この世界には、なんて意味の無いものが多いんだろう。
死人の詩
藍から藤、暁へと変わる空。夕刻を過ぎようとするナルビクは華やかな夜に身を委ねようとする者で賑わい始める。山中のライディアやカウルよりも活発なのは一重に海の男が集まる所為かもしれない。港町特有の海の幸をふんだんに使った美味い料理に舌鼓を打ち、艶のある美しい脚を惜しげもなく晒す踊り子に声援を送る。体格の良い男達の野太い声が沸き上がれば、喧嘩すら欠かせない夜の華だ。
避けるのも困難な人出に辟易しながら、潮風を纏い、ボリスはただ歩いていた。どこへ行くのか、自分でも検討はつかない。寧ろ、どうでもいい事だった。
遠くで子が母に空腹を訴える声が聞こえて、広場の時計に目を移せば、気づかなかったが…確かにそれくらいの時間だ。――曰く、夕食時。
常の夕飯といえばルシアンと二人、どこか手軽な所に食べに行くか、そうでなければどちらかが作っていた。丁度、このくらいの時間に彼の腹が音を上げて空腹を訴えてくる。それに溜息をついて苦笑しながら、自分は仄かに頬を染める彼に「じゃあ、どこか食べに行こうか」と切り出すのだ。大抵、行くのはマグノリアワインかブルーホエールで、そして、大抵、そこでうっかり飲酒をするだのという騒動を引き起こす。散々、迷惑をかけて置いて未だに出入り禁止にならないのはつくづく不思議だ。
そこまで思い起こして、息をついた。――振り返ったからと言ってどうなるわけでも無いだろうに。自嘲気味に笑って、それが矢鱈と乾燥している事にまた笑いが漏れる。
ルシアンの死を判断した時点で、ボリスにとってのこの世界は意味を無くしている。あるのは「鮮やかだった世界があった」という事実とその間の眩い程の思い出と呼ばれる過去の欠片だけだ。だが、それら自体にも何ら意味は無い。それが金になる訳でも無いし、腹が膨れる訳でも無い。役に立たない、ただの意味の無いもの。だからこそ、この世界にも意味は無い。ルシアンはそれを殊更、厭ったけれど、もうそれについて話をする時の彼の本気で怒った顔を見る事も無い。
見上げれば、空は既に星が瞬き、色を変えない薄情な月が憎たらしい程の穏やかな光を地上に注いでいた。
アクシピターに残してきてしまったルシアンを、あそこの者達はどうしただろう。ふと、気になった。まさか、直ぐにも棺桶に入れることは無いだろうが…まだ、助かる方法を探しているのだろうか。アレンの激昂の仕方を考えれば、その可能性は高い。
一先ず、戻ろうと踵を返した刹那、女の声が彼を呼び止めた。
「おーい、ボリスじゃないか。今日は一人なのか?こっちもティチエルがお子様時間で寝ちまってさ」
まあ、暇なら飯でもどうだ。快活に笑う彼女を見ながら――ああ、この人の時間も彼がいる世界で止まったままなのだと、妙な安堵感を覚える。
跳ねた橙の髪に、闇にも爛々と光る瑞々しい若葉の色を閉じ込めた双眸。しなやかな肢体の腰に彼女が自在に操る鞭を携えて佇む姿は口調と相俟って手弱女というよりも、むしろ益荒男のような雄々しさを感じさせる。
「……ミラさん」
視線の先に佇む人。夜の明かりに艶やかに笑う紅の女王、ミラ・ネブラスカ。
「何!?ルシアンが死んだ!?」
がしゃん。強かにテーブルを打つジョッキから麦酒が数滴、逃げ出したのに構いもせず、何故、と捲くし立てる蒼白なミラの顔を見ながら、ボリスは淡々と言葉を紡いだ。
妙に落ち着いた男と妙にうろたえる女の組み合わせは傍から見れば多少は滑稽だったかもしれない。
「死んだ、と言っても完全にでは無いそうです。専門家に言わせれば、魂を抜かれたのだと…」
生気が抜けたように機械的に言い放つボリスにイラつきながら、ミラは彼とは対照的に憤りに踏ん反り返って見せた。
枝豆が皿の山からころりとテーブルに落ちる。
「世の中じゃあ、それを死んだって言うんだ!」
あの糞眼鏡にその言葉をぶつけてやりたい。落ちた枝豆を拾って食んだボリスの思考は全く話に集中していなかった。そもそも、起こってしまった事実を伝えるのに逐一、感情の労力を注いでいられない。それが彼の持論だったが、対するミラはその彼の態度にも憤っていた。
ボリスとルシアンの仲は、ともすれば恋人同士ではないかと誤解するくらいに良かったとミラは記憶している。否、記憶している、というよりも、そう認識している、と言う方が正しい。毎度毎度、会う度に春の陽だまりのような会話を目の前でされては、そう判断するより他無いだろう。ティチエルでさえ「将来は良い夫婦になれますね」、なんて――本気か冗談かは定かではないが――言っている始末だ。それが今はどうだろう。ボリスの今の対応はルシアンの死を嘆くどころか、その存在すら過去の化石のようだ。そこには暖かさも柔らかさも愛しさも、人としての最低限の労わりも無い。茫洋とした様子は見方によっては死を受け入れられない躊躇いの表れとも取れるが、教科書の史実を読み上げるような硬質で無機質な口調はそれがそうではないのだとミラに直感させていた。
史実を語るのは頭の固い歴史家だけで十分だ。彼女は胸で頭を抱えて息をつく。
「……それで、それが人為的に齎されたものだとして…助かる見込みはあるのか?」
きっと顔は青いままだろう。湧き上がる固形の何かを押し留めながら、麦酒を流し込み…それでも塊は胃に落ちてはくれなかった。
からりと氷を鳴らして水のグラスを取ったボリスの冷えた声音が喧騒を遠ざける。
「単純に、奪われた魂を連れ戻せば助かるかもしれませんが…確証はありません。話を聞く限り、身体の時間を止めている魔法と魂を奪った方法は別物のようですから」
「つまり、その魔法が解ける前にルシアンを取り戻さなくちゃならないって事か…」
厄介だな。流麗な線を描く顎に手を当て考え込む。――魂とはそもそも形の無いものだ。亡霊と違い、目に見えず、触れる事も出来ない。確かに身体の一部が奪われたなら取り返せば良いが…これは別物だろう。大体、これが明確な解決策ならアクシピターも右往左往しない筈だ。迅速に指示を出し、ルシアン奪還をボリスに命じたに違いない。魂という一固体でありながら明確な線を持たないものだからこそ、ここまで手間取っているのだ。
魂、という分類はあまりに曖昧すぎる。個人の名すら持たない不明瞭な存在。それを取り戻せというのは空気を瓶に詰めて持って来いというのと同意義だった。
「で、お前はどうするんだ。ルシアンを取り戻しに行くのか?」
空のジョッキに新たに麦酒を注ぎ…
「いいえ」
手が止まった。反射的に震えた手が褐色の瓶から注がれていた泡を含んだ黄色い液体を刹那、目標から外す。
ぴちゃ、と落ちた滴が木製テーブルに染みを作った。
「……なんだって?」
声が震える。酒を飲んでいるはずなのに、体が冷たい怒りに犯されていくのを感じる。
「お前、どうするって?」
「ですから、探しには行かない、と。そう言いました」
無駄な事ですから。そう言い放つボリスの声は酷く冷静で、自分の動揺の方が可笑しいのではないかと錯覚したくらいだ。それでも、分裂した意識のもう片方が握らせた拳の、手のひらにきつく食い込む爪が可笑しいのは自分ではないのだとミラに叫んだ。
只管、やさぐれボリス。
ミラ姉さんはかなり好きな人ですね。さっぱり具合が大好きです。最初のキャラ選択でルシアンと迷うくらいには好きでした…あの鞭捌き、カッコイイぜ…!!
そんなミラ姉さんはやさぐれボリスのやさぐれ具合が情けなくてたまらなくて大っ嫌いだといいです。
2007/07/19 |