ホットミルク
寒い。そう思う頃には冷え切っている身体を抱え、ヴェインは褥でサルファを抱いて丸くなった。
山奥の、廃屋とすら呼べる家のあちらこちらから吹き込む冷たい夜風が唸りを上げて耳を冷やす。幾枚にも重ねた薄い毛布の隙間からも舐めるように入り込むそれが眠りの国を遠ざけて、ヴェインを困らせた。勿論、それは今夜だけに始まった事ではないが、こう何夜も続けばそろそろ疲労が顔に浮かぶ。眠ろうと努力する程、神経はささくれ尖り、目は冴えて、仕舞いには当たりどころの無い苛立ちまで燻る始末。
「はぁ…」
漏れるのは溜息。ぴくり、と腕に抱くサルファの耳が震えたのが見えて、氷のように冷えた素足をすり合わせながら、ヴェインはこそりと囁いた。
「…ごめん…起こした?」
眠れないのは自分の都合で、相手の安眠を妨げて良い物ではない。それ以前に、他人の迷惑になるような事はしてはならない。家族と呼べる存在がいないヴェインでもそれくらいは理解している。それでも周りの他人との折り合いが、お世辞にも良いとはいえないのは何故だろうか。少し前にはよく考えていた事も、今では仕方が無いと割り切ってしまえるくらいになってしまった。近づかなければ、互いに傷つくことも無いと知ってしまった。身勝手といえばそうかもしれないが、それ以外に自分と他人の日常を穏やかにする術をヴェインは知らなかったのだ。
もぞりと動いて顔を上げたサルファがにゃあ、と啼く声が、今はヴェインの全て。――眠れないのか、と訊いた彼に対して、ヴェインは困ったように笑った。
「…うん…なんか、寝つき悪くて…」
参ったな。枕に顔を埋めながら儚く微笑む、それすら、彼にしてみれば大きな変化だ。サルファがいなければ、表情筋の一筋すら動かす事は無いだろう。誰もいない家に、一人で、誰とも関わることなく暮らす。それがどれだけ寒々しい事か。迎える人も無く、叱ってくれる人も無く、褒めてくれる人も無い。それはどれだけ虚しい事だろう。特別、怒ることもなければ、笑うこともない日常を人形のように生きるのを辛うじて救っているのは紛れもなくサルファの存在だ。
ヴェインは凍える孤独を知っている。血塗れた刃のような罵声を、射抜く矢のような視線を知っている。それを思うほど、サルファはまだ彼のもとを離れる訳にはいかなかった。
喉を鳴らして、黒猫はふいに身を起こした。軽い音で冷えた床に降り、ついてくるように促す黒い尻尾の白い先端がゆうらりと闇に舞う。
「…サルファ?どこ行くの?」
にゃあ。また短く鳴いて先を行くサルファの背を追って、彼は裸足のまま褥から抜け出した。
破れた窓から吹き込む夜風。身に霜を降らせるかと思うほどの冷え込みはやがて雪を連れて山を白銀に染めに来るだろう。魚が川底で身を固め、獣が穴倉で眠り、草木が耐え忍ぶ冬。春までの長い季節。美しい氷の芸術はそこで暮らす者には牙を剥く獣に等しい。
雪が降ったら、家が埋もれないようにしないと。思いながら、着いた先は――台所。
綺麗に片付けられた調理場に佇んだ黒猫が少し焦げた手鍋を指して鳴いた。
「え?…ミルク?暖めるの?」
こんな時間に?お腹でも減ったのだろうか。見当違いな事を脳裏で呟いて首をかしげながら、乳白色の液体を火にかけて、良い温度になる頃、脚もとからまた、にゃあ、と声がする。――暖かな湯気を立ち上らせたそれを皿に入れようとしたヴェインは目を丸めた。
「…ええ?僕が?サルファが飲むんじゃないの?」
「にゃあ」
いいから飲め。有無を言わさぬ口調で見つめる黒猫に、彼は手にした皿を戻して、代わりにマグカップを取った。――こんな時のサルファには中々敵わない。
「…わかったよ。飲んでみる」
こぽこぽこぽ。鍋から移したミルクの甘い香りが暖かな蒸気に含まれて鼻を擽る。ふぅ、と吹けばほんわりと白い靄を闇に昇らせて消える温もりを見ながらカップの中身を啜れば、気管の奥に溜まった何かが軽い溜息と共に零れた。
「おいしい…落ち着くね」
柔らかい湯気。穏やかな味。凍りついた身体を温めるホットミルク。温もりを一気に飲んでしまうのが勿体無くて、ちびちび啜るうち、意識がとろりと溶けて瞼が重くなる。
眠気の欠片すら無かったはずの自分に突如訪れた変化に、ヴェインは目を擦った。――眠い。
「…眠くなってきちゃった…」
今にもその場で眠ってしまいそうな虚ろな目。目に見える眠気は足元すら覚束無くさせて…それ以上、危険になる前にサルファは彼を上手く動かしてマグカップを流しに置かせ、寝室に促す。
ホットミルクが安眠に良い、などとは迷信だと思っていたが、どうやら本当だったらしい。それとも子供のようなもので、腹が満たされれば眠くなるものなのだろうか。ヴェインがこの世に生まれた実際の時間を考えればそれも納得出来るが、人以外に適用出来るかどうかはまだ断定しかねる。
こしこしとしきりに目を擦って意識を保とうとする、あどけない顔の彼は自分が何であるのかを忘れてしまった。何も、覚えておけと言っているのではない。忘れてしまって良かったと思う節が無いわけでもないのだから。生まれたばかりの赤子同然のあの時の彼に、あの情景を覚えておけというのはあまりに酷だ。
サルファの思いを他所に、壁にぶつかりそうになりながら漸くたどり着いた褥にもぞもぞと入り込んで、ヴェインは綺麗に笑う。
「…サルファ…ありがと…おやす、み…」
蕩けるような愛らしい微笑み。この笑顔が人形のようになってしまうよりも、忘れてしまった方が良かったのだろう。
そう結論付けて、黒猫は子供の腕の中で丸くなった。
かつて、天才錬金術師と謳われた男が眠った褥で、全てを忘れた銀色の子供が眠っている事に多少の違和感を感じながら。
前回から気を取り直して取り組んだ冬の飲料シリーズ。ほのぼのを目指してみよう!と意気込んでみた今回のシリーズですが、書き始めたら何となく切な目な感じに…。
ヴェインの自我がいつからあったのかはわかりませんが、生活のアレコレはサルファが教えていたんだろうなぁ、と思います。うっかり食べ物を生で食べようとしちゃうヴェインとか…ハァハァ…萌える!まあ、それ以前に「お腹がすいた」という感覚自体もわからなかったかもしれないので、そこからだった可能性もありますね…。どっちにしろ、所期の妖精ちゃんは痛々しいくらい無表情・無感動だったりとかしたら…も、萌えないか…!?(聞くな)
「飲め」
出されたそれは、甘い香りがした。
ココア
自分が見つけなければ、夜が明けるまであの冷たい廊下の窓辺に佇んでいたに違いない。ロクシスは自分の紅茶をカップに注いで溜息をつく。――見つけたときは肝が冷えた。一切の明かりが消えた廊下で、透明な柱のように差し込む月明かりを浴びて開いた窓辺に佇む、薄い夜着に包まれただけの姿。銀色の髪がふわりと輝いて身を包み、いつもは愛らしい光を宿す青い双眸が虚ろな暗さで虚空を見つめる。縁にゆるく添えられた白い指先が儚さを際立たせて、それは確かに一枚の絵画のように美しかったが、同時に酷い危うさがあった。
先日、知らされたばかりの事実が彼に絶望を与えた事を知っている。その矢先の、あの状況で、彼が自害を考えていない、と誰が断言出来ただろう。
慌てて、華奢な身体を抱きしめて止めた自分にヴェインは目を丸くして驚き、そんな事はしないと穏やかに笑ったが、結果的に勘違いだったとわかっても、ロクシスはヴェインをあの窓辺から引き剥がした事を後悔していなかった。
動揺は勿論、ある。問い詰めたい事も。しかし、それ以前に今は彼の冷え切った身体を暖める方が先だ。
自分にはいつもの紅茶を。ヴェインには、棚をひっくり返して漸く見つけたココアを。――強い甘い香りがロクシスの簡素な部屋を満たして暖める。
「飲め。いつからあそこにいたのかは知らないが、冷えただろう?」
しかも裸足で。小石を踏んで傷ついてしまった小さな足に貼ってやった絆創膏が痛々しい。手当ての為に触れた身体は氷のように冷たく、硬直すらしていて、彼があの場にいたのがたかだか数分の事ではないのだと知れた。
理由を深く聞かなかったのは、慰めの言葉がペテン師の空言のようになってしまいそうだと思ったからだ。だが、所詮は事実から逃げているに過ぎない。
ココアの渦がゆっくりと回る。
「……訊かないの?」
整えられた褥に並んで座り、平静を装うのはどちらか。多分、両方。
控えめな口調で見えない境界線に片足を踏み込んだヴェインを一瞥して、ロクシスは自分の瞳と同じ色のカップの中身を啜った。
「訊いて欲しいという顔を、まだしていない」
「…そっか」
短く返して、沈黙。彼の気遣いが嬉しいのか、苦しいのか、わからない。――手にしたココアを前にしてヴェインはまた一口も手をつけないまま、押し黙った。
甘い香り。億劫な動きで回るココアの渦。暖かな熱が指先からじわりと滲んで手首まで暖める。
「…冷めるぞ」
冷めてしまっては意味が無い。少なくなった湯気を気にしながら言ってやれば、細い声が返った。
「うん」
諭すような声に動かされて、漸く一口啜る。鼻を擽る湯気。口に含んだ瞬間に広がる濃厚なカカオの香りと少し重みのある熱い液体。乾いた舌を潤して、じりじり痛むほどの喉を和らげて、身体の奥に染み込んでいく。広がる熱が氷のように固まってしまった身体を溶かした。
安堵にも似た吐息が漏れる。
「…あまい…」
「そうだろうな」
簡潔な言葉に返って来たのはやはり簡潔な言葉だけだったが、ヴェインにはそれだけで十分だった。―― 一人ではないと、そう思うには。
こつりと隣の肩に頭を凭れて、もう一口啜る。
「おいしい」
「私が入れたからな」
甘えるように擦り寄りながら、また一口。
「あったかい」
「そうだな」
何故、彼の部屋にあるのかと思うくらい甘いココアが少しずつ減っていく。反対に身体は温もりと甘さで満たされて…奇妙な反比例に少しだけ笑いながら、ヴェインはロクシスにしな垂れかかって甘えた。――舌を包む優しい味は彼を表すようだと思う。どんなに擦り寄っても拒絶しない、優しい人。
掠れていく世界と遠退いていく意識が、自分が眠りに落ちようとしている事を知らせたが、ヴェインはこの温もりをもう少しだけ感じていたかった。
「おい、ヴェイン、ここで寝るなよ?」
声が聞こえる。優しい声が。
「…うん…でも…」
まだ、もう少しだけ、このままで。
力の抜けた手からココアのカップを抜き取って、今日は褥が狭くなりそうだ、と残された彼は微苦笑を洩らした。
ロクシスがロクシスのくせにイイ思いしてやがるSSになってしまったココア…!ホットミルクの可愛さからは一転、ロクシスへの嫉妬が滲みそうになるブツとなりました(ぇ)
時間軸的には12話冒頭辺りでしょうか。ヴェインへの風当たりがきつすぎて、あの子、自害しちゃうんじゃないかと心配になるあの辺り。
人間じゃない、と言われて平気じゃない人なんているわけが無いと思うわけでして。そんなヴェインをロクシスがうっかり癒してあげちゃったよ、という話。とりあえず、奴は一緒のベッドで寝る気満々です。ケダモノめ!(お前がな!)
はちみつレモン
はふはふ、ふー。はふはふ、ふー。実に可愛らしい擬音をくっつけながら、両手に包んだマグカップの中身を冷ます可愛い子は口をつけてはそれの熱さにびっくりして、最初の行為を繰り返した。
はふはふ、ふー。はふはふ、ふー。二人っきりのアトリエのソファの上。可愛い子は両膝を抱えて身を縮める。
そんな愛らしい行動を繰り返すヴェインを見ながら、アトリエに残るもう一人であるロクシスは失敗した試験管の中身を憮然とした顔でバケツに捨てた。ちなみにこれで五回目だ。横目で見るたびに失敗するのに教訓にならないのはしきりにカップの中身を冷まそうとする彼の可愛さの所為だと理不尽な逆恨みすらしている。
はふはふ、ふー。…畜生。可愛い。懸命にカップの中身に息を吹きかける彼が可愛くてしょうがない。
やってしまいたい調合があるが、これでは材料を無駄にするだけで終わりそうだ。錬金釜を一瞥して溜息をついたロクシスは調合を諦めて、手元を狂わせる原因に向き直った。
「…さっきから何を飲んでるんだ?」
「ふぇ?」
許可を得るのも億劫で、寧ろ、拒絶させない為に勝手に隣に腰を据えたロクシスにヴェインは間の抜けた声で応える。
ふいに沈んだソファのスプリング。隣に傾きかけた身体をなんとか支えて――そのまま倒れてきてくれてもいいのに、とは死んでも口には出せないのがロクシスだ――、ヴェインは手にしたカップから立ち上る湯気のように暖かで穏やかな笑みを浮かべた。
擬音をつけるなら、ほんわり。
「えへへ…はちみつレモンだよ。ロクシスも飲む?」
少しだけ恥ずかしそうに染まる頬が殺人的だと思う。ぐらぐら揺れる理性を金槌で打って必死に固定しながら、ロクシスは少しだけ視線を逸らした。しかし…なるほど。言われて、今更、その香りの正体に気付く。――甘い香りの中に含まれる清涼な雰囲気。蜂蜜の纏わりつくような甘さを軽減するそれは爽やかな柑橘のそれだったのだ。
鼻腔に届く優しい香りに肩の力抜いて、ヴェインの勧めを丁重に断りながら、彼はソファに身を沈める。
「いや、私はいい。…だが…この香り…少し蜂蜜が多いんじゃないか?」
伊達に菓子作りが得意じゃない。清涼感よりも若干、甘味の強いそれに気付いて言えば、ヴェインは目を丸めて返してきた。
「え?…そうかなぁ。僕はこれくらいが好きだけど…」
温かいカップを手の内で遊びながら桃色の唇を尖らせるヴェイン。――ああ、くそ。思わず目を向けてしまった自分が非常に不埒だ。アンナがいたなら破廉恥だと刀を抜いて襲い掛かってきてもおかしくない。…だが、今、一瞬だけなら悪戯も許されるだろうか。誰もいないのは好都合。
はふはふ、ふー。息を吹きかけて、甘いはちみつレモンを啜った唇。甘い香り。甘そうなふくらみ。――見計らって、狼は苺を奪った。
「んっ…!?」
短い悲鳴すら奪う口付け。しかし、一瞬でそれは離れる。
奪った唇の余韻を味わうように己の唇を舐めて、不敵に笑う彼は言った。
「私はもう少しレモンが多い方が好みなんだがな」
「ばか」
言葉で一矢報いながら、湯気の熱とは違う熱で頬を熱くしたヴェインの飲むはちみつレモンのレモンの量が今年の冬から少しだけ多くなったのは、ここだけの話。
あれー?ヴェインの可愛さを書きたかったはずが、ロクシスまでイイ思いをしているという罠…!でも自分から「私に寄りかかってもいいんだぞ」と言えないのがヘタレロクシス。そのくせ、ちゅーは出来るエロクシス。そして気付いたらバカップル。
はちみつレモンをふーふー冷ましながらちみちみ飲むヴェインとか…ハァハァ…襲いたくなる気持ちは分りますがね!
2008/01/05 |