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 それは諸刃の剣に似ている。

死人の詩

 目の前に座する男の顔が鮮明になっていく。血の昇った頭の所為だとミラが気づくのにそう時間はかからなかった。
「…なんで、そう思う?」
 何故、無駄なのかと。そう思うのかと。今にも相手を殴り倒すべく反動をつけようとする身体を全力で押さえながら、それでも自らの声が格段に低くなるのは止められない。
 きりきりと麦酒が胃を焼く。
 何を根拠にそんな戯言を言うのだろう。何を根拠にそんな諦めを口にするのだろう。ボリスにとってのルシアンはその程度のものだったのだろうか。死んでしまえば、それで仕舞いの。その程度の。
 冷えた声が燃え上がる彼女とは対照的に淡々と言葉を並べていく。
「だって、そうでしょう。ルシアンは死にました。それが事実です」
 返された言葉にまた神経が炎の迸りを走らせ、目の前に火花が散る。
「完璧に死んだ訳じゃない」
「同じ事です」
 半ば遮って言葉を奪ったミラに畳み掛けるようにまた言葉が被さった。一切の反論を許さない拒絶が剃刀の如く鋭い境界を引いているのを肌で感じる。殺気にも似たそれは今の彼から感じる唯一の人間らしい感情だったかもしれない。
 いよいよ盛り上がる酒場の喧騒の中でおよそ場違いな重い沈黙が二人の間に流れる。合わせる視線は敵を見据えるそれに似て、ともすれば双方、獲物を抜き去り、斬り合っていても可笑しくは無かった。触れれば切れる緊張。蜘蛛の糸より脆い均衡。静かにぶつかり合う冷たい衝動。それでも、誰も気づかない、世界の中の些細な出来事。意味の無い瞬間。それに意識を割く者などありはしない。
 ぎり、と握った拳が意識を離れて今にも飛びそうだと彼女は思う。
 可能性を全てかなぐり捨てて、自分勝手に閉じ篭ろうとするこの男が、許せなかった。
「……それで。お前、これからどうするんだ?」
「…カルツ家に報告をして、兄を探す旅を続けますよ。勿論、賠償等は発生するでしょうが…問題無いでしょう」
 視線を外して淡々と食事を再開する彼が酷くこの場に不似合いだ。脳裏で悪態を吐こうとして…否、と考え直す。この場全体を考えるなら、殺気を振り撒こうとしている自分こそが不似合いなのだろう。
「あっさりしてるんだな」
 ああ。糞。
「放っておいて下さい」
「へぇ?」
 畜生。
「そんな風にルシアンの事も忘れるんだな」
 こんな皮肉、反吐が出る。
 刹那、止まったボリスの手に力が篭ったのに、顔を歪めて笑った彼女は気づかなかった。
「……貴方には関係無い」
 低い声が返る。
「死んだらそれまでか?…ハッ!良く出来た頭だな。理想的だよ」
「…貴方には関係無い」
「こんな家業じゃあ、相方が死ぬなんて日常茶飯事なんだろ?じゃあ、問題無いよな。慣れてるもんなぁ。お前にしちゃあ、ルシアンも他と同じ、タダの雇い主だった訳だ。そりゃ、失礼」
「貴方には、関係無い…」
 次々と零れだす最悪な言葉と律儀に返される声音に尚、イラつく。自分でもよくもまあ、こんな無責任な罵詈雑言が吐けるものだと思う。それが更に憤りを煽った。ここに亡き養父がいたなら、店の外まで張り飛ばされていただろう。自分でも、違う身体があったなら、その口を塞いで海に蹴り落としているところだ。…ああ。胸糞悪い。
「しっかし、さっさと忘れられちまうなんて、あいつも哀れだな。パートナーを間違っ…」
「貴方には関係無い!!」
 ミラの針のような言葉を退けて、食器を叩きつける音が荒げた声に重なった。フォークが折れる程の力でテーブルに手をついて立ち上がった彼の背後で倒れた椅子が、がたん、と遅れて悲鳴を上げる。
 俯いて木目を見つめたままの彼が微かに震えていると、彼女は気づいただろうか。
「貴方には、関係の無い事だ…!どいつもこいつもありもしない可能性に縋って…!何になるって言うんだ!」
 それが運命に抗うという事だ、と呆然としたまま、ミラは脳裏で返す。
「何をしたって、何も変わらないだろう。現にルシアンがいなくなってもこの酒場は賑わっていて、ナルビクには明日も陽が昇って、沈んで…何一つ変わらない。俺も生きていて…生き続けて…何も、変わらない…!」
 世界は変わらない。大きな奔流の中で、ルシアンの死など蟻が押し潰されて、その生を終えてしまうのと同意義だ。自分にとってもそうだろう。長いかもしれない生の中で、それは通過点に過ぎない。この先に進む上で、それは極些細な事なのだ。覚えていても無駄な、意味の無い感情。――そんな思いを、自分はいくつしてきたんだろう。いい加減、疲れた。
「大切なものに限って何一つ守れないなら、守ろうと思うだけ無駄なら、そう思わなければ良い。全て忘れて、何も無かった事にしてしまえば…」
 通り過ぎてしまえば…。――――ああ、それは、
「それはルシアンへの冒涜だ」
 ただ見つめるだけだったミラの口からそれはついて、零れた。存外、静かだったのは、彼女が緩やかに彼を理解したからだろう。ゆっくりと内側の灼熱が引いていくのを感じながら、再度、口の中で繰り返した。それは、冒涜だ、と。
 俯いたまま黙ってしまったボリスには何が見えているだろう。
 ミラには理解出来なかった。ボリスがルシアンを大切に想っていたのは間違えようの無い事実だった筈で…そうでなければ、この全てに無関心な堅物男が天然お坊ちゃまの破天荒さに安穏と微笑む訳が無い。本人は気づいていないようだが、彼のルシアンを見つめる双眸は親友を見るそれを越えていたように思う。あのティチエルですら、二人が幸せになれれば良い、と言っていた。それなのに何故、こんなにも乾いた言葉で終わらせようとしているのか。この席についた当初の彼女には、理解出来なかったのだ。
 瞬きで世界を閉じ、また開いて、向かいで項垂れるように俯く男を見る。
「お前、ルシアンの大切なものって何かわかるか?あいつが守ろうとしたものが何か、わかるか?」
 守ろうとしたもの。きっと、守りたいものは沢山あっただろう。
「そりゃあ、突拍子も無い事ばっかり言い出すあいつの事だ。予想もつかないのはお前もわかるだろ?だけどな、四六時中一緒にいる訳じゃない私にだって確実に判る事があるのさ」
 わかるか?言われて、考える。
 彼の守りたいものは好きなものと確実に等号で結ばれる傾向にある。筆頭は無論、家族だが、彼にとってはすれ違う程度に出会った者達ですら守りたいものに含まれていたのではないかと思う。それくらいに彼は、悪く言えば博愛主義者であったし、よく言えば、優しかった。その優しさが愚かしさになる事もあったが、それに救われた者も確かにいただろう。
 その彼が守りたかったもの。率直に問えば、何の迷いも無く華やかな笑みを浮かべてこう言った筈だ。――全部だよ、と。
 冷静に考えれば土台、無理な話だ。憎むものも、愛しく思うものも、全てをひっくるめて守る事など出来はしない。物理的に手が足りないのもあるが、心的問題の方が大きいだろう。どうしても大切に思うものとそうでないものとの扱いの間には差が出てくる。それは全てを守ることには値しない。その時点で「全てを守る」という真意は挫けてしまっている事になり、結果、全てを守る事など不可能だという結論に達する。
 自分なら、そう考えるが、彼はそれでも全てを守りたいと言うだろう。大切なものをどうして選りすぐって守らねばならないのだと言って。選ぶ事に迷うくらいなら全てを守れば良いと、笑って言うだろう。そして、自分はその笑みに眩しいものを見る目を向けるのだ。自分では絶対に届かない光を見つめて。
 ぽつりとテーブルに音が落ちる。
「…全部、だと…思います…」
 直後、向かいで肩を竦めて笑う気配がした。
「そうだな。そう答えるだろうさ。でもな、お前、気づいてるか?」
 風のように耳を掠めて通り過ぎる声の、その意味する所を捉えているのかいないのか。今にも沈み込みそうなその顔を上げさせるためなら、きっと多少の荒療治だって許される。この鈍感男には弓矢で以って真っ直ぐに射抜いてやらないと何にも気づけない。
 喧騒を吹き飛ばして、張りのある声音がボリスの頭を叩いて上げさせた。

「あいつの星の数程あるかもしれない、大切なものの一番初めにはな…お前がいるんだぞ、ボリス」

「……え…」

 そんな馬鹿な。開いたまま塞がらない口がそう語る。その様子があまりに間抜けで…ミラは思わず噴出しそうになったが、ここは我慢しなければ。――込み上げる笑いを腹の底に押し込んで、それでも口元だけはやはり歪んだ。
「なあ、ボリス。何事も無かった事になる事なんか無いんだ。起こってしまったものは覆らない。過去は確実に残る。嬉しい事も、辛い事も、悲しい事も」
 彼はそれを知っている。だから、こんなにも「無かった事」にするのに躍起になっている。全てを捨てようと必死になる。そうすれば、これ以上、傷つく事は無いと知っているからだ。それはミラも重々、承知している。生きてきた時間の中で、後悔しなかった瞬間など数える程しかないだろう。頭を抱えた回数も数えればキリがない。悲しんだ回数ですら、それこそ数えられない。
「アタシだってジュールが死んだ瞬間を思い出す時がある。忘れられないんだ。辛いよ。良かった時を思うとその分も辛い。どの場面も、もう取り戻せない瞬間だからね。一緒にいた事を後悔した事も無かったといえば嘘になる。忘れようと思った事だって沢山ある」
 気分転換に口に放り込んだカシューナッツを飲み込んで、サラダをつつく。
 忘れる事は存外、簡単だ。過去の事なんだと、割り切ってしまえば良いのだから。――難しいと思うのはそれが大切だと思うからだろう。鮮やかで、満ち足りていた瞬間を名残惜しいと思ってしまうからなんだろう。憎しみだけで覚えていられるものは少ない。大切だからこそ、宝箱にひっそりとしまいこむように覚えているのだ。…傷つきながら、どんな瞬間も。
「だけどな、どんな事も私を形成する一つなんだよ。どれが欠けてもそれは私にはならないんだ。今ここで酒を煽ってる私も私なら、すっころんで泣きべそかいた頃の私も私さ。それで、ジュールに頭を撫でられて笑った私も私なのさ。…ジュールは私を愛してくれた。私という存在を肯定してくれた。今の私の礎の一つだ。それを忘れるなんて事は自分を否定する事になるし、何より、目をかけてくれた人に失礼だ」
 つう、と涙のようにジョッキを伝う露を見ながら、これを飲んだらウィスキーに変えよう、と思った。ワインは優しすぎる。
「だから、私は忘れない。ジュールと生きた私を忘れない。ジュールが愛してくれた私を忘れない。ジュールを愛した私を忘れない」
 存在を無かった事にするのは確かに自分にとって都合がいいだろう。だが、彼らが注いでくれた意味のある時間すら無くしてしまうなら、それは彼らに対する冒涜以外の何物でもない。その瞬間全てが彼らの生きた意味であり、又、自らが生きている意味でもあるのだから。だからこそ、
「私は忘れない。ジュールを失っても、それを忘れないで生きると誓った私を忘れない」
 煌く双眸がボリスを捉える。呆然としたままの彼を置いて、口を開いたのは多分、獅子が己の子を崖下に落す、その気分を気取っていたのかもしれない。
「もう一度、言うぞ?何事も、無かった事になる事なんか無い」
 ここで事実を突きつける自分はなんて残酷なんだろうか。辛い事を他人の視点から忘れるなと言い、そして時間は戻らないと説く。彼の傷を抉り開いているのは明らかで、きっとどんな死を告げる医者よりも酷い。それでも、何もしないで大切な者の身体を朽ちるのを見る方が――苦痛だ。
 ジョッキの露がまた一つ落ちる。
「だが、その先を変える事なら出来る。その為に、可能性があるんだ」
 下手な美辞。ここで希望を振り翳すのはミラの我侭だ。ただ、何もしなかったという事実を覆すための。――――けれど、嘘じゃない。
「思い出せよ」
 さあ、動き出せ。暗示をかけてやる。その情け無い面を変えて見せろ。
「ルシアンは可能性を諦めた事があったか?」
 言葉と同時に、飛び込んだアクシピターからの使いが緊張を壊した。



 ボリスにとってのルシアンという存在と、自分にとっての養父という存在の意味は違だろう。それでも根底にある「大切だった」という想いと、「だからこそ忘れたい」という想いは同じでなくとも、似通ってはいると思う。しかし、だからと言って、それをそのまま忘れてしまうのを放っておける程、ミラは個人主義でもなかった。何より、開口一番でボリスの名を唱えるようなルシアンを、望みを捨て置いて死なせる事等、出来はしなかったのだ。―――結局、ただのお節介。…能天気なお子様二人の性格がうつってしまったらしい。
 くっ、と喉を鳴らして笑い、グラスの氷を指で回す。中で揺れる琥珀は数分前から酒場に一人、残されたミラの喉を焼いていた。
「…結局、忘れる事なんか出来ないさ」
 大切すぎる。呟き、使いを引きずる勢いで場を飛び出した彼を思い出して、また笑う。
「今度は四人で食事だな」
 自分と、能天気な娘と、能天気なお坊ちゃまと、堅物な男と、四人で。――――そうなれば良い。

 可能性が広がれば良いと、珍しく願った。



姉さん、喝を入れる、の巻。
書いてて意外と好きな話だったのを覚えていますね…。これをUPしている時点で書いていた頃から一年以上たっているわけですが…(オイ)
TWのキャラクターは皆それぞれ強いところがあって可愛いなぁ、と思います。で。一番男らしいのはミラ姉さん、と(ぇえええ)

2007/08/19