「Bonsoir! Mademoiselle!(今晩は!お嬢さん!)」
夜の深い闇の中で月明かりに照らされるその背中はあまりに小さくて、舞台用のマントで隠してしまえそうだった。
月光戯
「Non!Je ne suis pas Mademoiselle!(違う!僕はお嬢さんじゃない!)」
漣をかき消した声音に返したのは半ば、反射的だったと思う。――埠頭から足を投げ出して海原の鏡に揺れる彼方の月を眺めていたルシアンが多少、機嫌を損ねた顔でふり返れば、流暢な異国の言葉を投げた彼は悪びれる様子も無く、軽く肩を竦めて笑ってみせた。
「失礼。後姿があまりに可愛かったから女性かと思ったんだが」
「どこをどう見れば僕が女の子に見えるのさ。…用が無いならどっか行ってよ」
一瞥して、無愛想よりも失礼な口調を叩き付ける。あまり口にしない言葉に少しだけ罪悪感が胸を刺したが、そんな事に構っていられる程、ルシアン自身、今の状況を飲み込めていなかった。
残像のように脳裏に残った先の青年の銀の髪は鋭利な刃よりも、形を捉えがたい朧な月明かりに似ている。ルシアンが知っている色とは正反対の色。今は傍にいない、大切な色。最後に見たのは、あの時が最後。
思い出す事を少しだけ恐れて、瞼を閉じた。また海の向こうに視線を向けながら、自分を取り巻く歪な世界の中から少しでも普遍なものを探そうとしていたのかもしれない。だが、その月すら、どこか歪さを滲ませている気がして…結局は自分だけが取り残されているような錯覚を覚える。…変わっているのは自分なのか、世界なのか。全てがとんでもなく現実味のある悪い夢であれば良い。直ぐに朝を迎えて、いつも通りに親友に叩き起こされて、お小言を言われて、それで、巡り会えた仲間達とまたアノマラド中を駆け回れれば良い。
じわり。滲んだ視界に慌てた刹那。
「失恋か?可愛い顔が台無しだ」
零れ落ちそうな涙を吸った青いハンカチ。多分、高級品。肌触りが違う。思えば、母もこんなハンカチを持って…いやいや、そんな事ではなくて!
「何でまだ居るんだよ!!」
見れば、ハンカチを当てているどころか、隣に座って不動を決め込んでいる。距離も有り得ないくらいに近い。背も彼の方が高いものだから、傍から見れば、それこそ、恋人達の深夜の逢瀬だ。しかしながら勿論、そこに甘い雰囲気などあるはずも無い。そもそもが初対面。
音がする程の勢いでルシアンは近づいた顔を引き離した。
「どっか行ってって言ったじゃないか!」
「だから、どっかを此処にしただけだが?…ああ、動かないで。涙が零れてしまう」
ぐきん。身体を突き放そうとする腕と顔を向けさせて引き寄せようとする腕とで見事に嫌な音。
「痛ーっ!!」
「あー。ほら。言わんこっちゃない」
「誰の所為だよー!!」
「はいはい。これ以上、何かされたくなかったらじっとしていてくれないかな、お嬢さん」
悶える相手も何のその。罵倒も文句も素敵にスルー。痛みで身動きが取れないのを良い事に弾みで零れた雫を拭っていく。ゆっくりと、手際良く丁寧に。優しく頬を辿り、何度も涙の跡を確かめる指先が目元に泣いた跡を残さないように気遣ってくれているのを感じさせる。
また溢れそうになる涙を必死に堪えているのを、彼はきっと気付いているはずだ。――動くなと言われたのに俯いて、手を拒絶したのは…きっと縋らない為。
潮騒が耳を撫でる。変わらない音が。変わった世界で。この空の下。ルシアンだけを残して。――ふいにそっと引き寄せられて、抱き締められるのが女性扱いされているようで癪だ何て、そんな事、言えなかった。低い温もりが海風と月明かりに冷やされた身体を包む。
「…どうした?」
問いかける時の少しだけ優しげな調子が切なくて、彼の青い上着の胸に顔を埋めた。
「……皆、覚えてないんだ…僕の事…皆の事…」
言葉を切ったのは一時、戻った冷静さが彼に話す事を拒んだから。話して良いものなのか…どうなのか。そもそも、言って信じる者の方が圧倒的に少ない話だ。場合によっては頭のイカれた変人扱いされかねない。以前よりも冷たくなった印象さえある世界の中で、さらに氷のような言葉でも向けられたなら…正直、立ち上がれる自信がなかった。
刹那、髪に差し込まれる指の感触と、近くの吐息。
「いいよ。話して。大丈夫」
ああ、なんて馬鹿な奴。頭の可笑しい話をするかもしれないのに…。ああ、でも、気紛れでも良いよ。――きゅう、と青い生地を握り締めたのは、どうしても震えを抑えられなかったから。
小さな声が潮騒を縫っていく。
「…目が覚めたら、誰も居なくて…」
「うん」
「ナルビクに戻ったら、誰かいるだろうって…思って…でもっ、誰も、居なく…て…」
「うん」
続けて。囁いてくれる声が今は遠いあの人と重なってしまう。それは酷い事だと判っているけれど。
「…皆、誰の事も覚えてないって…!…そんな訳ないのに…僕ら…僕は、此処に…いるのに…」
「うん」
言っている自分が醜い。「覚えていない訳が無い」なんて、何様のつもりだろう。そんな事を言うのは貴族のドラ息子くらいのものだ。ああ、なんて醜い。何のために自分はあの塔に登ったの?こんな醜い思いをするためなんだろうか?――そんな訳無い。
「お父様も、お母様も…僕の事覚えてないのかなぁ…?誰も…誰も…?」
あの時の仲間も?――そんな訳無い。そんな訳無い!今すぐ名前を呼んで。手を握って。抱き締めて。一緒に歩いて!
「どうしよう…覚えてなかったらどうしよう…!ボリスも僕の事覚えてなかったらどうしよう!!」
結局、不安な事は一つだけ。堰を切ったように溢れ出す涙が頬を伝う。目の前の男が誰なのか、もうどうでも良かった。兎に角、この際、悪魔でも良いから、この不安を聞いて欲しくて。どんな事があっても一緒にいるんだと言った親友にさえ忘れられてしまったかもしれないという不安を抱えていられる程、ルシアンは強くなかった。
誰に忘れられても、ボリスにだけは忘れられたくない。今まで一緒に生きてきた時間を、無かった事にしないで。また独りにしないで。――相手に届かない言葉ばかりが口をついて零れ出る。大気に溶けて消えるだけの罅割れた空虚な羅列は意味を成さないだけ、酷く惨めだった。
嗚咽に震える背をしなやかな手が撫でたのは、どれくらい時間が経ってからだっただろう。
「じゃあ、こうしようか」
彼とは違う声。違う気配。それでも、今、自分を確かに見ている人。ゆっくりと上げた視界に映る一面の銀。
濡れた頬を、今度は指先で拭って、彼は笑う。
「オレが証言してあげよう。キミは確かに此処にいる、とね」
それは存在の証明。確かに世界に存在している証。それを知る一つ。
「キミの柔らかな金の髪も、果てを知らない空のような瞳も、絹のような白い肌も、囀る小鳥のような声も、確かに、今、オレが覚えてる」
肯定されていく、感覚。浮いていた何かがようやく何か、立てる地を得たような安定感が身体を包んでいく。止まった涙が乾き、冷やされるのをどこか意識の向こうで感じる。
ああ。そうだ。でも、そう。もう一つ足りない。銀色の向こうの夜の人。――探しに行かなきゃ。
「ボリスを…探しに行かなきゃ…」
ずるり。刹那、目の前で何かがずり落ちた。ずり落ちた相手は勿論、至極不満顔。
「あのね。人が真面目に良い事を言ってる前で何で他の男の話をするのかな…?」
「人をお嬢さん呼ばわりする奴なんかボリスの足元にも及ばないんだから!」
我に戻れば何て事は無い。探して、確かめに行けばいいだけの話。もしも、その先に最悪があっても、最善に変えれば良い。――戻ってきたのは自分らしさ。逃げていったのは恐れ。
涙の跡をそのままに、ふんぞり返って笑う。ありがとう、なんて、癪だから言ってやらない。
「仕様の無いお嬢さんだな。ま、ロサ・アルバのように笑ってくれたから良しとするよ」
そう言って身軽に立ち上がる彼の仕種は気障な癖に似合っていて、更に癪だ。
「行っちゃうの?」
「オレも暇ではないし、何より他の男の名前を出されてしまったからね」
暇じゃない癖によくこんな所で油を売れたものだ。音にならなかった言葉は唇を尖らせただけに留まる。
風が彼の上着をはためかせている様子が、まるで飛び上がる鳥のようだと思った。――合わせて来る瞳は髪と同じ月の色。
「またキミの話し相手なりたい。キミが望んでくれるなら」
「返せるものなんか無いよ?」
今は、まだ。言えば、彼はまた笑う。
「物でなくて構わない。…そうだな。今日はこれで」
不意に風が止んだ。柔らかく金の髪を絡めた指先が、額を晒させて…触れる、暖かな感触。一瞬で離れたそれは幻想的な月夜に照らされて、暖かな御伽噺の一遍のようにルシアンの時間を止める。
「大サービスだ。次はその朝露に濡れるさくらんぼのような唇を頂く」
呆然とするルシアンを残して、踵を返す姿は喜劇舞台の役者めいていて、自分もその舞台に立っているのではないかと錯覚する。
「オレはヨシュア・フォン・アルニム。また会おう!Une belle Mademoiselle!(美しいお嬢さん!)」
一度だけ振り向いて闇に消えた姿は、まさに朧月。
彼…ヨシュアと名乗った青年の去った先に目を向けたまま、ルシアンはゆっくりと額に手を当てた。途端、顔に熱が集中し始める。――キスされた!まるでボリスがしてくれる時みたいに!ボリス以外の人に!
「……お嬢さんじゃないって…言ったのに…」
呟いた言葉に返るものは無かったけれど、眺めた月は、さっきと少しだけ違う色をしていた。
明かりの消えた大通りを歩きながらヨシュアは話しかけてくる見えない彼らに言葉を返す。
「え?ああ、確かに可愛かったが…お手つきみたいだ」
残念。そう呟いた声に返る葉擦れの音。
「ま、お相手が姫君の近くに居ないんじゃ、攫っても誰も文句は言わないだろうがね」
舞台には可憐なヒロインが居なければ話にならない。
「次に会う時には薔薇の花でも持っていくさ」
――――勿論、攫うなら、盛大にドラマチックな舞台の幕が上がってから。
す、すみません…!!こんな事、あったらイイナッって!!!!(ガタガタブルブル)
世間様はヨシュマキで燃え上がってるのに!!ゴメンナサァイィィィイイ!!!!
だってさ、だってさ!EP2だと皆8人の事を覚えてないと伺ったもので…!他に使える人が居なかったと言いますか…!…………対抗馬(?)を作ってみたかったんですよ…ええ。
ちなみに、ロサ・アルバは薔薇の種類です。ウェディングローズとして知られているもので、花言葉は「幸福な愛」。………アルバ種だけでも結構あるのですが、クロ的には純白のマキシマでお願いします(死)白薔薇の花言葉で探せば意味がでますよ…(笑)
2007/03/6 |