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 多分、それは恐怖に似て。

子猫の憂鬱

 それは大変、好ましく無い事なのではないかとホムは思うのだ。何が、と問われれば返す言葉に迷うが、兎に角、それは大変、好ましく無い。
 此処で生まれた頃――正確には完成した頃、というべきなのかもしれないが――、彼女がマスターと認識している少女には既に助けの手が少なからずあった。だが、勿論、彼ら全員が錬金術に通じているかと言えば答えは否で、そうなれば、当時は知識に乏しかったとはいえ、最低限の調合や採取くらいは出来た彼女はマスターにとって大きな助けだったのだと、口にも顔にも出さないけれど、本人は自負している部分がある。
 色々な事を学んで、身につけていくにつれ、自分の妹のように――彼女にはそれがどういうものなのか全くわからないのだが、マスターが喜んでいるなら良いのではないかと思う――接してくれるマスターは様々な事を命令してくれるようになり、それを嬉しく感じる自分がいたのは確かだ。仕事がしたい、と進言した事もある。
 ホムにとってマスターの為に仕事をするのは存在意義そのものだった。
 それが、何故、横から出てきた騎士の男に役目を奪われなくてはならないのか。今もマスターに呆れながら、依頼の為に、と代わりに買い物に行こうとしている。何故、彼が行くのか。答えは簡単だ。ホムが別の調合をしているから。確かに今は手が離せないが、声くらいかけてくれてもいいのに。ちらりとこちらを一瞥しただけの少女はひぃひぃ言いながら釜に縋り付いて欲しい物を紙に書き留めている。
 何の価値も無い筈のただの白い紙がマスターの柔らかな手から無骨な男の手へ渡ろうとした瞬間、眉間を寄せた彼女はついに釜を掻き回していた棒を放り出して、力を込めてひっぱれば容易く裂けてしまうそれを荒々しく奪い取った。
「…え、っと…ほむちゃん…?」
 からからから。背後で掻き棒が床で踊っている音がする。大事な所で放り出してしまった調合は明らかに失敗だ。折角の材料も全て台無しで、ホムは全くマスターの言いつけを守れなかったどころか、邪魔をしてしまっているけれど、今更、奪い取ったこの紙を渡す気にはなれなかった。
 戸惑いの色に揺らめく蒼い瞳を見られずに、呆然とこちらを見てくる騎士を睨み返す。

「ホムの役目を取らないで下さい」

 きゅう、と寄せられた眉。心持、つり上がった目。無表情ながら、瞳に浮かんでいるものは静かな怒りだ。共に生活しているロロナですら、こんなホムは初めて見る。こなーを飼う事を禁じられた時でさえ、反発はしたものの、こんなに感情を露わにはしなかったのに。
 湖面を打つような言葉を発したきり黙りこんでしまうホムを困ったように見詰めて、ロロナは傍らで同じくホムを見詰めるステルクを一瞥した。
 思い返して、彼女が怒るような事は何一つ無かったと思う。そもそも、怒るという事自体、彼女には珍しい。まだ感情の発露が顕著でないホムがこんな衝動的じみた行動に出るとは考え難かったが、現にステルクに渡そうとした紙が彼女の手に握り締められてしわくちゃになっているのだから、無視できない事実なのは確かだろう。
 師匠なら何と言っただろうか。途方に暮れかけて、人と同じ感情を抱き始めた彼女を研究対象のように見るのも如何なものだろう、と思い直す。彼女は生まれてまだ間もないのだから、そのように考えればいいのだ。
 始まりはまたしても依頼を多く受けすぎてしまってあたふたしている所にステルクが依頼の進行状況の確認に来た事からだったと思う。丁度、調合が佳境で、しかし、お決まりのように材料が足りない。ホムには別の調合を命令していたし、自分は手が離せない。そうなれば、頼みの綱は戸口でアトリエの忙殺具合に唖然とするステルクで。忙しそうなホムを一瞥して、泣きながら買い物を頼んだロロナに呆れた顔をしつつ、結局は引き受けてくれた彼に釜を掻き回しながら感謝したものだ。急いで紙に頼み物を書き込んで渡そうとした所に、調合をしているものだとばかり思っていたホムが走り込んで来て奪い取ってしまった。
 ホムにしては珍しく、それと分るくらいきつくステルクを睨みつけているのを再度、認めて、ああ、とロロナは小さく息を吐いた。
「……そっか、ほむちゃん…自分が除け者にされたと思っちゃったんだね…」
 いくら彼女が忙しそうだからといって、声くらいかければ良かったと後悔に似た思いで胸を満たしながら、しわしわになって、皺を伸ばすのも大変そうなくらいにめしょめしょになってしまった紙を握り締めるホムの手に触れる。
 彼女を軽く見ているわけではないけれど、結果的に彼女にそう思わせてしまったのだ。それはきっと、置いてけぼりにされたようで、哀しかったに違いない。今のホムにそれが理解出来ているかは定かではないが、無理な行動に出る子ではない事はロロナが一番良く知っている。それが仕事の邪魔になるものなら尚更だ。
「…よく、理解できません。ですが、ホムの存在意義はマスターの為に働く事です。これはホムの仕事です」
 ふんわりとした長い袖の下。隠すように紙を握り締めて、じっと威嚇をするホムが考える事は何だろうか。居場所を守る為に必死に二人の間に入ってくる異物を排除しようとしている姿は家族を取られるのを阻止しているようにも見えて、真剣な彼女には悪いが、微笑ましい。何より、存在意義という義務で括っているとはいえ、部外者に役目を譲りたくないと思うくらい此処を自分の居場所だと思ってくれている事が喜ばしかった。
 無表情の癖に、今にも泣き出しそうなホムの手をそっと握って、目線を合わせる。――この目には何が映っているのだろう。きっと、人間よりも純粋な何かだ。
 ぐつぐつ煮えすぎた釜から漂い出した、お世辞にも良いとは言えない臭いが失敗を知らせるのを苦笑で誤魔化すロロナにはアトリエに影を落とすもう一人の戸惑いすら可笑しくて、抑えたけれど、やっぱり抑え切れなかった笑い声が小さく洩れた。
「お買い物、手、繋いで行こっか!」
 勿論、皆で。ホムの手を握りながら言う彼女の顔はいつものように微笑んでいて、触れる体温も暖かで、失態を犯したホムを叱る素振りも無い。
「…怒らないの、ですか?」
「どうして?」
 訊いてくるのは答えを期待しているからだろう。少し首を傾げて待ってくれるマスターに、しかし、ホムは喉を詰まらせるしかなかった。
 怒られたいか、と言われれば、よく分らない。命令を遂行出来なかった事に対しては相応の罰を受けるべきだろうとは思う。だが、肝心のマスターは全くそんな気が無いらしい。そうなればこの気負いめいたものは全く意味を成さないもので。――――ああ、今は、兎に角。
「……買い物に、行きます」
 きゅ。優しく触れた指先を躊躇いがちに握り返した手から、くしゃくしゃになった紙がぽとりと落ちた。





「えい」
「ぐっ」
「きゃあああ!?ほ、ほむちゃん!?」
 三人で買い物に行った先で、ホムが買ったばかりのうにをステルクの後頭部に投げつけてまた一悶着あるのは、また別の話。



マスターを取られまいと嫉妬心剥き出しにするホムが書きたかっただけの代物。ホムは可愛いなぁ、という萌えから始まったものだったわけですが…思いがけず楽しく書けました。
敵対心剥き出しにする相手がステルクなのは趣味ですが(…)、仕事したい子なホムはアトリエの人間関係に他人が入ってくるとちょっと複雑な心境になるんじゃないかと。ロロナが頼ってくれる部分を他の人にとられるのが嫌なほむちゃん。というか、実は私がロロナ大好きなほむちゃんが好みなだけですが(おい)お母さん取り合う旦那と子供万歳!(本音がはみ出てるよ!)
ちなみに「彼女」の部分を「彼」に変えると、多分、ホム男SSとしても読めるかと思います。

2009/10/22