…」
 首筋を吸い上げる悪戯な唇が赤い舌で言葉を途切れさせても、ルシアンは話し続けた。夜着を暴いて胸元に入り込んだ指先がまだ柔らかい頂を捏ね、育て始めても、それは止まらない。柔肌を蹂躙する相手も、それを許さなかった。
「んんっ…ぁ…んっ…」
「ほら、話が途中だ」
 濡れた蕾が涙を流す。
「…あぁっ!…ぁ、ぁ……ふ、ぅ……だ、から…」
 だから、自分自身が望まれていないなんて、微塵も思わなかったんだ。


 ――――あんなあてにならない子なんて生まれて来なければ良かったのだわ。神は何かを間違われたのよ。

 あの日崩れたのは、「信じる」という名の縋る指先。



ヤってない、よ…?いや、本当です。
という訳で久々のルシアンですが、矢鱈とくらいですね。
ルシアンの明るさはどこから来るんだろうなぁ、と考えるときに、多分、信じて、信じられているのが支えになっているんだろうなぁ、と思います。反対に否定されると弱そうというか。

2007/07/19